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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

文化性を感じる国の姿 

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少し前、僕にとっての文化について数回触れましたが、今日はそれを再び書きます。
今から40年くらい前、1977年の年、僕はフランス経由してイギリスに行きました、その頃、年齢は20〜21です、 周りでそんなことをする人なんて誰もいなかった時代でした、僕は高校の頃から海外生活体験が一度はしたくてたまらない感情を持っていてハタチでその夢をなんとか実現させました。
時々人から、なんでイギリスに行ったのか?って怪訝そうに聞かれました、まあ確かに普通のまともな人ならこれから就職して世に出る時なんだから、見方によってはそうかも知れません、でもそんな質問、やはり答えようがありません、単純に考えてほしいです、あっちとこっちでは文化も違う、価値観だって、生活様式だって、言葉だって、食べ物だって違います、誰が見たって当時の日本の文化レベルとビートルズを生んだヨーロッパの文化レベルは明らかに差があります、しかも英語は世界の言葉です、それをこの目で見て暮らす体験がしたい。
そう思うことはそんなに変わったものなのか?むしろ誰だって当たり前に持ってる好奇心じゃないですか?その当たり前のことをやっただけで、何も特別に変わったことをしたとは思わないです。
最初はフランスに行きました、フランスに行きたくて何年もフランス語を勉強してきましたが、いざ実際に行ってみるとイギリスに倉変えしました、当時の僕にとってイギリスもフランスも似たようなもので、せっかく外国語を覚えるならフランス語より英語の方が今後何かと役立つだろうってやっと気がついたことと、当時フランスに比べイギリスは物価が安く生活習慣も日本人には馴染みやすかった、逆にフランスはハタチの少年がカンタンに入り込めるような普通の国ではなかった。
実際にあっちに行って初めて痛感したのは、何か目的とかアテがない、現地では言葉がまったくできないヤツなんか誰も相手にはしてくれない、早い話、自分の居場所なんかまったくない、ただただ毎日ブラブラする日々です、わりとカンタンに入り込めるのは英語の聖書勉強会くらい、観光ヴィザで入ってるのでバイトはほとんどない、または英語学校に行く、でもお金もそれなりにかかるし、語学学校に行く気はなかった、つまり自分の居た環境は結構苦痛でした。

それで選んだのは自転車を買ってイギリスの島を隈なく一周の旅に出よう、それが終わったら帰国しようとイギリスをめぐる旅に出ました、それがなかなかいい選択で毎日が楽しい生活に一変しました、それに毎晩毎晩同宿の人たちと英語で会話をしますが、街で一人で孤独に暮らすよりよほど英会話のチャンスがありました。
ロンドンから北に向けて自転車で上がって田舎の風景に変わって行きます、この時初めてイギリスを見た気がしたし、やっと平均的で質素なイギリス人気質が見え始めた気がしました。正直な感想はこれは日本にいただけではまったく想像できないイギリスをやっと見た気がしました、様々な人種のるつぼのロンドンではなかなか出会えないイギリスです。
その当時の日本経済は破竹の勢いで円が一気に強くなった時でした、代わりにイギリス経済ががた落ちでポンドが一気に下がった時です、1ポンドが480円でしたが現地感覚で1000円の価値感覚がありました。
当時の日本人は今の中国人みたいにパリの高級店で爆買い現象が起きていたころで日本人は経済で自信を持ち始め、イギリス人は経済で自信を失っていた頃、ちょうどその頃、ロンドンではパンクロックが流行っていた時期でした。
やはり経済的に世界中で円が通用すれば、それなりに誇らしい気分になったものですが、イギリスを旅するうちにその考えに疑問感じ始め、なぜイギリスが世界の一等国なのか、その根拠みたいなのが僕なりに旅を通して見えてきました。
いくらポンドが下落して円が強くなったとは言え、それは単なる数字だけの話じゃないのかな?って感じ始めました、イギリスの牧歌的な風景を毎日見ながら考えたことは、彼らに深く染み付いている文化性に何か感じるものがありました、それは生産性とは違った人間が持ってる優雅さじゃないのかなって思いました、少なくともこの優雅な心はあの当時の日本人にはない、これが文化なんだなってイギリスを旅して感じました。
イギリスにとどまってこの国をもっと深く知りたいって思い、ロンドンに帰って居場所を探し、ウインブルドンで住み込み下働きのチャンスに出会いました。
そこで英語もなんとか少しは話せるようなったし、そこが理解できただけでも僕はイギリスに来た目的が果たせたと思いました。今になって思えばあの時の体験はその後の僕の人生に大きな宝となったと思います。
ちなみにこの写真は去年旅に電車の窓から撮ったものですがイギリスではこんな風景はそこらにあります。

