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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

普通なら考えられない選択 

26歳の時、3年の約束で親戚の木工所で家具作り修行をやった、でも3年もやるうちに自分は家具を一生の仕事にするにはちょっと違うと感じた、どうせやるならもっと面白いことがしたい、、それで僕はカメラマンの道を模索した。
でも当時の常識では、カメラマンは狭き門と言われ、自分の写真でお金をもらえるカメラマンになるには何十人のうち1人なれるか、なれないか、そう言われた時代だったからカメラマンを志すことはそれなりの覚悟と恐怖心が隣り合わせだった、でも僕はあまり周りの話は信じない、それが返って幸いしたのか、または、狭き門、何十人の一人だったかは知らないが、今、こうして自分のやりたいようにやっている。

もう26になったし、今さら写真学校に行く気はなかった、行かなくても何とかなる気がした、カメラマンの知人もいなかった、でも調べた結果、名古屋にも商業写真のスタジオがいくつかあり連絡を取って訪ねて行った。
当時の名古屋の商業写真の仕事ぶりは僕がイメージした写真家ではなかった、いろいろ話しを聞くと僕の考えとそのスタジオの考えでは、埋めがたいズレと言えばいいのか、接点がまるで感じられなかった、自分の考えを話すと、相手から説教されたような口ぶりでこう言われた。
あんたの考えは話にならない、26にもなって写真学校すら行ってない、それで助手にして下さいは、あんたちょっとズレている、あんたの考えは26のわりに幼い、まるで夢を見てるしか思えない、そんな考えじゃあやって行けないよ、あんたの考えでカメラマンでやってるのは世の中のほんの一握りの才能のあるヤツだけだ。
他のスタジオも多少の違いはあれど同じような答えが返ってくるばかりだった、覚悟して行ったけど、現実はそんなものか、、と思った、これからどうしようか、迷ったが知人の紹介してくれたスタジオがウチで良ければ取ってあげるよ、、と言われ働くことにした、でも半月やってやっぱり自分がしたいこととはまったく違った、そのままそこにいる気もしなく取ってくれた相手には悪かったが、僕はそこを辞めてすぐ上京した。

僕の人生はそんなことの繰り返しだった。当時を知る名古屋の友人はこう語る、あの時はコネもない、当てもない、まったく先行きが見えないのに、よくやったよな、、、と言ってくれる、側から見たらそうかも知れない、でもこんな生き方をするには、そんな考え方、決断力、微かな直感を頼りに行動できる感性がなければ、この生き方は成り立たない。
ここ最近このブログに書いているように、作品を作るにしても同じ、作品は感性が豊かであれば作れるのではないと思う、 自分の心の奥に微かに見える直感を信じられるかどうかだ、これがしたい、これが描きたい、これが表現できたら楽しいだろうな、、、始まりは微かな閃きから始まる、それを感じたら温め続け実現するように、心のセンサーを全開にして直感を実行してみる。
生きていればいろんな壁がある、周りからいろんな影響、横槍も受ける、経済的に見たら絶対にNGを選ばないと前に進まないこともある、損得、常識で考えたら、周囲の意見を聞いたら、絶対にあり得ないない選択をするしかない時だってある、 人から理解が得られないこともある、世の中に対しどこかケンカ腰になりがちなこともある、そうしないと自分に出会えないこともある、それで周りから干されることもある。それですごく不安に陥ることもよくある。
でもここで言いたいのは、自分が感じたことはやって見るしかない。

新ためて、、、作品に向き合うについて(4) 暗黙知と形式知 

今年の念頭に何回か書いた内容について、これまで自分が写真を撮るときに、良いと信じてシャターを切っていた、その考え、感覚、思いに対して最近は少なからず疑問を感じ始めています、今までならば、カッコいいと思ってシャッターを切っていましたが果たしてそれは自分の思いなのかな?それは無意識に外から入り込んだ思い、誰かに影響された想いとか、自分から出た思いなのか、どうなのかな?ってその感覚を疑い始めています。
今は撮る瞬間に立ち止まって、考えたり、逆にこれまで撮らなかったモノを素通りしないで撮って、その上がりをじーっと見たりしています、今までなら撮らなかった状況に対し果たしてどうなのかな?そこに美意識はあるのか、今まで気が付かなかった、違う何かがあるんじゃないのか?って問い直しています。
これまでの感覚は無意識に過去から蓄積した自分に影響されているんじゃないか、写真を学ぶ過程で無意識に吸収した感覚だったり、だんだん良い写真だと思って来た基準がわからなくなっています。
これは自分の感覚、自分の直感に対し一定の信頼を持っていないと迷いの森にハマり込んでしまう行為ですが、逆に今だから気持ちに余裕が出たから迷いの森の中に入っても構わない、たまには迷いの森に入り込んでみたい、もう一度、自分の無意識、自分の深層の美意識って何なのか出会い直したい、それをやらないと作品作りは無意識にパターン化し、それじゃあ撮っても楽しくないと思います。
自分も含めて、人の写真作品展でよく感じることですが、撮り方のパターンで撮っている作品だなって思うことがよくあります、作品から直感的な閃きが感じない、それが悪いと否定もできないんですが、パターンで撮るよりもっと直感的に撮りたいと思っています。

