アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

個展のまさかの落とし穴 

今日で個展を開いてほぼ1週目が経ち、個展の期間をもう1週間延長することにしました。
しかし、ただ期間を延ばしても仕方がないので作品を一部入れ替えることにしました、入れ替え用に出す作品はまだ残っています。
これまで過去の個展は、当たり前の話ですが個展を開くために作品を作っていました、ちょっと変な言い方ですが、作品ゴールはあくまでも個展です、必然的に会場に見応えのある個展空間を作ることが目標でした、でも会場は熟知しています、4面ある壁面の特徴、サイズ、がはっきり見えています、作品制作とはその空間を埋めることを念頭に作品を作ります。この壁に何点、あそこは何点、あっちは何点、という感じで作品を組み立てて行きます。
今回はそうではないんです、もともと個展を意識した作品ではなく本にしたい思いで始めました、作品数は会場を埋める数よりはるかに多くを必要とします、必然的に個展作品よりスケールの大きな作品になります。
ある時、急遽、個展をすることになりました、50点くらいある中から20点も会場に並べられません、どう見せるのかセレクトには時間がかかりかなりアタフタしました、やはりこれまでと会場が違うと見せ方、選び方、個展の考え方は変わります。

そこで初めて気がついたことですが、決まった会場で個展に向けての作品を作ることには一つ落とし穴に気がつきました、今回ここで初めて気がついたことなんですが、、、、。
今回は個展会場が決まる前から作品はすでにありました、会場サイズより作品点数が大きいわけです、ここはせいぜい20点くらいしか並べられないところに50点以上作品はあります、さてどうやって絞るか迷いました、とりあえず作品を絞って展示しました、でも展示されていない作品はまだ残っています。
結局、期間を延長して、作品を一部替えて展示します、この作品には自分がまだ気がついていないだけで潜在的な可能性は残されています。こんなことはこれまで感じなかったことでした。
先に書いたように、これまでは展示をアタマにイメージしながら、これはあそこ、これはここ、これはあっち、そう考えながら作品を作り続けます、これはあまり良いことではないと思います。
作品はもっと無意識に作るべきです、そんな先の展示なんか、アタマの中は空にして作らないと作品に意図したものが流れ込みます、空間が埋まった時点で作品進化は止まってしまいます。
これだったのか、、、と思いました、前に個展をしていた時、個展作品制作に何か作品制作に違和感を感じていましたが、その違和感が何かが分からなかった、でもこのまま続けてもつまらない何かを感じていたけど、その違和感とはこれだったのか、、、、と分かりました。

個展の2日目、そして、、、出力でもここまでできるんだ、、、を見せたい。 

個展の2日目です、今日は昨日みたいに激しい雨も降らず、人はパラパラ来てくれてありがたかったです。
昨日は初日から大雨で荒れ模様でした、それでも二人友人がその日を狙って来てくれて話をしましたが、なんせ凄い雨でしたし、とにかく久しぶりの個展で気分はまだ個展の感じに不慣れでした。
普段から人付き合いを大事にしてるわけでもなくその分余計に作品でカバーしようと見応えのあるものを並べてるつもりです。
2日目やって少し実感したのは、アトリエで準備していた時は、もう自分では良いのか良くないのか見えなくなっていたけどモノクロの時よりこっちの方が充実していいという人もパラパラいます、そういうこちらの意思が少し通じてちょっと良かったかな?と実感しています。
今回の作品展は前回、感じていた言葉にならない、不完全さ、物足らなさ、未熟さ、モノクロのプリントに思い入れを持ちすぎていた足らないものを、ここで描き直してみたい気分は、今回は自分なりに達成した気持ちがありましたが、それが人によっては伝わっているような感じがして、まあ良かったかな、という気分で2日目を迎えました。

さて今回の個展で自分としてすごく感じるのは、これまでデジカメは好きになれない気持ちがどこかにシコリとなってあったのは、デジカメはモニター見るもの、プリントで見るものではない、そんな感覚に支配されていましたが、それは超えられた気分はあります、インクジェットでもここまでできるんだ、、、、そんな気持ちになれました。
自分でもどうしてそうなのかが理由がよくわからないんですが、納得できるとこまでテストを繰り返したからなのか、良い写真用紙を使ったからなのか、出力プリンターが良いからなのか、とにかく出力でもここまできれいなプリントができることを見るだけでも見応えがあると思います。

