アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

ビジョンを持った人 

定期的に写真展をしたり、ブログを書いたり、写真学校でトークしたり、写真雑誌で特集を組んでもらえたり、アトリエでカフェを開いたり、その縁でいろんな方と知り合いになりました、出会った方々にワークショップを開き写真を教えてきました。
その中には本格的にプロを目指す方もパラパラいて彼らなりに自分の道をつけて行ったんですが、とてもカンのいい人とそうではない人にやはりどうしても分かれます、世の中ではそれを才能がある才能がないで片付けます。
僕が20代の後半にスタジオに就職し、この中でカメラマンになれる人は1人いるか、いないか、それくらいだろう、と言われました。どうも写真で人より頭角を表すのは世の中ではとても難しい話のようです。
しかし、写真でやって行けるようになるのがどうしてそんなに難しいのか、僕にはちょっと不思議に思えたくらいです、まあ早い話がなりたい人の数より受け皿がそれだけ狭い業界だから、結果的に淘汰されるのでしょう、感じるのは、世の中で通用するレベルの写真的センスを持っているとはなんて言えばいいのでしょう、センスとか才能とか、、、、それらの言葉で写真家の能力を計ってしまうと話がちょっとあらぬ方向に行って本質とはちょっと違う話になる気はします。
つまり僕がここで言いたいのは才能があると認めてもらえるほど写真が上手くなるには、それは才能があるとかよりもまず写真で自由に遊べる能力を持っているかにかかっている気がします、この時代、ある意味で自由にとことん遊べることも能力のうちです、ただ言えることは広告写真はそれだけでは通用はしません、決められた面倒な約束事にも大人の心で上手く応えられる能力がどうしても必要になります。

昔、福岡ダイエーフォークス(今のソフトバンク)にプロ野球について雑誌取材に行き、故根本監督にお会いしインタビューの場に同席させていただき監督は面白い話しをしてくれました。
高校野球からプロに来て、そこで伸びる人と、伸びない人、この違いは単に野球才能だけで左右されるものではない、問題はプロに入って何がしたいのか、その具体的な目標を持ってプロに来る人とプロに入ることが目標で終わってる人では、その後の練習は変わるし成績に差が出る、考え、ビジョンを持っている者は肉体的なハンディーを超えて結果を出す場合もある、と話されましたがこれは野球だけではなくどこでも通用する話しだなと思って聞いていました。
これまでいろんな写真をやってる人にたくさん出会って来ましたが僕はこう感じました。
カメラを持つこと、写真表現することを通して夢やビジョンを持ってる人と、そのビジョンがない人では、写真に対する関わり方がまったく違う気がします。
ビジョンがなければいくら写真のすごい技とか考え方とか写真集を彼らに提示したところで上手く活かせないで終わってしまうし逆にその人が写真を通して可能性とかビジョンとか夢を感じているなら、何かを教えればすぐ自分のモノに置き換えられたり、仮にそれらの情報なんかなくたって伸びそうな気配を強く感じます。
そういうビジョンを持った人は集中力を持ってものを見ますし、何かに出会ったとしても輝きを見逃さないし、アンテナの張り方とか目の付け所が鋭いモノを持っています。
つまりここが最も大事なんです、何かモノを観るとき、ただ見て終わるんではなく、集中力を持って心の目で観ることができるか、観たものにあれこれイメージが次々に湧き上がってくるくらい入り込めるか、またはさっと見ただけで終わってしまうのか?
昨日モネのテムズ河のウォータルー橋を上げたのはそこです、モネは遠いロンドンまで何度も足を運び、同じ風景をずーっと見続けていました、モネの心の中には尽きない何かが見えていたんでしょう。
これまでに過去にそういうような人に出会ってきましたが、やはりとても直感的です、写真は遊び感覚ですし、密度と集中力と旺盛な好奇心を感じます。結果的にこういう人のことを才能がある人って言うんですかね?

