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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

箱根峠自転車踏破の話 

今日は旅の話は一休みして箱根峠自転車踏破の話です。
経緯から書けば、ジョギングを毎日してたら足首を痛めジョギングは控えることにした。しかし何かそれに代わるエネルギー消費運動を定期的にやらないと僕はあっさり太るタイプで始めたのが自転車坂道トレーニング。
近くの坂を毎日5〜7往復している、1回の登坂が300mくらい、毎日2Kmくらい坂路トレーニングしている事になる、不慣れなころは一回登るだけで精一杯だったけど慣れると5回でも10回でも登れる、10回もやればうんざりするからやらないけど体力的には出来る。
自転車の登坂は体力勝負だけど、体力だけではなく自転車登坂のスキル次第で立ち漕ぎと座り漕ぎを上手く使い分ける、立ち漕ぎの場合は漕ぐというより体重を上手く使って進めればいい、よって軽いギアで登るよりやや負荷のかかるギアを上手く使って体重で登るように出来たら坂道はわりと行けそうに感じ、これなら箱根越えも夢じゃないな、、と思った。
昨日決行した、鎌倉ー箱根湯本間は自転車は袋に収納して電車移動、そして湯本に到着して自転車を組み立てる、箱根湯本から芦ノ湖までの往復、距離にしたらわずか片道11,5 Kmとそんなに遠くはない、ただ高低差が結構ある、箱根湯本92m最高地点795mだから約700mを自転車で登る。
あまり早朝に出ても道路が凍結していたら危ないので多少ゆっくりめでスタート、10:00に湯本到着、自転車組み立てに30分費やし、10:30にスタートした、宮の下くらいまではわりと苦もなくスムーズに登った、しかしその後の小涌園くらいから疲労が出始め立ち漕ぎは出来なくなり始めたのでギアーを落として座ってゆっくり登った。
立ち漕ぎの場合、負荷の重いギア比を体重をかけて登るので効率よく進むが座り漕ぎの場合は負荷はかけられず進み具合が ゆっくりになる、要はどれくらいまで立ち漕ぎで行けるかがカギだと思った、逆に言えば立ち漕ぎを鍛え体にどのあたりのギアーが自分の足に調子良いかを普段から慣らして練習していないとこの挑戦はまず無理、それさえやっておけばさほど厳しい挑戦でもない気がする。
そんなわけで宮の下まではわりに順調だったが、それ以後は疲労が出て始め立ち漕ぎができなくペースダウンしてなかなか進まなくあとわずかな芦ノ湖までがやけに遠く感じた。
芦ノ湖では軽く昼食を食べたらさっと復路を走った、坂道を降りるだけだが、調子に乗って飛ばして路肩の砂で転けて事故でも起こしたら大変だから、慎重に慎重に車がいない時に道の中央を飛ばした。
やはり登りは汗ばんだのでシャツは当然濡れたので着替えて防寒準備はしっかり整えたが、下りはやはり体力を消費しない分、体が冷える、上半身はまだしも膝が冷えたが、このまま休まず湯本まで突き抜けた、湯本まで時計にしてわずか35分くらい。あれだけ飛ばして30分もかかったんだから湯本ー芦ノ湖は少なく見ても15キロはありそうだけど地図上ではそういうことになっている。
ちなみにコロナで箱根観光客は相当に減った、箱根の街は閑散としていた、国道を走る定期バスの車内を見るとどのバスをも乗客は2〜3人かゼロの状態で虚しく走っていた、ここまで乗客がいないなら便数は減らすべきだと思うが、それぞれの事情がるのか虚しくも1時間に何本もの空のバスが忙しく走るのを見かけた。