些細な違和感 

ちょっと唐突ですが、前から感じてる違和感についての話です、人は子供から大人に向かって成長していくにつれ感情を表に出さない、感情を心の奥にしまいこむ事を覚えます。
子供にもよるでしょうけど小学生低学年くらいまでは、自分の感情を抑えることを知らない、場の空気を読まない、相手の立場をあまり考えないでそのまま発言します、でもそれが許されるのが子供の特権です。
でも、そんなのはいつまでも通用はしません、大人になるにつれ感情のまま口に出来なくなり、気がつけば感情は心の奥にしまい込み、建前と本音の使い方を覚え、駆け引きを覚え、感情と感覚にフタをして大人になっていきます。

その結果、ヤフオクの評価欄では同じようなことば使いが並びます、それでは何も伝わってきません、年賀状も同じでハンコで押したような言葉の羅列の印刷物が目立ちます、フェイスブックの「いいね」も形式的ないいね、ばかりたくさんで、世の中を見回すとことばはいつのまにか、意味を持たない空虚なことばばかりが世の中を席巻しています。
こういうのは違和感を感じます、たかが本当の気持ちを表すことばがどうしてこんなに貴重なことなんでしょうか、何か言うならもっとマシな言葉を言えないものか、それを見るたびに空しい違和感を感じます、少なくとも僕らのような精神発達障害を抱えた者たちにはただのは社交辞令を真剣に受け取るので本当にこの手のことばはその真意が読めず判断に苦しみ傷つきます。
子供のころ母のところに来るたくさんの年賀状を見て「たくさんの年賀状、すごい、、、」と言うと「こんな印刷だけの年賀状なんてもらったってうれしくないわよ、そんなのよりあんたらの面白い年賀状の方がよっぽどもらって嬉しいじゃない」と言われた、でもあのころ母の言う意味が分からなかった、わずか数枚の年賀状よりたくさんもらえる方がずーっとうらやましかった。
生きて行くことは、どうでもいいようなこと、無意味なこと、中身のないこと、それをいちいちあれこれ気にして反論したり、文句を言ったり、一つ一つ上げつらって生きていたら誰とも上手くやって行けないし、ぶつかって仕方がないし、そこは難しいところだと思う、もっと肝心なことは別にあってみんな大人だからもっと肝心なことを守るために些細なことは受け流して日々を生きています、僕の言い分は偏狭なのは自分でも分かっている、、、、。

話は変わって、今個展の準備中、明後日から始まります、だいたいの準備はもうとっくに終わって時間的には余裕があるけど、残すとこ1週間くらい前、額装した作品をアトリエにずらっと並べて見て、何かがおかしい、気持ちがしっくり来ない違和感を感じた。
あれ?この作品ってこんなにつまらない作品だったかな、、、、、?そう感じた時、危機感を感じました。
いや、この作品はそんなつまらないはずはない、じゃあ、、、、何んでこんなにつまらなく感じたんだろうか?と考えた、理由は今でも良く分からない。
今回の作品展は会場が狭い場所都合、場の雰囲気からして売れるとしても安めの小さい物しか多分、売れないだろうと薄々感じ、大きめの額は始めから作る気はなくパスした、仮に大きめサイズを作ったとしても何点も並べられない。
でもやはり何かおかしいと感じたので思い切って大きめの作品を数点試しに作ってみた、すると作品の見え方が嘘のようにガラッと変わった、そんなにサイズには差はないんだけど、ほんのわずかな差でここまで見え方って変わるものかとびっくりした。こんなに違いが出たのは初めてだと思う。
大きめが、ここまで見え方を変えると思ったら、残った大きめ額は全部で7点作った、でもその数は会場に掛けられるキャパシティーを超えている、、、、、、でも後のことは現場で考えればいいこと、自分がいいと思ったことをやれば結果はついてくる、、、、そう信じるしかない気がした。
こういう時、物質的作業とか数字ばかり心を煩わせすぎると物事の本質が見えなくなる、あまりそこにハマりすぎると、肝心なことを見失ってはズレとか違和感は信じられないほど鈍感になる、感性を売り物にしてる僕らだって例外じゃない嘘みたいに物は見えなくなる。
これは才能より生き方の方がよほど大きい、建前とか現実を優先して考えていると、そのうちに何が大事で何が本当か、何が嘘か、それを感じる瞬間が分からなくなる、でもそんな生き方は世の中ではあまり歓迎されない、仮に歓迎されたとしても辛い思いは避けられない、一番理想はバランス感覚に優れた生き方、でもそんなのはただの理想で、現実はどっちかを取るしかないことばかり、その結果、多くは現実を選ぶ、そして中身のない言葉を口にする、実体のないスカスカな「いいね」を入れるようになる。そんな生き方はイヤだ。

