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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

母から聞いた話、まさかこんなことになるとは誰も思わなかった。 

コロナウイルスは大変な局面になったと思います、これについて軽率なことは書く気にはなれずブログが書けなかったんですが、今回のコロナウイルスは亡くなった母の言葉を実感を持って自分に甦って来たのでここに書きます。

3月の始めの仕事の場で話し合ったことは次回は海外が有力視されそれについての話題もいくつか話されていました、それは2〜3ヶ月後、実施予定の話でした、それからわずか1月もしないうちにコロナウイルス拡散は急展開しもはやそれどころではなく実に恐ろしい話になったと思います、僕は人生63年生きたけどこんな事はこれまでに体験したことがない。
母は大正14年生まれ、ちょうど二十歳の頃に終戦を迎え、青春真っ盛りに戦争の悲惨を生きた人だった。
母の話に寄れば、そもそも当時の昭和初期の日本は中国大陸でちょっとした争い事ばかりを繰り返していたので紛争はある意味で少しも珍しくない聞き慣れた話になっていた節があったそうです、それに当局発表の情報は片寄った話しか聞こえて来なく、本当のことなんて誰も知らされずそれらの出来事は自分たちの暮らしとはあまり関係のない遠い異国の出来事くらいの話にしか聞こえず、庶民は平々凡々と毎日を暮らしていたそうです。
それがある時、1941年、日本はついにアメリカ相手に真珠湾攻撃、日米開戦に突入した、しかし、それでも庶民はまだ今までと同じ遠い異国の出来事くらいに感じられなかったそうです。ある意味で強い日本が負けるはずはない、必ず勝つだろうと根拠のない楽観的気分に浸っていたそうです。
1941年に始まった日米戦争は大方の予想を超え長く続き、いつ終わるともない戦争に世の中は嫌気をさし始め、生活は徐々に圧迫し始め、不穏な空気は世の中を蔓延し、開戦からから4年後には戦況は悪化の一途を辿り本土空襲にまで発展し、気がつけば長崎広島に原爆投下までに至った。
話を繰り返すが、、、、開戦当初は自分たちの生活には直接の影響がない遠い異国の出来事、紛争くらいにしか感じられなかった出来事が、日を追うごとに徐々に徐々に戦争はこっちに押し寄せ、気がつけば、生活物資は枯渇し、空襲の日々、庶民の暮らしは悲惨の渦に立たされることになった。でもその当時、最悪の結末を的確に予想する世論はなかったそうです。
そんな体験話を母はずいぶん前に僕に語ってくれたことがあったけど、今のコロナウイルスの事件はまさにそれを思わずにはいられない出来事になってしまった。去年年末ではコロナウイルスは中国の武漢での出来事でしかないくらいに思っていたが、まさか数ヶ月後にこれが僕らの日常に押し寄せることにまで発展するとはまさか思いもよらない惨事になった。
でもこういう書き方は人の心を傷つけるかも知れないが、これまで私たちはあまりにも平和であり過ぎた、母の世代が体験した悲惨などは多分僕らが生きている世代にはもうないと根拠のない楽観的な見方をしてた節があります。
正直な感想として、こんな時期になってもまだノー天気で認識のあまりにも低い方々はたくさんいます、ここまでの惨事を味合わないと分からない方々は自分も含めてたくさんいる気がします、こういう惨事は単に悪いことばかりではなく平和のありがたさを感じ取れる希な機会だとも感じています。

久々のデッキの大改修 

IMG_1137.jpeg 最近テレビを点ければコロナウイルスの話題ばかり、この雰囲気でちょっとブログを書く気にはなれなかった。
この事件を思った時、僕がまだ高校生だったころ、オイルショックで世の中は一斉にスーパーにトイレットペーパー買いに殺到したことがあったがそれを真っ先に思い出した。その現象を見て高校生ながらに思ったのは世の中から本当にトイレットペーパーが品薄になったなら、手に持てる数を買い占めたところで、それが本当に助けになって備蓄になるんだろうか?と思った。
むしろ何か庶民の愚かでバカらしいと感じた、そしてやはり時代が経って当時を見ると、それはまさにバカらしい光景でしかなかった、その同じことがまた今回も起きた、大衆とはこういう時つまらないことをする、つまらないことを考えるものだとあの時、高校生ながらに思った。