カルカッタの初日、笑いが止まらなかった。 

前回書いた「カルカッタのポン引き」インドの話はこれでで終えようと思った、けどインド初日に味わった奇妙で可笑しな話はまだ続く、書きたい思いは山々あるが、体験したことはあまりにも奇妙すぎて僕の文章力では体験したことを上手く書けるかだ、書こうかどうしようか迷ったがここは書いた方がいいなと思った。
もう一度断っておくがこれは40年も前の話です、今もインドはこの調子かどうかは分からない、多分こんなインドはもう遥か過去の話なんだろう、日本だって40年前の話はずいぶん過去の話だからこれがインドだなんて思わないでほしい、それにカルカッタはインドの中でも最もおかしな街だと思う。
僕だって40年前のまだ何も知らなかった時の感性をありのまま書いた、この体験は見方によっていろんな解釈はあるだろう、、、ガンジャの話もどう解釈されるか、、と思ったがなんせ40年前の話だ、ここは包み隠さずあるがまま本当の異ことを書こうと思った、今ならもうこんな見方、こんな解釈は僕だってもうしない、でもこれが22歳の僕の感じ方だった、良いとか悪いとかは横に置き、これがその時の、40年前の僕だった。

宿に着いたらそこはまるで大使館に逃げ込んだかのような安堵感があった、これでうるさい雑踏に囲まれることはない、大勢の人混み、うるさいポン引きたちに付き纏われることは取り敢えず解放された、やれやれ、助かった、、、、、。
宿には宿泊客の溜まり場スペースがあって、そこに日本人西洋人バックパッカーたちが数名くつろいでいた、日本人の宿泊客が「これからガンジャを巻くんですが、、、、良かったらやりますか?」と誘われたので好意に甘えることにした。それにしても話には聞いていたが、入国初日からいきなりガンジャとはびっくりだった、インドは質が良いとかいろいろ聞いてはいたが、、、、、まずはゆっくり一服した。

アタマがクルクル回ってきた、時間をおいたらもっと回ってきた、よし、良い感じと手応えを感じた、たったさっきまでしつこく付き纏われうんざり辟易してたポン引きたちがマンガ世界の人物に思え始めた、今の世代の人たちに語っても多分分かってもらえないと思うけど、僕らが子供時代にテレビで流行ったアメリカのギャグ番組「ちびっこギャング」を思い出した、カルカッタの街が「ちびっこギャング」そのままに見えてきた、さっきまで悩まされたストレスが一気にお笑いの世界に一転した。
笑いが一気に込み上げてきた、笑いがもう止まらなくなった、何を見ても笑えて、笑えて、仕方なかった。
そのまま街に出て歩き回りたくなった、一緒にガンジャをやった一人が「チャイでも行きますか?」と言ってくれた、迷わずついて行った、外に出たらまたいっせいにポン引きたちが寄って来てあれこれ言う、ポン引きの話すこと、やること、そのすべてが、もうどうしようもなく笑えて笑えて笑えて仕方がなかった、もう止まらない、、、、、、。
多分あんなに笑ったのはもうないかも知れないくらい笑った、そこで一生分まとめて笑ったのかも知れない。

どうしてそんなに笑ったのか?僕はガンジャで飛びながら自分を冷静に見ていて、その答えはちゃんとわかっていた。
僕は学校時代出来の悪い子だった、先生たちからはどうも手に負えない子だった、授業なんて少しも興味が持てず、当然成績なんか良いわけがない、そんな僕を見て大人たちは僕を叱った、もっとマトモになりなさい、って叱った、特に悪いことはしてない、ただ大人たちの言うことが興味がなかっただけだ。
そう言う子供時代って子供にしたら結構ストレスだった、子供ながらに大人たちの言うことはずーっとウソだと薄々思ってた、大人たちの言うことをどこかで見透かしていた、インドに来て思った、やっぱりこういう奇妙な社会がちゃんとあったじゃないか?やっぱり大人たちの言うことは本当じゃなかったとカルカッタに来て心底思った。
笑えて笑えて、笑いが止まらなかった。