個展の準備、あとは見せ方を考えます。 

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ここ10年くらいの間に個展を開くのは今回で5回目になります、これまで会場にさせてもらったギャラリーが今はもう使えなくなったこととかで3年くらい個展から遠ざかっていました。
でも現実問題、作品を世の中に発表する機会としては個展は話が早いです、写真集を出版社から出すには敷居があまりにも高い、かと言って自費出版は、、、、出せるには出せないことはないが印刷にお金をかけないと印刷の良くない雑な物しかできないし、仮にお金をしっかりかけて良い印刷物を作ったとしても、売りさばく販路がないんでは掛けたお金が 回収できないで大量の在庫を抱えるばかりでこれも困るし、、、、、。
でも個展は個展でまた問題があって、基本的にはその場だけの発表で、カタチが残らない、どっちが良いのかなんとも言えない、まず発表しないことには話が始まらない、とにかく最近は個展から遠ざかっていましたが今回は久しぶりの個展です。

さて個展展示について少しお話しします、今回の作品は始めから個展はまったく意識しないで作品を作り始めましたから急遽個展をすることになってセレクトにアタフタしています。
個展で写真を見せるとはただ会場を埋め尽くすだけの作品点数を並べたらそれで良いと言えば、そうではないと僕は思います、作品の見せ方は作家各自の考え方次第で、何が、正しい、間違ってるはないけど、やはり見せ方に対してあまり執着しない人、展示のあり方を考えない人、展示に強い意識を持ってる人、この違いは会場の空気がまったく違います、もちろんその質を決めるのは最後は作品の力です、いくら見せ方がどうのこうの理屈を並べたところで作品に力がなければ元も子もないですが。

個展会場をただ点数を並べるんではなく、作品から何かメッッセージが伝わるように構成します、それが僕の個展の考え方です、つまりは個展は組み写真だと考えるべきだと思います。
6月の21日オープン、あとプリント作業ができる日数は残り5日あります、会場を埋めるプリント数は大体終わったけど、アトリエにズラッと並べて改めてそれらを見直すと、、、、、あれっ?この作品ってこんなにつまらない作品だったかな?とじーっと見て率直にそう感じました。
このままではちょっと困ったものだな、、、と感じました、それはズバリ危機感です、パソコンのモニターの印象と手頃な出力用紙で作ったファイルの印象と、額に入れた印象はかなりズレを感じました、パソコンで見た感じではさほど気にならなかった物が、額に入れて見ると、何かが違う、、、、はて?どうしたもんだろうか。
この些細な違和感、奥の深い作品が作れる人と平凡な作品で終わる人は、ここが分かれ道です、こういう違和感を絶対に見過ごせない人とあまり深く気にしない人、ひょっとしたらそこに気がつかないで発表できる人は結構います。
ただ言えることは、そこで拘って手直したからいい結果が出るかといえば、必ずしもそうではない、あれこれやって返って作品をぐちゃぐちゃにすることもあります。無駄なエネルギー、無駄な用紙、無駄な時間ばかり使い、延々にクルクル回るばかりで結論が出ないことだってあります、下手をすると作品をダメにすることだってあります、実力がある人はこういう時の対処が実にうまいのが実力のある人だと思います。
今回僕が感じた違和感は、そもそもこのタイトルは魔法植物園です、パッと見て作品にしっかり魔法がかかってもらわないとダメです、でも今のところ物足らないというかちっとも魔法を感じません、このままではただ植物をキレイに撮っただけの写真展になりかねないです、モニターのセレクトをそのまま額に入れたら意外につまらない、何が原因でこうなっちゃったのか?ちょっとショックだったけど気を直して考えられることから一個一個、手を入れ直すしかないです。
一つ思いつくことでは、選ばれたカットは良い写真ばかり選んだことに気を取られすぎた気がします、どこか良い写真展にしようとして力み過ぎたような、見る側に分かりやすくしようとしたような気がしました。
まずその考えは捨てることにしました、その考えでは何も引き出さないことが分かりました、プリントはもう少し突っ込んでも良いのかな、、、、と思いました、もっとやんちゃなカットに好き放題に枠組みから外れた表現の方が良いと思いました、このままでは良い子すぎたようなつまらない感じがしました、もっとヤバイ感じがないと物足らない気がしました、マジにここからが本気の勝負です。
場を盛り上げる脇役みたいなカットを混ぜることで全体に弾みがつきそうな気もしました、同じサイズだけで構成するより大きな額も入れて場にメリハリを付けています、作業としては残すとこあと5日です、それだけあれば作業的には余裕なんですが、残された日を作品とどう向き合うかです。
作品を手直ししてやっと感じたことですが、作品をちょっと大きくしただけで見え方がガラッと変わりました、今まで何が物足らなかったのかがやっと見えてきました、じーっと見入ってしまうくらい力を持ったプリントがなかった、会場が小さく大きめの額の作品は控えていましたが、やはりこれは大きくして見せないとつまらないことが分かりました。
これまでずーっと感じてきたことですが、出力はモニターで見た印象から質が落ちるのが通説でした、でも今回初めてモニターで見た印象より出力の方がはるかに良い感じですがこれはとても嬉しいことでした。