毎日カレー三昧の日々 

少し前に書いた通り、病院で検査した結果、明らかに生活習慣病です、塩分過多、アルコールの取り過ぎ、肥満、高血圧、これらが揃い、医師からこのまま放置すると肝硬変の危険性があるから、今のうちに何とかしなさいって警告された。
とにかくストレスがあれば、味の濃いもの食べる、お酒を飲む、あまり運動しない、これじゃあ確かにそうなって当たり前の暮らしをしてる、まず何とかしなきゃならないのは酒と食べる楽しみ癖を何とか直さなきゃならない。
まず大食い濃い味習慣、これは習慣だから頑張れば量は減らせるし、濃い味習慣も何とかできそう、でも飲酒習慣を直すのは僕には一番厳しそう、、、、でもそれをやらなきゃ足首は浮腫むし、酒量を減せられたら食事もなんとかなる、とにかく体が悲鳴を上げているのは自分でも実感として分かる、もうやるしかない、、、、。
うちはもう娘も家を出たし、僕たちの食なんて質素で味の薄いものだって十分やって行ける、それに毎晩何かを考えて作るより、簡単な方が気楽だしそれに慣れてしまえばどってことがない、それで今わりとよく食べるのがインドカレーを一気に作って何日かに分けて食べるけどこれが意外に快適ですごくハマって美味しくて楽しい。