直感的な写真の問いかけに対する返答 

33333.jpg 過去僕のワークショップを受けた友人から写真の撮り方、どうしたらもっと直感的に撮れるのか?質問を受けました。
直感的に撮る、これは見方によっては非常に漠然とした話です。
そういう概念的な話を難しい理論で返せば話は余計に複雑化するので、もっと話は具体的にすべきで、何かいい例を探しました。でもそもそもそういうことは人に聞くこと自体がすでにどこかおかしな気がします、またそういうことって聞いたところで道が開けるのかって気もしますが、、、、。
僕に取って画像が直感的という意味は、軸にあるのは、光だったり、質感だったり、色彩だったり、これらで表現は成立しています、色彩がきれいなことを人に説明するのはもう口による理屈や説明ではどうにも始まりません、まあそんなわけで一つの例としてモネの絵を例に話そうとネットから探しました。
まず世の中にはモネ解釈は山ほどありますからここであえて込み入ったモネ論は横に置きますが、モネのウォータールー橋の作品を例にして話をします。これはとても興味深いものなので各自サイトを開いてみることをお勧めします。
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=モネ+ウォータールー橋
ウォータールー橋がどうして直感的なのか?その前にどうしてテムズ河に掛かった橋をモネは延々に描いていたのか?しかもわざわざ遠いロンドンまで足を伸ばして何枚も描いていました、どうも河と橋を描くことが目的だったとは僕にはどうしても思えません。
橋と河は単なる素材に過ぎなかった、もし河と橋が目的なら、モネはジュベルニーの近くの街、ベルノンに大きなセーヌ河の橋があったはずですし、パリには河と橋の風景はいくらでも出会えたはずです。それを敢えて遠いロンドンまで何度も足を運んだ、しかもそれを膨大な枚数描いた、どうしてそんなことをわざわざしたのか?
確かにテムズとセイヌでは風景が違います、テムズ河沿いは工業地帯で絵にもあるように煙突から煙が立ち上っています、でもモネが望んだのは霧のテムズの霞んだ橋風景がどうしても描きたかったからわざわざ何度もロンドンに足を運んだと思います。
つまり霧の鬱蒼とした霞んだ風景がモネの心をとらえたんじゃないかと思います、総計41枚も同じ風景を描いていますが、一つ一つが光や色彩や鬱蒼とした風景を表現法を少しづつ変えながら描いていました。
僕がモネに深く共感するのは絵画思考はとても写真的でわかりやすいからです、僕ら写真家は何か被写体に出会ったなら、まずは何を感じるのかは、撮ったものを見て感じたり判断します。
でも絵の場合は自分が全ての素材や絵の具などを選んで絵を描くわけですから、写真とは別だと思ってきましたが、モネもどうやら写真のように感じているのがなんとなく伝わってきます、まず手を動かしてキャンバスに向き合って描いた絵を見て何を感じるのかは、彼はまるでカメラのように自分で描いた絵をどこか客観視したような、自分の描いた絵から伝わって来る何かを見て物事を判断していた気がします。
モネは描きながらそれがどんな物に仕上がっていくのか、細部まで描かないことには見えていなかった、だから描い絵から判断するしかなかった、言い換えれば、まずは描かないことには話にならない、そしてその結果としてこんなにたくさんのテムズの絵を描いた気がします。
これは絵を描かない人にはピンと来ない話かもしれない、絵とは画家の100%意思の下で絵の具とか色彩を選び取って描くわけだから、画家自身の心に上がりが見えている気がするんですが、どうやら実はそうじゃない気がします、本人ですら完成させて初めて見えてくるものがあるのではないかと僕は思います。
写真ならばパッと撮ったものを見て判断ができる、カメラという機械が見せる絵には、イメージした物とはズレはそれなりにあって当然です、でも写真は、特にデジタルは、その場で判断ができる、モネの場合、それを延々に時間をかけて絵の具や筆を使ってキャンバスに載せる作業を繰り返しやっと自分が描いた絵を感じ取っていたんじゃないかと思うんです。
余談ですが、村上春樹は過去こんなことを語っていました、ある話が思いついたとしても、それが面白いか、面白くないかは、まず原稿用紙に小説として置き換えないことには、それがいいか、よくないかは全く未知数だ、と言っていました。それに似ています。

さてロンドンーパリは600キロも離れています、途中ドーバー海峡もあります、今なら海底トンネルを超えてすぐに行けますが、昔僕が(1978年)ロンドンーパリをバスで高速道路、ドーバー海峡は船で移動して10時間かかりました。モネの時代はそんなに便利な時代じゃない、ひょっとしたら2日以上かかった気がします、彼はそんな気の遠くなる作業を延々に繰り返していた。しかもモネがテムズを描いていたのは60歳の頃です。
これらのモネを見ていて気がついたことですが、基本的に点描が多くパソコンのように至近距離で見ても、一つ一つが大雑把にしか見えない、中には大きく見られる画像もあり2〜3メートル離れたところで見ると絵の見え方はがらりと変わりました。
僕にとっては、モネの代表作 睡蓮の作品よりウォータールー橋の作品の方が僕には分かりやすく色彩感や空気感は写真的でずーっと好きです、最後に直感的に撮る、これのヒントはもうここで書いた気はしますが、そもそも人の話からその答えを探し出すんではなく、自分の作品から答えを出しまた新たな疑問や答えが出る、表現とはその繰り返しな気がします、すべての迷いと発見は自分の作品を通してするしかない、それをしないならいつまでも延々に答えなんかないと僕は思います。