暗黙知と形式知という概念があります。
暗黙知というのは職人とか芸術家たちの経験による勘、直感、深層の思い、具体的で物質的ではない認識を指しますが、形式知というのは具体的に説明できる概念、物質的な概念を指します、今の世の中は昭和に比べて物事の管理、人材の管理、データ化されたシステム、効率的な社会、管理された教育、などなど、、、。
これらの時代感覚は無視はできず無意識に思考は影響されます、この呪縛から自由な人ってそう多くいるとは思えないんですが、一方で今の時代、才能を持った若い子達の活躍ぶりを見てると僕らが若かった頃より自由な感性を持っているとも感じています。
さてこの時代に僕はどんなトロイヤの遺跡が発掘できるのか、自分の中の暗黙知に向き合ってみたいと思っています。

新ためて、、、作品に向き合うについて(3)  

これまで書いたものを読み直すと相変わらずゴチャゴチャ書いてると思います。
これでは言いたい話が分かりずらく伝わらないと思うので今日は趣旨を変えようと思います。
心の深層の夢を実現させた偉人を上げるなら僕は最初にシュリーマンが浮かびます。随分前に読んだ話なので詳細部分では間違いがいくつかあるかも知れませんが、そこはたいして重要ではなく気になる方は各自で調べていただけたらと思います。

シュリーマンが生まれたのは1822年ですから明治維新よりも50年も前の方です、牧師の父親から幼い頃にトロイヤの遺跡の本をもらいます、世の中でトロイヤの遺跡はもはや幻の遺跡と言われていたそうですが、シュリーマンはそれにかなり取り憑かれたようです。
その後シュリーマンは貿易商に就き10カ国語以上を完璧にマスターするほど語学才能は優れていましたが、その話はシュリーマンの有名な逸話の一つです、事業は順調で巨万の財産を得、シュリーマンが50歳くらいの時、順風満帆だった事業を惜しげもなく手を引き心の中に燻っていた夢、トロイヤの遺跡発掘事業にすべてを賭けます、どれだけ時間がかかったは分かりませんが、トロイヤの遺跡を苦労の末、発掘します、ざーっと簡単に書きましたが、だいたいこんな内容です。
シュリーマンについてネットで調べると僕の思いとは真逆で否定的な意見もパラパ見られます、シュリーマンは夢実現させたくて遺跡発掘したのではなく、貿易商よりも遺跡発掘の方がビジネスとして価値があった意見、現実のシュリーマンの話しより多くは誇張された美談でしかないとか、、、。
シュリーマンを参考に深層心理を説明しましたがスケールがやや大きすぎた気もしますが、深層の思いは表層の思いとは次元の違う、深層の思いのすべてが夢とは言えないが深層の思いには人の深い思いがあることが言いたかったわけです、深層の思いは動物的直感のような意識と言えばいいのかそこに物語があるように思います。
現実生活は目先の結果を重視しやすくどうしても現実的な考えに偏ってしまいます、深層の思いに対し表面的な思いの方が現実的で実態があるように思われがちです、たしかに否定できないところでもあるんですが、だからと言って深層の思いを軽視し続けると歪みが出ます、自分に出会いたくてもたくてもどうしても自分に実態が見つけられず、どうしたら自分に出会えるのか、自分でありながら自分の心が自由に掴めなくなっています。
特に現代のスマフォは簡単に情報が手に入ります、たしかに便利な道具ではあるんですが、一つ一つの情報の軽さ、実態のない情報をいつも感じます、そのツールに浸っていながら自分に向き合う能力、自分から実態を感じることはとても難しいことに思います、もしSNSツールに長けていながら自分の内側から実態を引き出す能力にも長けているとしたら、それは大変な才能の持ち主、自由な思考の持ち主だと思います。
ユーミンの初期、荒井由実時代、あいみょんを聞く度に感じるのは、彼女たちは心の奥の想いが見事に現れていると感じます、あれはテクニックではなく思いを上手く引き出せる感性と言えばいいのか、人にはマネができない思考力才能を感じます。