そもそもインドカレーは味が濃い、塩分強、刺激がありそうに思いがちだけど実際はそうでもない、それは作り手次第でどうにでもなる、単に塩を少なめ、スパイスは控えめ、薄味にすれば良いだけの話だ、それに香辛料とはそもそも漢方みたいなもので本来は健康食品、それと日本のカレーとインドのカレーでは大変なズレがある、インドではカレーで毎日暮らしている。
インドのカレーとは日本人にとってまさに醤油とか味噌感覚です、日本人は煎餅を醤油味にするようにインド人は何でもカレー味にして食べる、インド人からカレー味を取り上げることは日本人から醤油を取り上げるも同然、つまりこれは毎日食べられる食べ物なのです。
僕らはインドに長く滞在していたからインド食の生活は慣れている、毎日がカレーであろうがどってことない、ただし日本のカレー、、、、、あれはさすがに毎日は食べたくない、インドカレーに比べたらちっとも美味しくない、そもそもカレーにジャガイモは絶対に合わない、あれは肉ジャガのカレー味版と言ったほうが話が早い、一回試しにカレーにジャガイモを抜いたら僕の言うことが分かると思う。
手軽で気楽に作るのがひき肉のキーマカレー、作り方はたいして難しくないがその過程はかなり根気と腕力がいる、玉ねぎは手を抜かないで細かく刻む、それを焦がさないように延々に炒め続ける、強火じゃないと時間が延々にかかる、始めは水分が出るが、それでも延々に炒める、あるレシピによれば刻んだ玉ねぎを一回冷凍にして解凍すれば余分な水分が分離して作業が早くなるとあった、、、やって感じたのはそれもなるほど、、と思ったけど、その場の思いつきで作るには間に合わない。
僕の作り方は、大玉ねぎ5個くらい、ひき肉は800〜1000gくらいトマト缶詰が1〜1個半、玉ねぎは細かく刻むにはフードプロセッサーを使うとすごく楽、薄い茶色になるまで根気よく延々に炒める、多分大玉ねぎ5個なら30分は炒め続けなくてはならないと思う、この手間ヒマがどうも主婦にはできないらしい、、、、でもここを手抜くとコクがない間抜けなキーマカレーになってしまう。
この作業の手の入れ方次第で味の分かれ道になる、料理にこだわりがない人はここを適当に済ませる、鍋は大きめの中華鍋が扱いやすく鍋の中でお玉を激しく振り回し続けても玉ねぎはあまり飛び散らない、普通の平の30センチフライパンは僕には使えない、少量ならまだしも玉ねぎ5個では小さすぎて玉ねぎが飛び散って話にならない。インドカレー作りとは中華鍋を強火で玉ねぎを延々に炒める料理と言っていい、この激しい葛藤の末にできるものでそれに耐える根気と腕力のない主婦には手に負えない料理かも知れない。
玉ねぎがある程度炒まったら好みでシナモンパウダーを小さじ2〜3杯入れるがこれがなかなか隠し味に利く、玉ねぎが薄い茶色に色付いてきたら生姜とニンニクを20gくらいづつ細かく刻んで一緒に炒める、それができたら今度はトマト缶詰を丸ごと入れる、ひき肉1キロくらいなら1個半くらい、トマトの塊はできるだけ潰す、残しても味としては構わないけど、これは美学の問題だからあとは各自が決めること、、、、。
それができたら今度はひき肉をどさっと入れる、ここで中華鍋が小さい場合、鍋2つに分けて交互に炒め続けるがこの時、火加減は中火にして香辛料を入れ肉に火を通す、ここでしっかり肉に火を通さないまま湯につけるとスープに血が混じって良くない、さらにこの辺でスパイスを入れる、クミン、コリアンダー各大さじ3杯、ターメリック大さじ2杯ちょっと、レッドペパー(赤唐辛子粉)は各自の好みで味を見ながら足せばいい、僕の場合、大さじ軽めで1杯、肉に香辛料が十分に行き渡るように撹拌して混ぜる。
インドカレーに関して、世の中一般のイメージはおかしな間違いがはびこってる、香辛料を何種類もたくさん使うことが立派みたいにみんなが思ってるが、そうではない、キーマカレーの場合、わずは4種、クミン、コリアンダー、ターメリックこれが主な香辛料、あと赤唐辛子で辛味を付けて隠し味にシナモン少々とニンニクと生姜、インドカレーとはこれだけで作れるものです。
一連の作業が済んだら沸騰した湯に炒めた具を入れるが水の量は400ccくらいかな?多すぎるとどうにもならない、少なめから足していけばいい、これを中火で20分くらい焦がさないように火を入れる、その途中にグリーンピースを入れるとレシピにはあるが僕は枝豆が合うと思う、それで出来上がり、最後にガラムマサラを少々入れたい人は入れればいいが、なくても問題はない。
ご飯に関してだけどチャパティーが合うと言われているが、ご飯の場合は日本米よりタイ米の方が絶対に合うし、2〜3合炊く時にターメリック小さじ2杯くらい入れてかき混ぜるとターメリックライスができるがこれが不思議と白コメよりはるかに合う。
僕ら夫婦の場合、今現在では一回の食の量が少ないのでだいたい昼も含めて4日くらい毎晩カレーを食べ続けられる、でもカレーだけではなくやや凝ったサラダを付け、それを前菜に食べて最後にカレーにしているが、これが不思議と毎日食べてもちっとも飽きない、さすがにインドではこればかり食べているのがよくわかる。
それで最後に付け加えたいのがコストの問題、香辛料を量をたくさん買えば安く買える、あとは玉ねぎ5個、トマト缶1個、ひき肉800g、生姜、ニンニク、これらは食費代なんてたかが知れていて、これで4日も持てばウソみたいに安く済む、インドカレーなんて食費が高価そうなイメージがあるけどそうでもない、騙されたと思ってやってみるといい、これは経済料理です。
最後にここにチャイがあればなお良し、チャイの作り方は鍋に湯を張って一番安い日東紅茶のティーバックと生姜の刻み、あればカルダモン、砂糖、ミルクを入れて数分煮込む、最初からミルクを入れると紅茶が出ないから、紅茶を出し切ってミルクを入れる。チャイがないとインドカレーの気分にはなれない。