さて、話は変わって世の中のゴタゴタを横目に季節も暖かくなったので、そろそろウッドデッキの全面修理をすべき時が来ました、まず手始めにデッキ板のすべてを剥がして中を見たがやはり取り替えるべき部材がいくつか見つかったり、全面的にデッキのレベル調整(高さ調整)をし直すなど、すべきことがいくつか出て来ました。
世の中一般、ウッドデッキ作り、その管理から修理まですべてを自分でやる人などそんなにいない、まず第一にデッキが必要な家環境に住む人自体が少ないだろうし、それに多くの方々は普段はお勤めでデッキなんて自分で作る暇もないだろうし、やり方だって知らない、どこから何をどうするのかまったく想像がつかないらしい。

うちの場合、家の環境が山の斜面に位置していて、平坦なところは限られているから、残された斜面を上手く有効に活用する必要がある、デッキを設置するか、しないかで、庭の広さは大きな違いが出るから広いデッキは欠かせない、そもそも最初にこの物件を見た瞬間、斜面に生え放題に生えていた植栽物をすべて取り除いて、そこに広いデッキが設置できたら、この家の価値は一気に変わるハズだって僕ら夫婦はさっと感じた、そしてアトリエを建てた時にデッキも作った、そして2年後、さらにデッキを拡張し今のサイズにした。
そんなデッキは3〜5年くらいに一度、これまで全面修理をしてデッキを維持して来ました、3〜5年に一回の大掛かりな修理にはいくつか事情があります、定期的にCM撮影に使用され、その時、何十人のスタッフが一斉にデッキに乗ります、デッキの構造、安全確保と定期修理は欠かせない、さらに素材購入にはそんなに高いお金は掛けられない、しかし手頃価格の素材は木材の耐久性は比較的に短く取り替え時期が一般のデッキより早いことが挙げられる。
我が家にデッキができてかれこれ15年以上経ってその間に行った全面修理は3〜4回くらい、素材をすべて入れ替えしたら材料費だってバカにならない、一度に何十万円かかります、40平米以上のデッキ素材費が何十万で済むなら安い物だという考えもあるが、やはり木材1、本千円以下か、2〜3千円以上かでは予算事情が大きく変わります、でも何回か修理した経験で分かったのは比較的安価で長持ちする木材がわかって来ました。
ホームセンター木材売り場で山積みされている2x4材は一般にカナダかロシアから輸入された針葉樹だけど、日本の風土には相性が良くないらしく木の劣化(腐り)がとにかく早い、一ヶ所が腐るとそこから癌みたいに、木組みされた他の木材にも腐りが転移して木材全体をダメにする、室内で使うなら腐りの問題はないが外環境で使うなら木材の腐り劣化はデッキを長持ちさせられるか、どうのかの最も大きな問題です。
如何にして木材を長くもさせられるかがデッキの使用の耐久年月になるわけですが、その点日本の杉板は日本の風土に相性が良く腐りに割と強く価格も安く重宝な素材です。
さて、肝心なデッキ作りですが、これをズブの素人さんがまったく一からやろうと思うと気が重くなるばかり、気持ちが引いてしまい、結局業者に頼んで高いお金を払ってお願いするか、業者の見積もりを聞いて手が出ないで作らずに終わってしまうかだと思う、うちの場合はデッキの総面積が他所よりも広く、多分業者にそのまま頼めば4〜5百万円くらいになるらしい、その代わり素材はしっかりした木材を使うんだろうけど、、、でもそんなにするんではとても気軽にデッキを所有することはできない。
でも、実はデッキ作りなんてとても簡単なことで、ヒマな時間とその気があるなら出来ない事はない、こんなものは誰だて出来るだろうし、まともな大人がその気になってデッキすら作れないのはむしろ悲しい事だ、覚えなくてはならないのは木材を電動ノコで切ること、インパクトドライバーでビス打ちをすること、それだけの作業の積み重ねでしかない、多少デッキが歪んだところで家じゃないし傾いて倒れるわけでもない、構造上は単なるザラ板を敷き詰めたモノでしかない、基礎の設置は多少難しいが、、とは言え、これくらいまともな大人なら自分で作るべき、逆に今の日本人の大人はこんな物すら自分で作れなくなってしまった、これは僕にはとても情けなく感じる。
デッキ作りなんて、一つ一つの作業工程は難しいことは一つもない、分からなければネットで調べるなりすればどうにか出来る、こんなものは造作の中では最も簡単な部類です、ただ作業工程が多いから日々忙しい方にはどうなのかな?でもこれは実利的にもメリットはあるから自分でやる価値は十分にあると思う。