カルカッタのポン引きの洗礼 

旅で見たこと、出会ったことをテーマに書き始めたら、やはり何かとインドの話題がどんどん湧き上がってくる、でも毎回インド続きもなんだな、、、他を書こうと思って、あれこれ思い出したが、やはりインドの初めて降り立った衝撃は後回しにできない。
インドを初めて見た印象、、、事前に強烈な話は山ほど聞いていたけど、実際にそこに降り立ってみると、少なくとも僕は鮮烈な洗礼を受けた、マジメな話、バスから街を見てもう体が固まって降りられなくなった、こんな凄まじい体験は人生の中でたった一回だけ、ここまで凄まじいのは後にも先にもない。
マンガみたいな現実がそこかしこで見られた、呆れるやら、驚くやら、でも世界の現実はこんなことが普通で、、、むしろ定刻通りに電車が毎日毎日きちんと当たり前に走る社会、マニュアル通りに働ける人間社会の方が世界から見たらやや異常なんじゃないか?人間ってホントにそんな行儀の良いものなんだろうか?と世界を旅して思うようになった。
初めてのインドの印象を順を追って書くと、、、、長いフライトを終えてやっとカルカッタの空港に到着しイミグレーションに立った、イミグレーションの係官は僕にウインクするように片目を閉じてニヤニヤ、小声で、シガレット?ウイスキー?隠すように人差し指で出せ出せ指図した、要するにオレにワイロを出せ、、、、と、そんなもの持っていなかったし、特にイミグレでワイロを出す必要もないと思い、NO、、、と素っ気なく答えた。
係官は「フン!」と不機嫌そうにパスポートにスタンプを押してポイっと僕に投げて寄越した、中には旅に不慣れな日本人なんか言われるまま出す人もいるのか、、、、言うだけ言ってもらったら儲けものなんだろう、、、、でもここはインドの玄関、カルカッタ国際空港のイミグレーション、日本ならあり得ない話だけどこれがインドの現実だった。
インドに入国してバスに乗って街に向かった、畑の野原に囲まれた空港から徐々に街に近づく、ボロい建物の街並みが次々に出てくる、ヒンズー映画の大きな看板、トラック満載に乗った人間、列車の屋根に人がたくさん乗っている、まるで戦争直後の空襲でガタガタの街を見てる気分だった、それをこの目で見て言葉を失った、僕はここを自分一人で旅をしなくてはならないスイッチを押した、今更怖くて引き返すわけにはもう行かない。
こんな話を聞いたことがある、中にはカルカッタに送られた商社マンがそのまま精神病院に直行した人もいた、宿から一歩も外に出られず日本に帰った、多分今また同じ場面を見てもどってことはないだろう、多分笑って街を歩く余裕があると思う、でもあの時は絶句でしかなかった。
さてバスはどんどん先に先に進んだ、僕はどこで降りるかもうワケがわからなくなっていた、本当は降りるべきとこまで来てたんじゃないか、薄々分かっていたけど街の圧力が凄く降りられなかった、降りる場所はとっくに通過し終点まで行って降ろされた、目的地は安宿のパラゴンホテル、みんながカルカッタではそこを目指せと教えてくれた。
降りた場所からどっちに向かって歩けば良いのかワケがわからない、右も左も南も北もさっぱり分からない、いくら地図を広げ行くべき方向を探ろうとしたがどうにもならない、分からないんじゃない、アタマが完全に機能しなくなっていた。
行き先をそこらのインド人に聞くと一瞬にして大勢のインド人の輪が出来それに囲まれた、みんながみんなそれぞれがあっちだ、、、こっちだ、、と360度勝手な方向に指を差す、やれやれ、、とため息が出た、これは聞くだけ無駄だと思った。
とにかく異常な数の人が街を歩いている、誰かに道を聞けば、あっという間に黒山の人だかりになる、でも単なる好奇心なだけでなんの意味もない、どうやら行き先は、、、さっき通過したところまで戻れば良いんだとアタマが機能し始めた、ひたすら歩き始めた、背中の荷物は重たかった、長い飛行機の旅でフラフラだった、いち早く荷物を下ろして寝転がりたかったけど、まずここは這いつくばってでも歩くしかない。
街を歩くとポン引きが入れ替わり立ち替わりやって来る、そして、僕にあれこれ言う、一言二言じゃない、延々にアレコレ言う、チェンジダラー?ユーセルウォッチ?スクールガール、グッド、グッド、ユーワント?ガンジャ?ハシシ?オピューム?さらに手のないコジキの子供がニコニコやって来て、バブー、バクシーシー、恵んでくれくれと延々に着いてくる、とにかくしつこいったらない、うんざりするくらいしつこい、異常なくらいしつこい、呆れて言葉が出ないくらいしつこい、普通、数十メートルも歩けば諦める、カルカッタは特別に異常だった、こっちがマジに怒らなければひょっとしたら1キロでも着いてくるかも知れない。
旅の疲れもあって、ポン引きの嵐に僕はヘトヘトになった、それでも次々に新しいポン引きやって来た、あるポン引きがパラゴンホテル?と言った、ああこいつに着いて行こう、、、Yes Yes !と答えた、ちょっと怪しげな感じもしたが、もう思考能力はマヒしていた、黙ってこのポン引きに着いていくことにした。
このポン引きは歩きながらスクールガール?ダラーチェンジ?ハシシ?ガンジャ?と延々に飽きもせずに喋り続けたが無視した、すると他のポン引きがやって来てまた同じようなことを始めた、ポン引き同志が次第に口論になった、そのスキを見て逃げるように歩き始めたら、、、、慌てて、マスタラ〜、マスタラ〜、と追っかけて来た。マスタラ〜とはマスターと言ってる、要するに親方、旦那、ということらしい。
無事に宿に着いたら法外な案内料を言われるか覚悟をしたけど、もうそんなあれこれ考える余裕は残ってなかった、そうこうしてたら、無事、パラゴンホテルに着いた、そして案内してくれたポン引きはそこにはいなかった、後でインドを長く旅してる人に聞いたら、「あいつらは宿からお金をもらっているみたいよ、、、だから気にしなくて良いよ。」