苦痛なホームページ作りだけど、、、、 



最近プロバイダーの事情で僕個人のホームページが閉鎖し4月以来ずーっと放置していたが、いつまでも放置したままにも行かず、最近ヒマができたし重い腰を上げて今ホームページ作りに取り組んでいます。
厄介なのはパソコン扱いに不慣れな人が取り組むのは非常に大変な作業です、何度も立ち止まってアタマが混乱しイライラしたり疲弊したり未知のパソコン作業は僕には苦行です、扱い慣れた人にはこれ以上ない便利なツールなのはもちろん分かっています、僕だってそうは言いながらなんだかんだとこれまでノートも含めて6台もmacを購入をしています、でも悲しいかな6台も購入しようが相変わらず僕とパソコンとの距離は変わらない、どうしても好きになれず今も未知の領域をいじるのは苦痛で仕方がない。
しかし、世の中はフィルムからデジタルに移行し今の時代デジカメは扱えないでは仕事を失うことを意味します、必然的に覚えざるを得なく、個人的領域なら問題はないとこまで来ましたが、広告現場ではもっと高度な扱いが要求されるので僕にはお手上げでオペレーターにやってもらうしかない。
パソコンを問題はなくさくさく自由に触れる人がよく口にするのは、「パソコンなんて感情が入り込む余地なんてないんですよ、、、とにかくルール通りにやれば同じ答えが出るんですよ、、、一体どこが難しいんですか?」って顔をしながら僕に言いますが、僕とパソコンは相性が基本的に悪いのかいつまでも僕が好きになることはなく肌が合わない。
多分、システマティックで構造が完成され過ぎているから、自分が培って来た経験と感覚が直接役に立つ余地がない、多分そこがすごく嫌なんだろう、、、、僕は根本的には粗野で原始的な人間なので高度なシステム感覚より自分の経験を通して物事を見て判断する癖が体に染み付いている、それ以外のシステムはどうも苦手でそれに対しての融通が利かない。
しかしウチの奥さんがこんなことを言う、「wixならあんたでも作れるからヒマな時でもやってみたら?」と言われた。あんたにとってはカンタンだろうけど、僕には苦行は始めから分かっている、僕がパソコンに向き合ったら、つまらないことに1日中立ち止まって、同じところでクルクル回って、いつまでも脱出できず、最後は心身共に疲弊するのが見えている、それならお金を払って作ってもらう方が絶対に楽なのはもう分かり切っている。
それですべての問題が片付くならそうする、それで問題は片付かないから厄介なんです、これはやはり自分で管理できないと何も始まらない、誰かに作ってもらったものは、その後は自分で手直しができない、そんなホームページは役に立たないし、そのうちに自分から遠ざかって触らなくなる、、、、、結局は自分で苦行であろうがなんとかやるしか選択肢はない。

人が物事に向き合うには、相性と言うか、向き不向きが間違いなくある、合わないから出来ないとは言わないけど、合わないと人の何倍も手間と時間がかかり苦労をする、またイヤイヤやっていれば新たな出会い発見に至らないし、楽しくもない。
自分の相性の悪い仕事を職業にするととんでもなく苦労するし、効率も悪いし、相当な精神力を必要とする、僕が今回ホームぺージ作業に費やした労力は大変なものだった、つまらないことに1日くるくる回って、先に進めなかった、カタチにしたデーターを一瞬に消したり、そんなことばかりの連続だった、うちの奥さんに分からないとこを聞くと、彼女はこうすれば良いんじゃない?とシャカシャカと解決させてしまう。
それなら彼女にやってもらえば良いじゃないかと思うだろう、毎回彼女に頼みにするわけには行かない、やはり自分でやらないと自分のツールにならない、自分のツールにならなければやがては駅前の放置自転車と同じ運命を辿る。
うちの奥さんがやるとこをじっと見てると根本的に原理とか構造とか道筋みたいなイメージがアタマの中にあるのが分かる、壁にぶつかっても考えられることを次々に試して終いに解決させてしまう、その行為がとにかく早い、これはどう見ても相性が良く僕と同じ条件ではない。
僕の場合、やっていてイメージがまったくない、イメージがない状態で目的地に向かうこと、これほどしんどいものはない。でもそれがやってるうちに、何度も何度も教えてもらったりしながら徐々に覚えて行く、始めは1日かかっていたことが短縮されてそのうちに1時間もかからなくなった、そのうちイメージが伴い始め、全体にどんなホームページにしたいのか、その方向性も見えてきた。
苦労の末、ホームページは取り敢えずカタチになり始めた、これはまだ最終形ではない、でも取り敢えず自分で作ってみる他ことで、何が優先で、何が後回しなのか、順番も見えてきた、作って、手直しを徐々にして行けばいい、まず自力の手で作ることが最初の目標、そういうイメージが徐々に湧いて来た。
取り敢えず大まかに作ったものを見て思ったのは、これから載せたい作品はまだ残ってるが、それを今後はどうして行くかを考えたり、自分なりのイメージがなんとか見えてきた、始めた時は大変な作業だったけど、その壁さえ超えられたら僕にはこれがすごく重要なことだと感じ始めてきたし、もうこうなったらこっちのものだ、、、と思った。

