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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

宗教的美意識と都市的美意識の違い 

ブログを書いていると何気に書いたことがきっかけに新しい話になることが多々あります、クリエーターはそれぞれの気持ちは一体どこから始まっているのかを最近書いて考えていたら、意外なことにたどり着きそれについて書きたいと思います。
(ただこの話ネタは読み直すと、公表はどうしようか迷った、過去にもそういうことは何度もあって出さずに終わったことは何度もあったけど、やはりせっかく書いたから今回は公表します。)

先日書いた通り、都会的な表現ではなくどちらかと言えば今の時代離れした印象派芸術家たちが描いていた世界観が好きなんだって自分の好みの体質に気がつきました、逆に今風の表現価値観は僕個人的にはあまり好きじゃないと気がつきました。
表現と言うものはそれぞれ各人の美意識をカタチにする行為です、それぞれの美意識って何なのか考えました、これは一体心のどこからくるものなのか、無謀な考えかもしれないけど美意識の根拠とは大きくはこんな分け方があるんではないかと思います、それは宗教的美意識と物質的美意識かと思います。
宗教的美意識で語弊があれば、哲学的美意識と言っても良いかもしれない、自分の内面から来る美意識を意味します、ルネサンス美術のように聖書をそのまま表現にしたものではなく、例えばモネが睡蓮を延々と描いていたこと、これはとどのつまりモネが描きたかったのは自分の心の中の美意識を描いたと解釈すれば、ルネサンスの画家たちの仕事とどこが違うのか?ただ聖書が関わるかの違いだけです。
そもそも自分の心の中の美意識を探すこととは、自分にとって何が最も大切な価値観なのか探すことと近いことです、ならば生き方としてどんな価値観が最も美しいのか、それはそのまま哲学的思考にも、文学的思考にも、宗教的思考にも通じますし、形而上学の概念追求であり芸術作品というのは宗教的感覚に通じるんじゃないかと思います。
しかし都市感覚表現はどうも違う気がします、NYのポップアート、例えばアンディウォーホルはむしろそういう価値観ではなく、そう言う旧来の価値観とは違ってあっさり決別した感じすらします、もっとコマーシャル的であって消費に通じる価値観とでも言うのか人間の内面に訴える感じではないと思います。
ファッションにしてもそう感じます、都市的な美意識であっても当然そこに美意識は存在するけど正統派の美術とはちょっと何か筋が違う感じがします、結局そう言うポップアートと言うのはその時代の商業主義的な時代感覚がベースにあって、人間の内面に訴えるような文学的芸術感覚とは趣が違う、それが都市感覚で生まれたアートだと思います。
そう言うアートは結局のところどこかで商業主義的影響を感じます、でもポップアートだろうがファッションだろうがアーチスト体質としてファインアートの要素を強く感じるモノだってあります、例えば川久保玲さんのファッションは商業ファッションでありながら、なぜか伝わって来る精神性はファッションを超えて日本の禅とか茶道であったりルネッサンスであったり、印象派絵画であったり、正統派の表現を感じます。
広告表現だって一概に単にモノを売るためだけではなく、表現として正統派の精神性を感じさせる広告ビジュアルだって中にはあります。
話がややこしくなりましたが、僕は広告をやっていながら自分で言うのはおかしな話だけど、どうも都市消費追求に繋がる表現、それしか中身がない表現というものはどうも肌が合わないし、そう言う考えにも深くのめり込めないし、表現と言うものはやはり人間の内面性に繋がるものじゃないと、そこに奥行きみたいなものが感じられずやっていても楽しくない。

要するに自分の心の心象風景の扉が開けばものは見えてくる(2) 

