FC2ブログ

アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

まさに東京漂流で書かれていた話が現実化した時代 

僕がまだ25歳くらいのころ、藤原新也さんという写真家であり文筆家が世の中ですごく注目された、それはそれまでの写真家の表現の概念をひっくり返すような表現手法で世の中から大変な注目を浴びていた、その手法は写真と文が一体となった表現でその著作物はその当時ベストセラーだった。
僕の印象は藤原氏はインドを始めアジア各国々を10年近く旅を続け、そこで見たこと、感じたことを、独特の感性、鋭い視点で写真と文で描き出していた、基本的に藤原氏は特に写真のスキルに通じているとは思えず写真家の撮る写真ではなかった、逆にそこが返って衝撃的で当時僕らが血眼になってしてた下積みって、これは一体なんのか?って考えさせられてしまった。
僕らの目指していたのは伝統的な既成写真家になることが最終目的ではなかったと思う、写真表現を導入としてそこから自分らは何が表現ができるのか、そこを模索していたわけだけど、藤原氏はそのあたりのしがらみに似た古くささをあっさりと捨てて写真スキルなんかなかろうが、世の中からこれだけ写真家として評価をもらえるんだよ、って僕らは笑われている気さえなった、どうしても写真表現だけで何かをするには行動範囲は限られる、でも藤原氏はその限界をあっさり乗り越え、その著作物は僕らにとってはかなり衝撃的だった。
その中でも取り分け大ヒットした著作は全東洋街道と東京漂流、あの当時に写真家を志した人でこれに影響を受けた人はどれだけいただろうか?ちょっとした教祖レベルだった。
それで、本題ですが、藤原氏が東京漂流を通して最も強く主張したのは(僕にはそう感じた)長くアジアを旅した目で日本を新ためて見つめた時、かつては当たり前だった、素朴で平和な日本人の心、その美徳がこのままではどんどん失われ日本はいつしかおかしな国、アメリカみたいに病的な国になって行くだろう、果たして日本はこのままで本当にいいのか?と警鐘をあの本を通して鳴らした気がして読んでいました。
当時僕はまだ若かった、まるでその著作物は新しい宗教のように、僕は貪るように夢中になって読み漁ったものでした。 でも少し時間が経って大人の視点で再び読み直し、感動した部分を再びアジアで読み直してみると、その感じ方がずいぶん、かつての感じ方とは違って感じました、もちろん大人になれば視点は変わる、でも感じたのは、本を面白くさせるために、全体に表現はやや大げさに誇張し話を盛って書いていることに気がつきました。
中にはこれはおそらく実際にあった実話ではなく、藤原氏自身が作り上げた話だなって感じたり本を面白くさせるためにあらゆる手口を使ってこの本は書き上げたものなんだなって、その手法を薄々感じ始めました。
当時の日本人にとって、その大半はアジア世界なんてまったく未知の国で謎の国でした、そこにアジアの出来事をことさら大げさに神秘的に書き上げたところで十分に通用はしたはずです、その手法が僕なりに感じました。まあそれはそれでも一つの表現でもあるし、まあそうなんだなって思った瞬間、僕はかつてあれだけ夢中になったものが、それを機に一気に興ざめしたわけです。
ただ例えそうであっても思うのは、あの東京漂流で書かれていたこと、このままの方向で進むと日本は一体どうなっちゃうのか、そこは憂慮せざるを得ない、そんなことが強く書かれていました。今この本を読み直すとどんな感じで見えてくるのかいささか興味があるけど、やはりここ昨今流行りの振込み詐欺、あおり運転、カスタマーハラスメント、顔の見えないネットが流行ることで今まであり得なかった事件がどんどん当たり前に横行する時代になってきました。
この流れを藤原氏は40年以上前から警鐘を鳴らしていたわけですが、その事実を良いとか、悪いとか、ではなく、そこをどう読み解くのか、どう受け止めるのか、明日以降またこれについて書きます。

今どきそんなことするヤツはいないのか? 