さて話を本題に戻しますと、作品を作るには、自分自身のトロイヤを見つけカタチにしないで表層的な思いで表現したところで、作る前からどんな結果になるかが見えます、表層意識は現実的な情報としては有効ですが表現としては人の心に何かを伝える力としては弱く実態がない。
今年の念頭、ブログで何度か書きましたが、新たな作品を作りたいと思っています、さて何を描こうか、ずーっと考えてきいます、風景にしようか、人物にしようか、モノを撮ろうか、デジタルか、アナログモノクロか考えたら、まずその考えから入ること自体がつまらない考え方に思えました、そんなものはもっと次の話でもっと肝心な中身から入るべきです。
そんなものは本題ではなく、もっと本質は別の次元のことじゃないか?と自分のモノの考え方はこれまで無意識に吸い取った思考の縛りにハマってるんだなって感じます。
これまで作って感じたのは、作品は純粋な自分の想いで作られたか?と言えばやや複雑な気持ちです、自分の中にもっと違う自分があるはずだけど、それに出会えていないって思いますが、これまでの写真を学ぶ過程の中で影響されたり身に付けた考え方に自分が思うよりずーっと自由ではない自分を感じます。
今までは作品を作ることで評価されたいとか結果を出したい思いに相当に支配されていましたが、もうそんな考えで作るよりも、もっと自由になってみようと思います、さらにこれまで自分が良い写真と信じていた基準だってどうも疑わしく感じます、本当にヨシとして撮っているのか、もしくは無自覚に吸収した基準なのか、そこはリセットとして自分の感性にもっと向き合っても良いんじゃないかと今は思っています。
自分の知らない自分を無意識に拒んでいるのかもしれない、ならば今まで常識化してきた考えを可能な限りリセットしてみてはどうかと思い始めています。

新ためて、、、作品に向き合うについて(2) 

前回の冒頭に書いた通り、作品を作れる人、作れない人がいる、これについて語れる範囲で書きます。
僕は心理学者ではないが僕がこれまで人生を通して感じたもの見たものについての体験話です。
人の思いは表面思考と深層思考があります、現実的な日常生活のやり取りでは深層の思いはほとんど関係なく、現実的な思考、表面思考で生活は成り立っています、ところが、表現活動の視点から見たらこの深層の思いは無視できない不思議な力が秘めています、これについては今後はもっと解明され間違いなく常識化するでしょう。
もし表現活動してこの深層の思いに無知だとしたら、その表現作品は時代と共にすぐに忘れられ消耗品のように、人の記憶からすぐ消え去るものだと思います、でも世間一般、人のやり取りは現実的なやり取りがほとんどです。
心に深く刻み込まれた想い、寂しさ、切なさ、嬉しさ、これらは表面思考では語れない心の奥の思いです、深層の思いは現実的なやり取りより伝わりにくそうですが、そうではなく時と場合によっては大変な伝達力があります。
何か思いを伝えたい時、言葉をいっぱい並べるより、深い思い、たった一言ですべて伝える力があります。特に音楽にそれを感じます、あれこれ言わなくても音の波長だけで何かを伝えられ、現実的な生活に疲弊した時、音楽に浸りたくなったり、旅に出て日常ではない思いに立ち返りたくなったりします、それは潜在的に人は深層の思いに枯渇しているからだと思います。
生産性、効率主義のこの時代感覚からすれば深層の世界観はどこか遠い自分には関係のない話のように思われがちですが、この感覚を軽視し続けることはもう限界が来たと僕は確信しています、今後はどういう形でどうなっていくのかまでは分からないけど、深層の意識は今後は必ず認知度レベルは上がるはずです、なぜならそれを軽視した結果が今の枯渇社会を作った原因だと僕は思うからです。