カタチじゃないところを撮る、どうしたらそれが出来るのか?それは大きな壁だった。 

昨日、非日常感、無意識が写真に写って欲しいと書きました。
冷静に考えれば写真的に言って結構難しいことを気軽に書きましたが、僕らは朝から晩までそんなことを考えて生きていられるからできる話かもしれません。
日々の生活の中で他の仕事を持ちながら責任ある立場の人がそれが出来るかどうかは未知数です、意識を写す考え、考えようによっては相当に難解なことを僕は無神経に気軽に書いているのかもしれません。
そもそもどういう経緯でそんな気になったのか、これを機に昔を思い出しました。
昔、上京して、とりあえず都内のスタジオに働きの場を得てプロへの窓口を見つけました。それ以前は名古屋で修行する場を探しました、何軒か尋ねて歩きましたが、26歳になって写真学校にも行っていない人なんか使えないと、どこも冷たくあしらわれ仕方なく東京に出て来たけど、名古屋であれだけ探したけどなんの希望が持てなかったことを思えばこれ以上ないくらい理想的な場に出会った。
そこは連日、雑誌とか広告で名の知れた先端のカメラマンがやって来て撮影する現場に立ち会えたことでした、当時の僕にとっては先端の場で活躍するカメラマンたちはみな特殊な才能に溢れた方々に見えました。そこで喉から手が出るほど見たかったことは、具体的な撮影現場はもちろんだけど、そこで繰り広げられる空気とか現場カメラマンの生身の姿に触れてみたかったんだと思います。
そこに飛び込んで最初に刺激を受けたのは写真とはカタチ的に上手く撮ることよりも、カメラマンが持っている、センスとか感覚がすごく大事だと感じたわけです。
でも、そのセンスとか価値観というのはただの表面的なセンスではなくて、圧倒的なセンスを言います、当時僕らが上京したころ、先端の場でやってるカメラマンは誰しもそんなセンスを持ってるすごい存在だと疑いもなく信じていました。
彼らはどうやってそんなオーラを身に付けたのか?そう見ていました、それにくらべて僕が撮る写真はどう贔屓目に見たところで、、、、なんというか表面的なカタチを捏ねくり回したものにすぎない、カタチじゃないところから激しく揺さぶるような撮り方ではないことに気がつきました。
絵柄をカッコよく撮ればなんとなくプロっぽく撮れた気はするんだけど、その撮り方をいくら極めたところで内側から圧倒的なパワーを醸し出すフォトグラファーの写真にくらべたら物足らなさを感じていました。
どうしたら、あんな写真が撮れるのか、、、それを自由に撮れるようになりたかったのはもちろんだけど、まずその秘密そのメカニズムを何としてでも解き明かしたい気持ちになりました、これは結構真剣に考えましたね、、、、。
(今になってこれを書いて僕があの当時一生懸命になって探していたことを久々に生々しく思い出しました。これが文を書く面白さです)
それであれこれやるうちに日々連日消耗を繰り返す生活ではどうにもならない、こんなことを繰り返してもなにも答えが出ない、旅に出て考えるしかないと思って日本を出て少数民族を撮ることに出会いました。