先日、名古屋に行った時の話です。
名古屋で訪問先が多く地下鉄フリー切符を買いました、余談ですが名古屋って関東の感覚からすると都市交通料金がすごく高いところで、初乗りがなんと250円、ちょっとあちこち乗って降りたらすぐ1000円になってしまう。
全国的にはこれが普通で関東が劇安なのか、普段あまり割安チケットなんて買わないがさすがに名古屋では買った。
チケットの使用期限設定がなかなか面白い、買った時間から24時間使えて翌日まで持ち越せる、翌日の朝、名古屋を出る時チケットはもう不要になった、でもまだ時間が残ってるからもったいないな、、、と思い、売り場に並んでいた中学生を見つけ、こんな中学生にとって名古屋の交通費は高いだろうなと思って、「ねえ、ねえ、これ昼まで使えるから上げる」って中学生に手渡した、すると「何なんだ?このおっさんは?いきなり声かけて来て、、、、?」やや固まった怪訝な顔して僕の顔をじーっと見る。
特にありがとうって感謝なんか期待してないけど、そんな顔でこっちを見なくてもいいだろう?と思った、もし怪しいと思うなら改札機に通して見れば使えるかすぐわかるよと思ったけど、そんな野暮なことは言わずその場を去った。使って得するかどうかはそいつの気持ち次第、、、、。
でも今時、そんなことするヤツは滅多にいないのか、なんだか時代が変わったのかな?僕らが子どもだった頃はそういうことよくあった気がするけど、、、、。

日本は厄介な国に手出しをした。 

前に日韓問題について日本側だけの報道を信じナショナリズムに乗じて感情的にはなりたくないと、言う趣旨で 僕の意見を書きました。前回は日本は韓国に対してもう少し客観的な見方も必要じゃないかってやや韓国に肩を持った感じで書いたけど、今日は風向きを変えて日本の寄り意見を書きます。
マレーシアのマハティール首相は先日、インタビューで「日本はすでに謝罪している、謝罪は一度でいい」と言う発言をいインタビューでしたそうだ、僕はそれを読んで少しほっとした気になった、アジアの著名なマハティール首相がそう見てくれたんだと思うとやや救われた気がした。
僕は韓国、北朝鮮、、朝鮮半島の両国と日本の政治問題、国民感情は実に厄介な問題だなって昔から感じていた、日本が過去韓国にどんな謝罪をしてどれだけの賠償金を払ったか、細かいところは知らないが、聞くとこによれば、当時の韓国の国家予算の2〜3倍くらい支払って、韓国はそのお金で国のインフラ整備に当てたり産業育成に当てて国の発展にずいぶん寄与したと聞いている。
また韓国の産業発展にも日本から技術援助があって車、造船、繊維産業は一気に発展し経済成長したと聞いている、それは過去の謝罪も含めて半ば強要に近い形で技術供与を迫ったと当時の報道で読んだ。当時からあれこれ何グセをつけて欲しいものを強硬に要求をしてたそうだ、それが今になってもまだその要求クセは終わるどころか延々にキリがなくトドメを知らない、そんな意味合いの報道を時々目にする。
正直な話、前にも書いた通り、この報道はどこまで公正で事実に基づいた報道かは僕らでは知る由もないが、僕が韓国国民に対して一つ好感が持てないのは、今韓国では反日感情、日本製品不買のデモがそこらで多発してるらしい、でもデモに参加した民衆が手にしてるプラカードを見るとみんな同じカードを持ってワイワイやってる。
なんだかそこから感じ取れるのは韓国国民がみんな日本に対して憤りを持ってると言うより、これは誰かが仕掛けた煽動に乗じて騒いでるに過ぎない、そんな感じが伝わって来る、つまりこれはどこかで意図して民衆を煽って世論に火をつけているのが明白だ、その証拠に大量に作られたプラカードをみんなに配って、デモに参加者たちはみんな同じスローガンプレートを手にしてテレビカメラの前で誰かが騒げってけしかけているのが感じる、これは正しい世論、健全な民主主義って言えるのか?って首を傾げてしまう。少なくとも日本人はただの無関心だからか、ここまではやらない国民性だなって思う。
この手のデモと香港のデモは根本的にその動機が違う、香港の若者たちはもっと危機感を感じて、このままでは香港は中国の思うままの香港にさせられてしまうって真剣にデモをしてる、韓国とは根本的に異質なもので僕は韓国のこの煽動されやすい国民性にものすごく腹が立ちます。
日韓野球とか日韓サッカーの試合で韓国が勝つと、独島は我が領土の旗を背負って走ったり、ピッチャーマウンドに太極旗を立てたり、韓国民はスポーツの場をナショナリズム高揚の場にしてマナーがない、やることが幼稚と言うか、常軌を逸脱してることが多く目に余る行為と前から思っていたけど、日本は厄介な国を植民地にして無用な恨みを買ってしまったなってつくずく思う。
日韓両国に潜むナショナリズムは根の深い問題です、これはいつか終息するなんてもはや有り得ない話で、今回の事件はいつかこうなるんじゃないかなってなんとなく思っていたけどやっぱりこうなったか、そんな感じが僕にはあります。
今回の阿部さんの選択はこの辺りでNOを言わないと、韓国はなんでも何グセをつける妙なクセが身についてこれはどこかで止めないとキリがないって判断したからなんだなって思う。
さて8月15日に文在寅大統領はどんな演説をするのか、やや怖いけどやや楽しみです。