深層意識を引き出す表現作業は、実を言えば慣れた人にとってはそんなにたいして難解な作業ではないと僕は思っています、ただ思考の方向性の違い、その思いに自覚する習慣がないだけと思うんですが、最近思うのは案外そうでもないようです、人はあまりにも現実的な生活感覚ばかりに偏りすぎて気軽には自分自身の思いにすら立ち返れなくなったと思います。
気軽に立ち返れないのは現代の生活習慣で現実的な思考への偏りが多く、現代の感覚は心の外に物事の実態があると思い込んでいる節があります、自分の内側の意識に実態がある認識が弱く、自分にしっかり向き合う習慣が鍛えられていないからだと思います、もう一つの要因は幼少期にどんな家庭環境でどんな人間関係の下で育つかで大きく分かれると僕は思います、幼少期から日常的に空想世界に浸る習慣だった、または僕の場合、発達障害を幼少期から抱えたおかげでそこで生じた物事のズレや人間関係の不条理さから自分に向き合わざるを得ない環境で育つかでは、心の世界の沈潜能力には大きな差が出ます、この能力は大人になって鍛えればどうにかなるものではなく幼少期でほぼ決まると自分の経験から思います。
まとまった作品を作るとは、ただ良い写真を何十枚並べたら作品になるのか、と言えば、それは違うと思います、作品と呼べるものは作品全体を総括する一貫したバイブレーションもしくは主張とか物語性があるべきだと思います。
世の中には数えきれない数の作品がありますが、その多くは深い思いから出た作品とは思えない作品が多い、そういう作品は時代感覚の影響の下で作られたり、日和見感覚で作られたものが多く、そういう作品は心に突き刺さって来ない、でも不思議と深い思い、強い思い、長い年月、時間をかけ温め続けた作品は心の深い作品が多く人の心の深くに突き刺さる作品が必然的に多いと思います。

新ためて、、、作品に向き合うについて 

このブログで過去、何度も何度も作品を作るについて書いてきました。
唐突ですが、、、人は作品を作れる人と作れない人がいると僕は思います、これは先天的なのか、育つ環境なのか、そこまでは分かりませんが、純度の高い表現思考を生まれつき持った人の思考は、モノを見る感性、世界観が始めから普通と違います、こればかりはどうしようもないと思っています。
それは例えて言うなら、生まれつきスポーツに向いた人、向かない人がいます、向かない人はどんなに逆立ちしても生まれつき身体能力を持った人には敵わないように表現活動の精神構造も同じで表現活動に向いた人の精神構造は幼少期でほぼ決まると僕は感じています。
表現活動に本当に向いた人の思考の構造とは、掴みどころのない感覚世界からこの現実世界のみんなに分かるように映像、音、味覚など5感に置き換えて引き出す行為、自分自身が感覚世界にダイビングしこっちの世界に持ち帰って展開する能力が必要です、それは何らかの「事情」がなければ、一般生活ではあまり関係ない能力だと思います。

僕の家系は脳の構造、思考感覚が世の中一般とはかなりズレていました、その血筋が自分に流れ込んでいますから当然ズレています、でも兄貴はもっとズレています、普通人とは物事の感じ方、タイミング、見る世界、ずば抜けてズレているので世の中では相当な変わり者とか劣等もの扱いを受けたと思います、兄貴はその分、勉強が出来ましたが、僕の子供時代は劣等生でした。
勉強は根っから嫌いではなくIQは平均以上でどちらかと言えば勉強好きだと思います、ただ学校が合わなく成績は悪い子供でした、そんな子にとって学校はあまり良い場ではないです、勉強はダメ、運動もダメ、野球、サッカーやりたくても声はかからない、相手にしてもらえない卑屈さを無意識に抱え、子供ながらにそれが結構傷ついたりでトラウマとして心に深く染み込みます。
どうして自分は勉強ができないのか、みんなに溶け込めないのか、子供だって真剣に考えます、また家族がズレていることもどうしてなのか?子供のクセに心の中を覗き込み、それについてマジに考え、このズレは親から流れ込んだモノじゃないかともうすでに感じていました、また中学時代に勉強はまったくダメだけど、ある部分で天才感覚を持った友人がいました、アスペルガー、発達障害、その概念は今になって普通に耳にしますけど、僕は子供時代からすでにそう言う精神構造にハッキリと気がついていました。
冒頭に書きました表現活動に向いたタイプとは幸せな才能ではなく、それなりにネガティブな要素の代償能力だと僕は思っています。
将棋界の藤井聡太くんなんかはあれだけの才能です、人には言えない何らかの代償を学校時代に抱えていたんだろうな、、と僕なんかはすぐ想像します。

さて作品に向き合うについてです、自分がこれまで作った作品はもちろんその時のベストなモノを作ろうとして作って来ましたが、やはりまだ出し切っていない部分を強く感じます、今新たにこれまでに到達できなかった自分の世界に入ってみたいなと感じますし、これは果てしないことになるかも知れないと感じてますが、話が長くなりそうなので次回この続きを書きます。