右手と左手 

一般に右利きの人は日常生活を右手中心に暮らしている。
剣道は左手中心で竹刀を振る、竹刀はすぱっと素早く振りたい、これをマスターしないと所作は美しくないし勝てない、でもなかなか思うように左手で軽くさっと竹刀を振れるようにはなれない、それを獲得するには左手と左手首でスナップを効かせてさっと振れるよう左手全体の筋トレの必要性を感じ日常生活で意識的に左手を使ようにした。
これまで左手を使うのは中華料理の時くらい、その他に左手で何かする習慣はほとんどない、一般にプロの料理人はフライパンは左手、右手はお玉、左手一本でフライパンを扱いフライ返しする、中華料理の厨房では手際のいいフライ返しが頻繁に行われているが、ずいぶん昔それを見ていたら覚えたくなった。
やり始めはフライパンを振る度にご飯が飛び散って周りはご飯だらけになったが、懲りずに繰り返すうちにプロみたいになった、右手から覚えたが左手で振れないと手際良くない、これは腕力が必要で女性には厳しい、でも、これが自由に出来たらチャーハンは歴然と上手くなるし、中華はこれが出来ないと話にならない。
メジャーリーグ投手、ダルビッシュの調整法は聞くところによれば、体の左右バランス調整から本来右利きの彼が左腕を使って遠投、ピッチングを頻繁にしているそうだ、それは気分転換とか遊びではなく彼なりの肉体バランス調整論理に基づいてやっている、左腕で130キロの直球と変化球も投げられるそうだ、うろ覚え記憶では彼は右腕が不調の時、左投球で試合を投げたことを記憶している。
剣道で実感したのは左手筋力が右手筋力にくらべてどうしても劣る、または習慣頻度が低いと感じて、日常で左手使いを習慣化したいと考えた、右手作業を左手作業に代えたら一体どうなるのか、まず試したのが定期的にやっているコーヒー豆焙煎、普段は右手20分くらいずーっと豆400gを前後に振っている、これを左手だけで始めから最後までやった、結構疲れ終わりころは腕がもたなくなった。
また普段右手で字を書く、これも試しに左手に代えたら、意外な右手習慣に気がついた、普段線を引く時、左から右に引っ張る習慣が身についている、これを左手に代えたら右から左に引いてしまう、体の中心から外に引っ張るクセが染み付いている、その結果、文字が左右逆になったりする、あれ?この文字はどっちだったか?と意外に字の書き方自体を忘れたりする、文字とはアタマではなく手が書き方を覚えているモノだと今さら気がついた。
少し前、ある写真家が書いたエッセーに興味深い話がある、カメラのファインダーを見る時、多くは左目を閉じて右目を使うのが大半らしいが、その写真家は左目でモノを見るクセだそうだ、僕も同じ右目を閉じて左目で見る、右目でモノを見るか、左目でモノを見るか、では感じるメンタル性は同じではない、従って見る目によって写す写真も違うんじゃないのか?と言うのがこのカメラマンのエッセーの内容だった。
右目、左目の感覚の話しの出どころはカメラマンではなく、ある精神科医から聞いた話だそうだ、左目は右目より脳に映る映像世界はより感覚的思考になるとその医師は主張したらしい、これは僕が前から感じていたことだけど左利きと右利きとは右脳と左脳があるように思考にもなんらかの影響はやはりあるのだろうか?その説が正しい怪しいは良いとしても、指先を使う作業をしないと脳退化は早いと聞く、中国では老人たちが球を2個持って手の中でコロコロ転がす行為をやっているのを目にする。
普段使わない手や指を活用するとなんらかの意識変化、肉体変化があるのか?右脳と左脳の働きは手にも影響するのか?
でも少なくともダルビッシュの肉体バランス調整はやってみる価値はあると思った。