非日常の空気が写って欲しい。 

7445.jpg

昨日ブログの中にこれまで僕自身は現実的な生活感が漂う写真はあまり撮る気がしなかったと書きました。
これは特に意識的にそうしてるんではなくて気がつくと無意識にそうしている自分を見ます。
僕が担当した広告もどこか非日常なものがやはり多く鉱山で大きな建機が働くところを撮るとか京都のお寺を撮っています、多分この僕の習性とは無関係じゃない気がします。
昔、まだカメラマンになっていないころ、これから作品を作って営業に行って仕事をもらおうとしてる時、僕が撮った作品は少数民族のポートレート集でした、どうしてそんなものをわざわざ選んだのか自分ですらあのころはっきり答えられないところから出発しました。
多分、日本でモデルさんを撮らせてもらっても、自分らしさは到底写らないだろうし、僕がそれを撮ったところでつまらない上りしかない気がした、つまり先が見えていた、でもかと言って何か明確にこれがしたいがあるでもないし、困ったものでした、仕方がないから工場を撮るしかなかった。
それで旅に出て旅先で見つけたテーマが少数民族だった、始めたころはどうしてそれを撮るのかも漠然とし曖昧なところから出発しました、でも実際に動きだし撮っていくうちに自分が撮りたいものが少しづつ見えてきて、しまいに本気になってとんでもない秘境巡りの旅を繰り返しましたがこれが実は結構きつい旅の繰り返しでした。
少数民族撮影を通して僕は要するに何がしたかったのか?といえば、、、、、、どう説明したらいいのだろう?早い話が日常の見慣れた世界を撮る気にはなれなかった、せっかく日本じゃない環境で、しかも観光客にまだ晒されていない秘境民族を探して撮るんです、見たことない姿格好の人たちがカメラの前で突っ立てるところが撮りたかった。多分違和感みたいなものが撮りたかったのかな?
気がつくと僕が選ぶモノは、いつも非現実的というか、日常とは離れしているというか、所帯くさい日常が僕は嫌いなんです。もう一度言いますが、特にそれをムキになってやってるんではなくて気がつくと毎回そこに行き着いてしまう無意識な部分を持っています。

ここに登場した方は今回知人のモデルさんがFBで誰か私のポートフォリオを撮ってください、と告知がありました、前回撮ったばかりだったから少し傍観していたんだけど、ふっとイメージが降りてきたので手を挙げました。
デビュー前は僕がモデルさんを撮っても月並みな撮り方しかできなかったと思う、でも今はあのころと違って、自分の考えとかテイストを織り込んだ撮り方ができる余裕があるから今はそれを楽しんでできる。
さて降りてきたイメージとは、、、、それを僕の文で説明ができるかな?
まず、白い服をお願いした、多少ベージュが入っても構わないと思ったけど、デザインされていない服、それは匿名的というか、無印良品のような、森の中の学校、全寮制の制服みたいなエコールみたいな、かと言ってオウム真理教には絶対にしたくない、そうならないように僕が上手く撮るしかないと思っていた。
夕方の海の前で軽くストロボを使用して白を浮かせるように撮れば、多分不可思議な空気が撮れそうな気がした、白を選んだ理由は浜には色がなくて、そこに仮に曖昧な色が存在するのはかえって絵柄をつまらなくさせる、写真を濁すだけだと直感したから白を選んだ。
巫女、刑務所から脱走した女子、反体制の女子、やや危ない感じが少しあってもいい、日常感覚からちょっとズレた感じが撮りたかった。
まあ話にすると難しい話になってしまうけど写真にすると直感的で一瞬にして終わるから好きだ、文でクドクド書くより撮ったものを見てくだされば話は早い。
それで昨日の話の続きですがデザインされた写真、、、、今はデザイン的な写真よりその場に生まれた空気みたいな何か言葉に説明がつかない写真にしか描けない何かを撮りたくなった、、、というのはこういうことを言うのかな?
もちろんこれだって用意周到に絵柄は計算されある意味でデザインされたものなんですが、デザインされた写真ではないと僕は思っている、単なる海辺で撮った写真にしたくなかったけど、、、、、さて人はこれを見てどう感じるかな?
当の本人はどう思うか知らないけど、僕はこのふてくされたみたいな足の組み方と素っ気ないスニーカーが結構好きなんですけど、とにかく小洒落たモノにはしたくなかった。

デザイン感覚写真 

yjimage.jpg
0028.jpg

SNSを通して時々やりとりする美術家さんがいます(彼は僕のことを個展で知った)彼の本業は絵ですが写真も精力的に撮っていて、特に写真集への関心とアンテナは感心するものがあり良いものを見つけ次第、取り寄せたりしています。
彼はライフワークに都市のビルを撮ってはSNSに投稿しています、その撮り方を見て僕が写真を本格的に始めたころに頻繁に撮っていたものを思い起こさせられました、あのころ僕がハマっていたのは工場を探して撮っていました、でも工場であればなんだって良いわけではなく好みもありました、特に撮りたかったのはレンガ造りの古い工場を探していましたが、そんなものは日本には滅多にありません、昔のドイツ人フォトグラファーベッヒャーとかマーガレットバークホワイトのようなどこかデザイン的で幾何学的な写真が撮りたかったんだと思います。
僕は無機質な建造物ばかり撮っていました、休みの日はバイクに乗って当時荒地だった有明、大井、羽田、川崎の工場地帯ばかり狙っていました、それが好きだったというよりそれくらいしか撮る対象が見つけられず自分はどこに向かったらいいのかがまるで分からずとにかく手探り状態でした。
今になって分かったのは日常的なものに関心はなく撮る気がしなかった、多分日常生活のベタベタ感が気が向かなかったんだと思います、ドイツの写真家はベッヒャー以外にも工場を撮った写真家は他にもいたようで、そういう非日常風景は惹かれるものはありました。これについて文章で長々と説明しても仕方がないので以前ライフに掲載されたマーガレットバークホワイトのダムの写真をネットで拝借したんで小さいけど我慢して見てください。
これで判断してほしいんですが、以前はこういう撮り方が僕には斬新に感じた時期がありましたが、今はその場の空気を撮ることとかもっと別ごとに興味が移ってこういう直線的、幾何学的、デザイン的な撮り方はしなくなった。