これからの魔法植物園のあり方(2)客観性と歪みのはざま。 

写真とかカタチのない内面の表現をするなら、どうしても必要なのは自分表現に対して客観的な目線を持っている必要があります、これがないと、その先の表現に行けるかにかかってきます。
自分の目が見たものを自分が見たものとしてそれが自分の考えに一致できるには、自分の心の目が自立していないと何もできないと思います、でもそれが自立した人はそんなに多くはいません、大体は権威ある人の評価に飲み込まれます。そこが自立していない心のままではいくら優秀な感性を持っていたとしても表現は限度があります。つまり人は自分が見たものをそのまま自分が見たままの判断ができません。
人間は弱い存在です、常に正しい判断できる目を持っていません、歪んだ目でモノを見てモノがあるがままに見えていません、作品作りとはこの歪みと客観性の葛藤と言っても過言ではないんです。これがある程度、自立できた時点でやっとそこから自分表現ができるようになるわけです。

時々、人の作品を見て、よくまあこんな作品を人前に出せるな、、、そう思うことが多々あります、厳しい意見ですがそれが現実です、それは表現力がある、ない、の問題以前に自分の作品ジャッジが自分の目で正確にできないんです、これは他の分野でも十分通用する基準だと思います。
写真の才能がある、ない、これは大事ですが、自分の表現が、良いのか、良くないのか、判断できる目線がどれくらいあるか、です、結構良い年をした社会的にも地位のある大人ですら、ここが若い子たちの精神年齢とさほど変わらない人って意外に多いです。
思うんですが、現代人は、スマフォ、パソコン、この概念はわりと鍛えられアタマが上手く回るんですが、内面の概念把握力、分析力、整理力、洞察力はまるで訓練ができていない大人が殊の外、多い。
やはり学校教育はそれをまったく教えなかった、まるで分かっていない文部省役人が多く、学校ではそれを教えない、その意識訓練をしていない大人たちが世の中にはあまりにも多いです。

よく聞く話ですが、素敵な恋人に出会います、心はポーっとして相手がよく見えて仕方がない、この人は間違いなく自分を幸せにしてくれる人だと都合よく自分勝手に思い込みます、ところが結婚して初めて現実に気がつきます、こんな相手とは思わなかった、それを相手のせいにします。
結婚前だって、見る気さあれば見えたと思うんですが、それを見ようとはしなかった、そう言う心のあり方がまったくない、結婚してその現実に出会い失望して離婚するケースは意外に多いです。
宗教の洗脳も同じようなものです、宗教の良いとこ、悪いとこ、あらゆる部分を冷静に見ないでしっかり洗脳されてしまいます、でもそれは実は洗脳でもなんでもないと思います、物事に対して自分自身の目が冷静な自己判断力がなく、相手の言うがまま信じ込んだだけの話です。宗教者のいうこと、占い師のいうことを信じて自分の目を信じるすべがない。
作品作りもこれとまったく同じです、作品作りをするということは、どうしても陥ってしまうその手の落とし穴、まやかし、人間の心の弱みに対してどれだけ自分の目でものを見ているか、その心の目が本質をしっかりと見通せます、その心の目の学習をどれだけしっかりやって来たのか、そこが鍵です。
とは言え、冷静な心が絶対良いかと言えば、そうでもなく、冷静な心だけではどうにもならない、のめり込んで自分の作品に対し見えなくなるくらいの感情の強さ、愚かしい心も同時に必要です、強い思い入れで自分の作品世界にのめり込むくらいじゃないと、やはり作品なんて作れません、作品作りとは煩悩がないと作れない、これは宮崎駿さんの言葉ですが、、、。
でも同時にすごく醒めた目線もないと収集がつかずまともに作れません。この意識の激しい乱高下、心の業の弱さを学習し自覚しておかなくてはならないんです。
さて昨日の話題に巻き戻します、正直な話、作品をずらっと醒めた目で見ても心は悲しいほどワクワクした気持ちにはなれません。正直な話今までやって来たことはなんだったのかと思うほどです、これでは高いお金をかけて写真集を作ってもお金の無駄な気がします。そこをどう判断するのかが葛藤です。
じゃあどうして作品は良くないのか、作品はただつまらない作品でしかありません、これはもう作品に対して自分は飽きたのか、そもそもこの作品は始めからその程度だったのか、、、、、今まで見えなかったことが今になってやっと醒めた目で見られるようになったのか、これがあるがままの姿だったのかも知れない、でもこれで写真展をすれば、多分そこそこに人は来てくれるかも知れない、そこそこに良いねと褒めてくれるのかも知れない、、、、、、仮にそうなったとして、それが一体どうした?って気持ちに僕は多分なると思います。
自分はこの作品を通して要は何がしたかったのか?自分に問うしかありません。
村上春樹氏は「職業としての小説家」の中でこんなことを言っていました。書き上げた作品は一度キレイに忘れるまで作品から離れ放置するそうです。
多分春樹さんのことだから、その間、海外作家の小説を見つけて翻訳に没頭するでしょう、作品のことはすっかり徹底して忘れるんでしょう、分かる気がします、村上氏だって作品に対して強い思入れがあって、そこに入り込んで物事は冷静に見られなくなるんだと思います、誰だって心のバイアス(歪んだ見方)がかかるんです、そこから客観性を取り戻すためにいっ時、放置します。
多分僕の場合、それくらい放置させると意識が作品からどんどん離れてしまいどうでも良くなっちゃうか、もう再び同じところに意識は戻れないくらいまでなっちゃいそうです。でもそうなったらそうなったで仕方がないことです、所詮それだけのものだったと捉えるしかないのかなって思ったりします、今後どうすべきか冷静に判断します。でもこの状態では何も進展はしないだろうしやっぱり作品から少し離れるしかなんだろうね、、、、作品作りでこんな気になったのは初めてです。