ブッダガヤのインド人社会の裏表事情 

ブッダガヤには何だかんだと2週間くらい居着いてしまった、そこが居心地が良かったかも知れないが、その季節のインドの旅は過酷だった、あまりにも暑くて体がとことん疲弊してたから動けなかったからだと思う、これを書き始めたらいろんな記憶が、一緒に遊んだヤツらの顔が次々に浮かんで来た。
最初にブッダガヤに着いた時に僕に声をかけた男、シュレーシュは付き合って徐々に分かったのは愛想良く近寄ってくるが、どこかで何か企んでいるような、儲けることしか考えていないような、あまりこれ以上は心を許して近寄らない方がいいなと感じ僕は少し離れた日本寺に宿を移った。
でもご飯を食べに行くには、村の中心、彼らの溜まり場の近くに行く、チャイ屋で毎日フラフラ屯しているインド人たちと顔を合わる、近くを通ればヒマなインド人たちに捕まる、相手しないで素通りするわけにも行かない空気があった。
彼らは快適な観光シーズンは団体観光客相手に土産物を売りつける仕事をする、そこで一年分の売り上げを稼ぎ、あと閑散期は溜まり場のチャイ屋で毎日フラフラと屯をして、時折やって来る日本人バックパッカーを捕まえては、、、ヒマを潰し、僕らに何か土産物を売りつけて小遣い銭を稼ぐのが彼らの日常だった。
インド人は日本人と違って人付き合いに距離をあまりおかない、とにかくベタに近寄ってくる、しつこい、うるさい、ベタつく、何かおもしろいギャグをやればヒマな彼らはすぐに大騒ぎする。
ある時、みんなでオート3輪トラックで街まで映画を見に行った、当時流行っていたインド映画だった、題名は「サッテンバラムスンダラム」ヒンズー語タイトルで意味なんかさっぱり分からないけど、映画が単純だから言葉なんか分からなくてもついていけた、時々何か分からなければ、一緒に行った子供に「どうしてあの人怒ってるの?」と聞いたら、ちゃんと丁寧に小声で教えてくれた。
インドの映画館館内はとにかくおもしろい、あれは一回は見た方が良い、映画に合わせて歌い出したり、ハラハラシーンは足をドタバタと音を立てたり、悲しいシーンはワーワー騒いだり、泣いたり、怒ったり、感情をあらわにする、ちょっとうるさいけど笑えた、映画の後はみんなでチャイ屋に入ってチャイと甘物を食べてワイワイ騒いで村までまた同じオート3輪に乗って帰った。
その後、僕は映画の女優さんの名シーンのモノマネをしたらヒマな彼らは大喜びした、それ以後、娯楽の少ないヒマなインド人たちは僕の顔を見る度に「シンジさん、あのルッパ(主役の名前)のヤツ、またやって、やって、やって、お願い、、、」とにかく飽きずに何度も何度も言う、この人たちには「もう見飽きた、、、と言う感覚」がまったくないのか?ってマジに思った、これが日本ならとっくに飽きられるのがオチだけど、、、、。
僕の出会ったブッダガヤのインド人は大体はそんな感じのヤツらだった、村には仕事がないのか、シーズンオフは毎日、日本人相手に遊んで暮らしていた、稀に西洋人バックパッカーも立ち寄るが1〜2日で出て行った、そこは日本語村だからか、、、日本人はそのまま長く居付くヤツが多く僕もその一人だ、彼らは西洋人より日本人の方が、言葉の問題、相性が良いのか、日本人好きが多かった。