デザイン的といえば他に僕の知り合いの広告写真家でデザイン的だと思わせる方がいます、彼の場合はここに挙げたマーガレットとかドイツの工場写真とは全く別の意味でデザイン的だなと思うんです、マーガレットの写真はどこか定規で線を引いた幾何学的な絵ですが、友人写真家がデザイン的と感じるのは、思考がデザイン的なんです、それを何と書けばいいのでしょうかね。
撮る前からアタマの中に明確な絵柄があってそれを再現してるような、、、撮る写真をアタマの中で構築しテクニックを駆使して忠実に絵にしてる感じが理屈抜きに伝わってきます。
カメラを構えシャッターを切った時、意図しない予想外なものが写った場合、ある意味でそれは好ましくない異物であったり、でもそれが写真の体温にもなったりですが、彼の場合はすべては狙い通り計算ずくの上で撮るのでそこに偶然性みたいなものが感じられない、、、、そんな風に感じます。

そこに上がったものは理屈抜きにデザイン的としか言いようがない、それを本人に言うと僕は元々デザイナーだからね、、、と言いいます、でも広告の写真家がまず求められるのはこのデザイン感覚かも知れないです。
ここに挙げたインクビンの写真があります、これは僕が以前、撮ったものですが、その意図は大型カメラの緻密さで質感をモノクロ表現をしました、こういう場合、印画紙の黒の感じが好きで撮ったんですが、ある大御所写真家が「これはデザインだな」と僕に言いました、意味はこれは写真ではなくインテリア写真だと言いたかったようです。
写真にインテリアか、インテリアじゃないか、なんてあるのか?と最初思いました、それから、写真がインテリアか、写真がデザインか、あれこれと考えました、デザイン的ではない写真、インテリアじゃない写真、とは一体どういうものを言うのか?つらつらと考えました。
こういう問いかけは急いで答えを出さないことです、いつも心の片隅に置き何かに出会ったときに、ハッと気が付くもので、ある時ふっと思いました。やっとその意味が僕なりに見えてきました。
いろんな説明、いろんな解釈があるので、これが答えと言い切れないんですが説明の方向として間違っていないと思っています、写真を撮るうちに自分の気分とか思いのようなものが写真に写ること、カンタンに言うと絵柄ありきで成り立っている絵ではなく、それは二の次で、コンセプトがあって絵はそれを表しているもの、とでも言えばいいのでしょうか?
例えば、マーガレットバークホワイトの場合、先に目に飛び込んでくるのはコンセプトより、この建造物の線と線がこの映像の見せ場な気がします。その構成がとてもデザイン的であって、撮り手がそれ以外に表現したいとはちょっと思えない、もしあるとすれば、これまでこんな建造物は見たことがない、そんな言い方もあるかも知れないですが。
僕の場合写真を撮るとは絵画的な写真に仕上げるのが好きです、そのために色とか質感とか光にこだわります、つまり絵柄にはとてもこだわります、ある意味でこれはどこまで行ってもデザインなのかも知れません。
まあ、カンタンに言えば撮った時に意図しないものが写ってしまう,意図のしようがない偶然性みたいなものが写ることはとても大事にしていますが、まあそれが写真的であって、絵柄を構図をイメージを撮る前からほとんど完成に近いくらい念入りに計算し尽くして上がった写真はやはりデザイン的な写真に見えてしまいますね。
そう考えると写真とは意図しきれない部分、計算が立たない予期できないような部分がいい形で写ったなら、それはいい写真かなと思います。言い換えれば人間というのは不思議なもので、意図して計算して何かを仕込んで撮ったものと、そうではない意図していない直感的な力で写してしまった物というのは敏感な目を持っていれば明確に違いを感じ取ることができると思います。