すごく行きたかったパリ、、、でも行った結果どうなったのか? 

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さて前回の続きです、果たして前回の続きをどう書けば良いのか少し迷った、一度書いた、でも読み返して内容がややバカバカしい気がして公表は見送った、どう言う結果になったのか、何が起きたのか、それを平たく書くのがやはり妥当だと言う考えに収まった。
十代のころとは、何かと盲目的で時には熱狂的になってハシカにかかったように熱をあげて、時がきたらさっと冷めることはよくあること、僕のフランス語もその一つかと思っていたがあながちそうでもなかった、今考えてもよくまああんな頃にそこに目をつけられていたなと我ながら褒めてあげたい気も少しある。

それでいよいよ念願のパリに到着した、花の都のパリについて最初に思ったのはやや複雑だった、何と言えば良いのか説明に迷う、ある人がこんなことを言った、「富士山は遠くから眺めて楽しむ山だ、近寄って登れば、ただの汚い山の現実を見ることになる」なるほど、これは当時のパリにも言えるかも知れない、あのころの僕にとってパリとはそうしか感じられなかった。
今パリに行くと以前とは違った大人の目線でパリの魅力と深みがやっと感じられるようになったが、二十歳そこそこの僕にはパリの現実はあまりにもキツすぎた、またはあまりにも期待が大きすぎたのか想像してたパリよりはるかにエグくて激しくて素っ気ない街に思えた、道の至るところには犬のウンコが散乱し足下を注意して歩かないと1日に1回は踏む羽目になった、また地下鉄の駅は殊の外汚かったし、その通路脇にはコジキがいっぱい座っていたし、クルマはめちゃくちゃ暴走し突っ込んで来るし、青信号でもおちおちゆったり道路なんか渡れなかった。
またパリはクールな人がやたらに多く道を聞いても素っ気なく返事すらしない人も多く、そうかと思うとバカみたいに話し好きな人も多くいた、あるタクシーの運転手は僕が一生懸命話すフランス語に真剣に耳を傾けて話を聞いてくれた、でも運転の半分くらい後ろに座った僕を見ながら運転をする、危ないことこの上なし、初めて行った外国がパリだったが正直な話、面白いやら、キツイやら、雑誌で見られる美しいパリではなく混沌としたカオスの街だった。
それで一生懸命勉強したフランス語はどうだったか?と言えば、現実の洗礼をまずしっかり受けた、なんせ英語はまともに勉強していなかったし、それに学校で習ったくらいでは実際に使い物にもならないし、他に外国語経験はない、外国語コミュニケーション感覚が訓練されていないではまずコミュニケーションが取れない現実を味合わさせられた。
外国語世界の中に囲まれて、全く身動きが取れない現実から最低限の外国語習得の必要性を初めて感じた、それで自分の立ち位置、諸事情を考えた結果、やはりまず英語を習得することにし拠点をロンドン移そうと考えは変わった、その動機経緯については話が長くなるから今回は書かないが、日本を出るまでイギリスにはまったく興味を持っていなかったけど、取り敢えず僕が夢見たパリはその生々しい現実を見て納得した。
あの当時、パリからロンドンに移った印象はイギリスはやはりフランスにくらべて何から何までまともで僕には入り込みやすく居心地のいい国だと思った、クルマは静かに走る、マナーは守る、フランスみたいに破茶滅茶ではない、日本人に似てとてもまともで良識的な国民性だ、相性はあるだろうが、日本人にとって最初に海外生活するならフランスよりイギリスの方が何かと楽じゃないかと思った。