もちろん彼らの目的は日本語が話せたら日本人巡礼団相手に土産物を高く売れるから日本語勉強は大事な仕事、そもそも日本人は楽で良い、多少ふっかけたところで誰も文句も言わない、あっさり言い値で買ってくれる、彼らにしたら良い客だと思う。
ある時、普段、話さないインド人が僕に声をかけて来た、日本からの手紙を読んで欲しいと言われて彼の家に行った、仏教巡礼でブッダガヤに来た日本人のお年寄りからの手紙だった、彼は日本語が話せても日本語は読めない、書けない、それを読んで聞かせ、彼の話すまま返事代筆してあげた。
後日、その話を聞いた、最初に僕に近寄ったシュレーシュに家に誘われた、どうせロクな話じゃないのは薄々感じたけど黙ってついて行った、家には日本の雑誌、何冊か見せてくれた、すべてヌード付きの雑誌ばかり、プレーボーイ、平凡パンチ、GORO、などだった、インドではポルノはもちろんヌードが載ってる印刷物は一切禁止だった、またインドの印刷に比べて日本の印刷の日本人女子のヌードは彼らにすれば絶品モノだった、新しい雑誌を送って欲しいと頼まれた。
彼らの好みはハッキリしていた、どちらかと言えば、大人の熟女ヌードではなくて、女子大生、女子高生っぽい、日本人の若い子のヌードがどうしても欲しいと僕にしつこく頼んだ、彼らの好みはロリコン趣味、日本の女子高生には目がなく、それでマスターベーションするんだとマジメに僕に話した。
当時のインド社会は男女問題はビックリするくらい保守社会だった、結婚前の男女が手を繋いでベタベタ、イチャイチャして街を歩くのはあの当時は考えられなかった、まして日本人のヌード付き雑誌はよだれが出るくらい欲しかったみたい。
村に2週間くらい居付いたら、、、だんだん村の人間模様が徐々に見え始めた、見たくなくても見える、聞きたくなくたって聞こえる、誰と誰が仲が悪く口を効かない、誰が誰にはアタマが上がらない、誰と仲良くしたら誰が嫉妬する、誰が誰からお金をいくら借りている、言葉が分かると知らなくても良いことまで分かるし、聞きたくないことまで聞かされたり、、、、だんだん疲れ始めた、もうこの村はここらが辺が引け時かって感じた、それでブッダガヤを出てカルカッタに向かった。
今思えば、それらは遠い昔の思い出に変わった、それ以降いろんなところを旅したけど、ここは妙に思い出深い場所だったと思う。

仏教最大の聖地 日本語で大金持ちになったインド人の話 

昨日は免税店で飛行機代を浮かせる目的で買った酒タバコは思うような価格では売れず、それを手に持ったまま次の目的地のブッダガヤに着いたところまで書いた、このブッダガヤは今思うと不思議な村だった、何が変か?ここは仏教徒の間では一度は訪れたい仏教最大聖地だけど、、、、なんだか聖地のわりには巡礼者、観光客がいない、ひっそりとのどかな閑散とした村で、そこにいたのは日本の貧乏旅行者がパラパラ数人いただけだった。
少なくとも僕が行った時はシーズンオフだったのか観光客らしい観光客なんて一人もいないさびれた聖地だった、しかし聖地とは言えど、聖地の住人は人間の欲望、俗の塊で、彼らのおもしろい裏話しが見え隠れするおかしな村だった、その後、僕は40年以上の年月、世界のあらゆるところを旅したが、これまで旅して来た土地で最もおもしろかったとこはどこか?と聞かれたら多分ブッダガヤは5本の指に入るかもしれない。