これからの魔法植物園のあり方 

今、掛かっている作品、魔法植物園を始めて気がつけば4回目の夏を迎えました、思うようには進まなくずいぶん年月が経ったものです、始めた当初感じていたのは自由にいつでも撮りに行けるから、これは作りやすいテーマだと思っていたけどいざ始めてみたらなかなかそうでもない現実の壁を感じます。
この作品を始めた動機は自分自身に対し総決算のつもりで今まで出来なかった領域にもっと深く踏み込んでみたいと意気揚々と始めました。
それまでの作品だって安易に作っていたわけではないんですが個展向に撮っていました、何回か繰り返すうちに個展として作られたものは個展が終わればそこで終わります、それでは飽き足らず写真集目的で作りたくなりました、写真集と写真展は作り方、考え方が違います、写真集の方が使う神経は何倍もエネルギーを使うんじゃないかと思います。
乱暴な言い方をすれば、写真展はある意味で、その場の出たとこ勝負です、観客が会場に入って、目を止めるインパクトがあればだいたいの目的を果たしたことになると思います、それは作品だけではなくても会場の雰囲気とか、額装とか、それらの演出効果でも作品に後押ししてくれます。
写真集はそうではない、何度も見ることに耐える内容じゃないと作品にボロが出ます、やはりずーっと持っていたくなるような内容が望ましいわけです。ある意味で普遍性を持っていないとすぐに飽きてしまいます、なかなかそうはならないとは思うけど、それくらい志のある作り方をしていないと写真集はすぐにゴミと化します。
それで始めたのは魔女たちの植物園、魔法植物園と言うテーマで描こうと始めました。始めた当初は一点一点はまあまあ順調に撮れているんじゃないかと思っていました、でも数ヶ月くらい経って一度撮った作品をずらっと並べてみたら、そこに見えたのは一点一点の作品はまあまあとしても、でも全体として見るとそこから伝わってくる世界観は何も伝わってこない。
魔女たちの植物園でもなんでもないんです、そこにあったのはただの植物写真の羅列でした、自分の作品ジャッジは冷静かつ、はっきり厳しくジャッジしなくてはなりません。その現実を見て、正直なところやや落胆しました、真っ暗な気持ちになりました、作品の一個一個はまあまあ撮れているから少しは予兆が見えるんじゃないかと楽しみにしていたのですが、並んだ現実は何もない、ただの植物の写真でした、少なくとも僕にはそうしか感じられなかった、こんなハズじゃなかった、これは面倒なテーマに手出ししちゃったな、、、、。
少し冷静になってどうしてそうか僕なりに考えました。
思いつくのは、、、、、今回は今までよりハードルが高く作品基準がいつもより厳しくなっているのかも知れない。
この企画をこの手法だけで魔法植物園を描くとすれば、それは植物だけで描こうとするのはどうしても限界があるのかも知れない、現状はまだ詰めが甘くもっと原因の追求し考えと方法を変えなくてはならないのかも知れない。
一昨年前、一度、実験発表した、その時これはなかなか伝わらないだろう、、、と思っていたが、反応は思っていたより上々だった、先にも書いたようにこれは写真展ならなんとかなるのかも知れない、でも写真集では今一つ物足らない結果になりがちで、植物素材では所詮それが限界なのかも知れない、、、、。
4年たった今、もう一度これまでの作品をもう一度チェックし直し、セレクトを並べ直したけど、やはり前回同様、4年も掛けたけど収穫があった気がしない。さてここからどう打開するのか、、、難しいところです。