人によって個性、生き方の違いはあるにしろ、若い時期に海外生活体験をするのは貴重なのは言うまでもない、まず英語が最低限でも話せるスキルは僕らの仕事には重要な教養であるし、イギリス人の生の生活を自分の目で見て、実体験として知っているのは、これはとても大きいことだ、そこらの下手な大学に入ったところで、みなさん真剣に勉強しているとも思えない、そんな大学に払うお金があるなら海外語学留学に使った方がはるかに現実的で役に立つと思うが、、、ただこの時世、大卒の肩書きがないと就職は何かと不利だから行くが意味のない大卒者はあまりも多い。
もし僕が若いころにこの経験をしなかったら果たして上京してカメラマンを志しただろうか?今のような生き方をしただろうか?少なくともこれらの経験が僕の人生を作ったと確信しているし、そこで学んだことが物事を見る眼差しをすごく豊かにしてくれた。
話題を元に戻せば、中学、高校の時期にシルビーバルタンとフランス語学習にはハシカみたいに熱を上げてハマったが、それがこうして今に繋がったと僕は思っている。

フランス語にハマった思春期 

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昨日、多感な時期に写真を始めたきっかけについて触れました、今日はまた違った話題で同じテーマを書きたいと思います。
僕が中学、高校の頃は、若者が憧れるカルチャースタイルは今とはかなり違っていた気がします。僕らの時代、音楽と言えば歌謡曲か輸入ポップスしかなかった時代でした、当時日本のポップスはあるにはあったけど大半は海外ものに頼っていた時代でした、今の世代の人にそんな話をしてもピンと来ないだろうけど、本当にそんな時代だったんです。
あのころ流行っていた音楽と言えば、、、ビートルズは僕らが中学の終わりころに解散して、あとピンク・フロイド、シカゴ、カーペンターズ、レッドツェッペリン、エマーソンレイク&パーマ、イエス、デビッドボウイ、グランドファンクレイルロード、他にもまだまだあるけど、僕にはこれくらいしかぱっと思い浮かばない。
当時、日本に入って来た音楽はあまりジャンルを問わずごちゃごちゃしていた時代で、リスナーも歌謡曲じゃなければロックだろうがフレンチであろうが、海外モノなら一応に受け入れていた、早い話、英米ポップスもフレンチもイタリアンも、北欧だろうが、良ければ何だってヒットしていた、1970年代とはそんな時代でやや奇妙な時代だったと思う。
僕はそんな時代にフレンチポップスの女王シルビーバルタンにすっかりハマってしまった、しかしどうしてまたフレンチにハマったのか、、、、?それを説明するのは極めて難しい話になりそうだけど、、、そこを敢えて話して見たい。