ある大学ラグビー部を撮らせてもらいモノとデーターの違いを感じた、 

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これはある大学のラグビー部の集合写真です、もちろん部員はたったこれだけじゃなく、もっと他にたくさんいます、これは各学年ごとに撮った中の1枚です。
撮った経緯は生徒の親が集合写真を僕にお願いして実現しました、僕は過去にある大学ラグビーをスポーツ誌ナンバーで1年間追っかけ取材したことがあります、その時にチーム監督から集合写真をお願いされて撮りました、結果的にその大学が優勝して、その写真はナンバーで扱われ見開きに大きく掲載されたことはありましたが、僕が過去撮った集合写真はそれが専門ではないのでそれ以外に撮ったことはあまり多くはない。
これまで集合写真をどこか甘く見ていたところがありました、それより一人の肖像写真の方が集中力が試される、どう撮ったらカッコよく奥が深く撮れるのか、その方がはるかにやりがいがあるとこれまで思っていました。
最近、写真と言えばほとんどデジタルです、もうフィルムの時代ではないので、今回、大判モノクロフィルムを入手するのに苦労しました、ここでデジタルか、フィルムか、そんな議論をこれ以上したところで仕方ないですが、今回デジカメが写す世界、大型フィルムカメラが写す世界の違いと、集合写真は何が写るのか、それを書きたくなりました。

僕が子供のころ学校のクラス写真と言えば写真屋さんが黒い布を被ってアコーディオンみたいな蛇腹の付いたカメラにレリーズを手に撮るやり方がまだ残っていましたが、今時こんな撮影に出会うのはもうないです、今回この大きなカメラを使うことになった経緯とは、、、僕がそれを勧めたのか、相手から頼まれたのか、どっちか忘れたけど過去、撮った写真を見せてそれと同じようにやろうという雰囲気になったのは確かだったと思います。
大型カメラを使うには多少リスクがあります、まずカメラが重くて身動きが取り辛い、扱いも厄介だし、フットワークが軽くないし、フィルム感度が低く日が落ち始めて撮るのは条件がやや厳しい、ロールフィルムじゃないからカット数を撮るにはホルダーも用意しなくてはならない、フィルムを暗室で詰めないと撮れない、コストもロールフィルムに比べてはるかに高いと、とにかくあれこれリスクが多いカメラです。
その代わりフィルムが大きい分、緻密で描写力のある写真が撮れます、でも現実問題、選ばれる理由は画質より布を被る大げさな儀式のような撮影ぶりが場を盛り上げさせるからだと思います、とくにこの時代若いデジカメしか知らない世代には大型カメラ撮影はちょっとしたイベントです。