苦労が人間形成に必要だなんてウソだ、 

フェイスブックで見つけた記事で、世界の名言(57)ウイリアム、サマセット、モームという人の話の中にこんな一節を見つけた。本当はもっと長い文章でこれはほんの一説に過ぎない。

苦しみが性格を高潔にするというのは嘘だ。
幸福は場合によってそうだが、
苦しみはたいてい人間を弱くし、執念深くする。

成功の大部分は、訓練の賜物である。
傑作は、努力せぬ天才の幸運な偶然よりも、
作家として長年精進を重ねてきたあげくにこそ、
生まれる確率が高いのだ。

日本には伝統的に苦労の多い人生、苦労人を讃える価値観、それを良しとする文化が根強くがあって、若者は苦労をしていないからと蔑む、そんなおかしな風潮が 昔からはびこっているけど、確かになるほどと思える部分もあるが、本当にそうかな?ってずーっと思っていた節も僕にはあった。そしてこの一説に出会って曖昧だった事が僕の中でパチン!と音を立てて目が覚めた瞬間だった。
これまでずーっと思い続けていたのは、人間を成長させるのは、苦労ではなく自分自身に深く集中した時だと自覚していた、一言でこうだとは言い切れないが、僕の場合自分が思い描いてことに集中し、それに夢中になった時は、後で振り返って、その時に限って結果が出ている、その体験が僕を成長させてくれたんだなって実感する、または自分には超えられなかったことで、もう逃げ道はない、ここで超えるしかないって腹を括った時とか、自分の描いた目標を実現させるために時間とエネルギーかけて、そのためにアタマを使ったり、そしてその努力の結果を実感した時です。
それは何年か後になって感じるものでやってる時は無我夢中でしかない、その最中はいろんな苦労もあるけど充実感の方がずーっと勝るからそれを苦労と思わないことが多い。

世に言う苦労とはずーっとタチが悪い物ばかりだ、僕の学校時代がそうだった、どうしたものか、学校も勉強もちっとも楽しくなかった、集団行動、あの環境、大半の先生たちが苦手だった、とにかく学校ではいい思い出なんて遠足以外はほんとんどなかった。中学に入ったらもっと酷い目に遭った、成績に順位を付けられた、学校は競争心を煽り立てたつもりだけど、まったく意味のない話だ。
自分は普通より劣等生のレッテルを貼られたようなもので、当の本人にしてみれば苦痛でしかない、じゃあこの苦痛が後の人間性形成に役に立つのかと言えば、百害あって一利なしだ、成績が最低なら、劣等意識を育てるか、人に対して不信感とか歪んだ性格を形成するのが関の山だ。そもそも文部省の教育指針なんてこんな程度だと思った。

ここ最近あった事件で、40代で引きこもりをしていた人が、ある日子供たちを包丁で無差別に殺した事件、少し前も新幹線車内で包丁で同乗者を殺した事件があったけど、こう言う人たちの気持ちは僕は分からないではない。世の中で自分の存在価値、居場所が見つけられないから、ああ言う行動に走ってしまう思考の流れが僕にはよく分かる。その意味では僕の劣等生体験は役に立っているのかも知れないが、、、。
学校が悪いから、世の中が悪いから、そうなったとは僕は思わない、仕方がないとしか言いようがない、その人が背負った運命としか言いようがない、でも集団の中で同じ水準に立てない不器用な劣等意識を抱えてしまった人はみんなが分からないだけで、犯人像をざっと見たところ、当の本人たちは強い劣等意識を背負い、世の中に対して敵意を持ち、心は傷ついていたのは容易に想像できます、彼らが背負った劣等意識など人生では少しもプラスになるどころか、人生をマイナスにするのは明白です、世の中では彼らの気持ちが想像がつかないのが僕には信じがたいことです。
もし乗り越えるチャンスがあるとすれば、あゝ無常のジャンバルジャンみたいに背負った運命の呪縛を超えるしかない。その時にそれはプラスになるだろうけどそれは稀なケースだ。