シルビーバルタンに初めて出会った時、シルビーが最も美貌を放っていた旬の時期はもはや過去のモノだったけど、、、とは言え、僕が出会った時も彼女の人気は大変なモノだった、連日ラジオではシルビーバルタンの曲を聞かない日はないくらい日本でもヒットしていた。ちなみに当時のラジオとはテレビとは違って若者の間ではラジオは文化の先端を行っていた、またラジオから多くのタレントを輩出していた。
シルビーバルタンとは、、、、彼女はキュートで美人だった、そういう感覚をなんて説明すればいいんだろう?たしかにその美貌に惹かれ僕は単純なミーハー気分でシルビーにハマった、それは確かだけど、でもそれだけじゃないと思う、彼女が放った空気には英米音楽にはない、フランス語独自の響き、雰囲気、叙情的な空気があった、、それは英語には決してあり得ない世界感がシルビーの歌うフランス語には間違いなくあった、僕はそこに見事にやられてしまったと思う。今思えばおませというか、多感というか、よくまあそこにハマったなって思う。

少ししつこい話になるが昨日の話題、僕の友人、天才肌だったヤツの話題に戻る、彼は何をやってもスゴかった、当時の僕にとって彼の存在はすごい刺激だった、それが友人であることが僕は誇らしかった、彼を見て思ったのは、彼みたいに才能を開花させたら、大人になっても縛られることなく自由に生きられるんじゃないか?会社勤めなんかしなくてもなんとか自分の能力でやって行けるんじゃないか?って本気で考え始めた。
それは学校嫌いで、大人たちの言うことなんかまったく耳を傾けない僕にとって、その友人は大変な希望の存在だった、彼と付き合っていたら、なんだって叶いそうな気がしたし、学校の先生たちが言うことなんか聞く必要がないとあっさり思える気がした、今思えば、その考えはどこか無茶というか荒唐無稽というか、無知だったからできる考えではあるが、、、、。 それは笑い話じゃない、実際にその荒唐無稽な考えの延長線上に今の生き方にたどり着いたわけだから何が何になるかなんて誰も分からない。
中学から高校生の時期は人生で最も重要な時期じゃないかって思う、この時期に人生の基本的な方向性はすべて決められているから、、、その時期にどんな友人と付き合うのか、そこでどんなことを考えるのか、どんな思春期を送るか?何を目標にして頑張るのか?大人の言うことを聞いて素直に真っ当な生き方を志すのか、真っ当な大学に行くのか、高卒で社会に出るのか、または自分の才能を信じて何かを模索するのか?仮に大学に行くとしたら、そこは有名校か?月並みな平凡校か?そこそこの平凡校ではどんな人生が待っているのか?仮に有名大学に入ったら一流企業に就職できるのか。当然僕にはそんなまともな選択肢はまったく縁がなかった。
自分は何をするのか?そこにハッキリした具体的なビジョンなんか何もなかった、それについて教えてくれる人は周りにはいなかった、自分の道は自分の感覚を信じてで探すしか手はなかった、少なくとも常識的な会社員になる考えはまったくなかった、ただ言えることは、自分が心惹かれることを信じて、それを真剣にやりたいと考えた、逆に興味が持てないことは、それはもはや自分の選択肢ではないと感じ始めた。それで僕はどういうわけか、シルビーバルタンのフランス語を聞くうちにフランス語に興味を持ってマジに真剣にフランス語勉強を開始した。
シルビーバルタンを聞きながらフランス語を真剣に勉強して、片や休みの日はカメラを持ってSL写真を撮っていた、、、奇妙な組み合わせだけど、そこが直感の面白いところで、最後には帳尻は合ってくるから不思議だ、当時の僕の目標はまずフランス語を覚えてある程度会話ができるようにして、まずフランス生活を体験したいと思った、それがしたいと思ったからそうしたわけだけど、まずは海外生活を体験することは自分の生き方を模索する第一歩だと僕は考えた、当時はその目標に向かって僕は頑張った。
それで話の結論を書くと僕は晴れて二十歳になってフランスに渡った、それでもちろん勉強したフランス語をパリで話したが、とても使いものになるレベルではない、フランスに入り込むにはまだまだ足らない、それに僕にとっての当時のフランスはそう簡単に入り込める環境ではなかった、それで僕は場所を変えてイギリスに住む場所を変えてロンドンに移った。
この話の続きは次に書く。