前置きはこれくらいにして、それで写った物を見てビックリでした、正直な話、このブログの写真は画像が小さすぎてそこに一人一人に写った緻密さが表現されていないのでちょっと悔しい気分ですが、ここで感じた気分を言葉でなんと書けばいいのかちょっと困ります。
チームとして同じ目標を共有する者たち同士にだけに生まれる、その場の一体感とでも言えばいいのか、そんな独特な空気がそこに写っていました、中にはふざけてるのか真面目なのか、ふたりで腕組みしたヤツとか、多分こういうのはその場の連中たちには感じられない感覚かもしれないけど、連帯感を育む生活体験がない僕にはちょっと鳥肌が立つ気分がそこに写っていました。
先にも書いたようにこれまで集合写真はあまり撮ってこなかったし、その深みもあまり知らなかった、むしろ一人を相手に撮ることしか関心はなかった、集合写真は一人の肖像写真とはまた違う写真の見方がそこにあることに今更気がつきました。なんと言えばいいのか個々を撮るのとは違って、そこにある集団の空気を撮ることが集合写真の醍醐味じゃないかとやっと気がついた。
イギリスのパブなんかでは時々、色褪せたラグビーチームの集合写真が飾ってあるけど、不思議な空気を写真から感じることがあります、でもそれは何十年も前に撮られた物で、建物も服装も風景が昔だったり、髪型とか顔つきも昔風だったり、印画紙も退色したセピアぽいモノクロ写真だったり、時間の経過がしっかり写っているからじーっと見ていて飽きさせない見応えある写真が多い。
それらは条件が揃っているから見られるけど、今回の大学生のラグビー部は大きなカメラで撮ったとしても、今風の顔、今風の空気、つまりはそこには日常のありふれた写真しか写らないだろうと、そこに大きな期待はしていなかった。
ところが、撮影時、僕はちょっとした異変を感じた、シャッターを切る時、誰か目をつぶってるヤツはいないか、、服装が乱れているヤツはいないか、スボンのファスナーが開いてるヤツはいないか、一人一人じっくり見ていた時、不思議な空気をかすかに感じた、それはなんと言えばいいのか、、、、時間が止まったような、魔法にかかったような、これって何なんだろう?と思いながらシャッターを切っていた。
でも実際問題それに浸っている余裕はなく僕はもっと必死だった、とにかく太陽が刻々と動いている、集中を切らないで次から次へと撮らなくてはならない、単純な話、撮る時、集中力が欠けると単純なミスをする、ピントを外さない、フレームングをズラさない、それをしないように撮る、急いでうっかりフィルムを開けてしまう、一回撮ったフィルムでまた撮る、ピントネジを締め忘れで撮る、とにかくこの手のカメラはつまらないミスが出やすい。
カメラの周りでギャラリーがワイワイガヤガヤ騒いだり、笑い声を張り上げたり、撮られるヤツら相手にあれこれ、からかったりするヤツがいた、「気が散るから黙ってくれない!」と僕は言った、撮られる側も僕の奇妙な緊張感は確実に伝わっていたと思う、スマフォで誰だってカンタンに写真が撮れる時代、この空気はなんなんだ?と思ったヤツもいたと思う、でもそれが結果的にある顔つきにさせたと思う、もし仮に僕が普通のカメラやデジカメでパチパチと撮ったとしたら、この空気が果たして写っただろうか?多分、緩い空気しか写らなかった、そう思うとこの厄介な時代遅れのカメラが写す威力は先端のハイテクカメラにも負けない、としか言いようがない魔法のカメラかもしれない。
もしこの場がただの集合写真だったら、この空気は果たして写っただろうか?写らなかったと思う、これは一つの目標に向かって価値観を共有し一緒にメシ食って寝起きを共にして生まれた空気がこれを写させたと思う。
結論、これまで集合写真がここまで奥が深いとは思っていなかったし知らなかった、集合写真をこれまで甘く見ていた、撮り方次第で、昔のケンブリッジのラグビーチームのような写真は条件さえ揃えば日本で今でも撮れると思った。
ある、アートディレクターが言ったこと、アナログ写真はモノだけど、デジタル写真はデーターでモノではない、と言ったけどこれがそのモノとデーターの違いだと思った。