僕は写真は人より上手く撮れた、それが評価されることを知った、じゃあこのまま劣等生でいるより何としてでもカメラマンになろうって頑張った、たまたま神様からのギフトがあったから救われたけど、もし僕に何もなかったら僕だって大変な劣等意識を抱えたままの人生を送っていただろうしナイフを持って人の多いところで暴れていたかも知れない。
話を元に戻そう、つまらない苦労、長い年月の苦痛はロクなことにならない、それが稀にその人の精神を鍛えることもあるだろうけど多くはその人の心を蝕むことの方が圧倒的に多いだろう、ウイリアム、サマセット、モームが言うように苦痛は人間性をダメにしたり、執念深い気質を育むばかりだ、また何らかの苦痛環境でそうなったんだろうと思わせる人を今までたくさん見た。かと言って緩い環境の方が良いとも思わない、これは難しい話だ、、、、、。
やっぱり幼少時に周りに良い大人に囲まれ良い影響を受けるに限る、ダメな大人、無知な大人、歪んだ大人に囲まれて育てばロクなことはないのは明白だ。

刑務所のネコ 

46691524_1052519634921243_3020870367242616832_n.jpg

ネコは素晴らしい生き物、この世の宝だ。
子供のころ、ネコがすごく好きだった、でも大人になっていろんな責任を背負わなくてはならない、子供をきちんと育てなくてはならない、仕事もきちんとやって収入を確保しなくてはならない、遊んでばかりは許されない立場になった。(と言いながら普通の大人より随分遊んだけど)気持ちに余裕がなくなった、子供みたいにネコに無条件に愛着が感じられなくなって、もういつの間にか昔みたいにネコが好きじゃなくなったと自分自身を感じていた。
でも娘も大きくなって社会人になって家を出た、また家内と二人暮しに戻って娘が子供の時に飼い始めたネコは15年くらい生きている、2匹だったネコが1匹死んで、残ったネコは年寄りになった、普段はほとんど動かない、同じ場所で寝ているだけのネコになった。それで縁あってまた子ネコを1匹もらい我が家は再び2匹のネコと夫婦2人の生活が始まった。
子ネコの名前はチビと名つけた、チビはとにかく元気がいい、家中を走り回ったり、好奇心をくすぐるモノを次々に見つけて戯れて遊ぶ、動くものならなんでも捕まえ家に持ち込んで転がして遊ぶ、チビの好奇心は尋常じゃない、古株のネコの動きをマネて一瞬で窓の開け方だって覚えた、かなり利口なネコだ。
チビの行動をじっと観察してると動物の知能レベルとはあらゆる行動の集積なんだと思う、要は強い好奇心が数々の行動をし、そこで物事を覚え高い知能を育む、つまり強い好奇心は行動範囲を多様に広げ、出会った物事を吸収する、逆に覚えないネコはアタマは鈍いんではない、覚える動機がないだけだ。
巷ではネコは犬より知能が低いと信じ込まれているがネコは自分勝手な生き物で人間から躾られることをあまり好まない動物じゃないかと思う、チビの行動をじっと観察しているとそんな発見がたくさんあって退屈しない、そして時々擦り寄ってくる、そこがネコのおもしろさだ。
子育ての最中ではネコに対してそこまで感じる余裕がなかった、娘は家を出て家が静かになって暇つぶしにネコの行動をつぶさに観察する余裕ができた、子ネコが1匹いる存在感はとても大きい、ネコは人間に癒し効果があると前から言われているが、僕もそう思う、たかがネコ1匹だろうがその存在はとても大きい。人間はそろそろ目先の利益追求は一旦横に置いてネコとの付き合い方を真剣に研究する時が来たようだ。
最近出会ったニュースによれば、アメリカで里親、引き取り手に出会えなかった不遇なネコ、虐待を受けて人間不信になった悲しいネコ、心を閉ざしたネコ、行き場のないネコたちをある刑務所が引き取って受刑者にネコの世話をさせたところ、これが素晴らしい結果をもたらしたとネットニュースに書かれてあった、受刑者の心に大きな変化が現れた、それはとても良い話でどうして今までそれをしなかったのか不思議に思ったくらいだ。
受刑者は長い年月塀の中で暮らして退屈してるところにネコがやって来たら、受刑者たちにとって楽しくて仕方がないのは 容易に想像がつく、引き取り手のないネコたちは殺処分していると聞くが、やはりもっと他の救いの手を探すべきだと思っていたが刑務所でお世話をしてもらえたら、受刑者にとってもネコにとっても双方にとってすごく良いことだと思う、これは日本でもやらないかな、、、、って思う。