まず聖地ブッダガヤについて少し説明をしよう、今から2500年前、インド、ネパールの国境にカピラバーストという小国があった、カピラの王族、シャカ族の王子、ゴーダマシッタルダは妻子がいたが王位を継承する事なく妻子を捨てて出家し修行僧になった、約6年の苦行、断食修行の果て苦行なんか悟りには無意味だと識り、やつれた修行僧を見た娘スジャータはシッタルダに乳粥を寄進した。
修行僧にとって本来、乳を口にするのは厳しく禁じられていたがシッタルダはスジャータが差し出した乳粥を迷うことなく口にした、そこでやっと生気を取り戻し、その後、シッタルダはネランジャラ川のほとりの大きな菩提樹の樹の下で瞑想に入り7日目についに念願の悟りを開き「宇宙即我の境地」に達し世に言うお釈迦様は誕生した、そしてその記念すべき聖なる土地がブッダガヤです。
熱心な仏教徒なら一度は行ってみたい仏教最大の聖地がブッダガヤ、しかし僕がそこに着いて感じたのは、そんな神聖なんて空気どこ吹く風?そこが神聖どころか俗にまみれた人間模様がそこかしこに見え隠れした可笑しな村だった、僕がそこに行ったのはやはり聖地に対する憧れは多少はあったが、現実を見てまあそんなものだろうと、そのギャップをたいした矛盾もなくあっさり受け入れた。

今から40年以上も前のことだから、今再びそこに行ったら、そこが果たしてどれだけ変わったのかは計り知れないが、多分えらいことになっただろう、、、、当時のブッダガヤの村の中心は、大きな菩提樹が祀られ、その前にチャイ屋(インドの喫茶店)と食べ物屋とお土産屋が数件立ち並ぶくらいののどかだった、その中心にバスは到着し2〜3台のオートリキシャー(3輪タクシー)が停まっている感じだが、東京の浅草の門前町の賑わいぶりを思うと、これが仏教最大の聖地とはとても思えないのどかさが笑える。
ブッダガヤには世界の仏教国の仏教寺院が何軒かパラパラと点在していた、例えばチベット、タイ、スリランカ、日本寺など、、、、日本寺は中心から少し離れた場所にあった、日本寺は旅行者たちを快く泊めてくれたが食事や雑用で外に出るには中心まで遠く多少は不便だったけど設備は他より少し快適だった、始めは中心の溜まり場(バス停付近)からすぐのビルラ寺に宿泊していた、ビルラとはインドのビルラ財閥が寄進した巡礼者用の宿泊所で宿泊費は基本はタダだったけど出る時にバクシーシー「お志し」を置くのが現地のマナーだった。
食事は少し歩いた村の中心、菩提樹が祭られたみんなの溜まり場近くのチベット料理屋で毎日モモと呼ばれたチベット肉まんなどチベット料理を食べていた。

どうしてブッダガヤは毎日仕事もしないでフラフラしてるインド人の兄ちゃんたちが達者な日本語を話せるのか?これにはわけがあって、、、、これはインド人から聞いた話だけど、ブッダガヤの日本寺は地元の子供たちに勉強を教えたり、作業を手伝わせたり、それで褒美にお菓子をあげたり、ご飯を食べさせたりしていた、ある地元の子供が日本寺の僧に懐いて毎日のように雑用を手伝った、彼は代償として僧から勉強を習ったり、ご飯を食べさせてもらい、彼はやがて完璧なレベルの日本語が話せるようになった。
観光シーズンになると日本から多くの仏教巡礼旅行者たちが団体で日本寺に泊まった、彼は日本人旅行者たちのお世話、コマゴマとした雑用を喜んで引き受け、旅行者たちから相当可愛がられたそうだ、そしてある日本人が旅費を全て出して日本に招待した、さらに彼は日本人相手の土産物屋を開いて菩提樹の数珠を売って大儲けをした、やがて彼は村屈指の金持ちにまでなった。
それを見た他のインド人たちは彼のように日本語を覚えたら、彼みたいに裕福になれると村中みんなで日本語熱が燃え上がった、、、それ以来ブッダガヤでは日本語を子供だろうが話すのが当たり前になった、多分この村は英語より日本語の方が話せる村だと思う、その後NH Kがブッダガヤの現実に目をつけて番組を作った、番組では植民地ではない場所で日本語が話せる村は世界でここだけと語っていた。