昨日書いたブログはかなり偏った考えで書いているのは自分で自覚はしながら書いています、それがすべてだとまでは言わないけど、まあそう言う考えもあっても良いんじゃないかと思いながら書いています。
昨日テレビ(池上彰の番組)を見ていて世の中の新しい流れについて感じたことがあります、最近の優良企業についてですが、ベスト企業にランクされたのはカリフォルニア、シリコンバレーに拠点があるアップル、グーグル、アマゾン、フェイスブックなどがトップを占め、日本企業が上位に入ったのはわずかにトヨタだけ、かつての日本企業の物作りの優秀さはどこに消えたのかって思っていました。
番組ではフェイスブックが大きく取り上げられていましたが、確かにアップルはスマフォの発明によって時代を変えたのは事実です、アマゾンの躍進ぶりも十分理解できます、とにかく店に行って物を買わなくなりましたし、ほかの通販サイトに比べてもシステムの新しさ、快適さ、は認めざるを得ない何かがあります。
ただ僕がわからないのはフェイスブックがトヨタより上位にいることです、そのランキングは売上ではなく台頭ぶり指数なのかは分かりませんが意味不明を感じます、確かにフェイスブックはみんなに認知された膨大なコミニケーションツールには間違いがないんですが、表立った広告収入はないし番組で見せていたように多くの社員が次々に生み出す新企画が一体それがどこに生かされているのか?その実体感覚が乏しいし、巨大優良企業に見合った利益を生み出せる商品バックボーンがどうしても僕には実感がないし、いわゆる確かな実態はまるで感じられない企業です。
アップル以外はすべて物を生産しない企業です、その企業体質は時代感覚が変われば一瞬に消えそうな危なげな貧弱さを十分に抱えている気がしますし、基本的に僕はこの手の産業体質が好きになれないのは情報商品で利益を出しているわけですが、一時期は花形産業に思われがちですが、早い話、どこか商品に実態がない虚業をすごく感じますし、時代が少しでも変われば企業価値はただの二束三文に落ちぶれそうです。
話を戻せば、そういう産業が隆盛する時代とは、物事に対して実態感覚が乏しく、価値観の浮き沈みが激しく、物事のリアリティー感覚、人間の思考力格差が広がる傾向の気がします。早い話が考える人と考えない人の格差がバカみたいに大きくなる気がしてあまり理想的健全社会に向かっているとは言えない気がします。
一見すればそれらのニューカレントは消費文化を活発にさせ経済効果があって良いように映りますが、実態は買っては捨てる愚かな消費行為を促すばかりで巨大な消費ゴミをどんどん増大加させます、これが行き着くとこまで行けば、「文明社会病」の根源、大きな落し穴が潜んでいるのを忘れてはならないし、僕は車に乗り付けて、安いからと行って狂ったようにバカ買いさせるコストコのような激安大型ショッピングセンターの台頭ぶりはどうも好きになれない文化です。

さて話は昨日の続きに戻しますが、みんな思春期にはまるで麻疹にかかったように何らかのカルチャーの影響を受けて大人になります、ある人にはサザンオールスターであったり、最近話題になっているクイーンであったり、ちょっと古くはビートルズであったり、またグラフックで言えばNYのアートシーンであったりです。
それに影響受けた人たちの気分は多分、伝統的な印象派の美意識とか価値観にくらべてNYのアートシーン、デザイン感覚は都会的でオシャレ感覚に溢れていたと思います、僕にとっての青春時代のバイブル的存在はやはりフランスのポップスで、その夢感覚だったわけです、みんなはフレンチポップスとシャンソンをよく一緒にするけどシャンソンは僕にはちっともオシャレではないし、どうも感覚が古くジジババ臭すぎたけどシルビーバルタンやフランソワーズアルディが醸し出していた世界観とかオシャレ感は僕にはとにかく素敵でしかなかった。
それに出会って自分の住んでる環境を見渡したらモノは確かに豊かにあるんだけど、所詮は優雅さにはまるで程遠く言葉にならない貧乏臭さを感じていた。僕が浴びるように影響を受けたのはアメリカ文化ではなく60〜70年代のヨーロッパ人の美意識とその感覚だった、しかしアメリカとヨーロッパの違いなんて何もわからなかった中学生だったけど、不思議なことにただの直感だけでその違いをずいぶんと正確に感じ取っていたんだから直感の判断力とは安易にバカにできないと思う、もしこの違いを理屈で一から説明なんかしたら、、、、、もう話が途方もなくとんでもないところに行っちゃうんだけど、直感的にはそれが一瞬にして説明がついちゃうから不思議なものです。

1800年末から1900年代初頭のアメリカの発明ラッシュ時代はアメリカの歴史で僕もすごく好きな時代なんだけど、どうしてもヨーロッパの方が絶対に惹かれるのは、やはりそこには過去の遺物である貴族文化がどこか根底に潜んでいるから好きなんだと思う、貴族ってフランス革命では一斉に捕らえられギロチン刑に処された、たしかに貴族と時代の真っ只中に一緒に暮らしたならば貴族なんて庶民にとっては百害あって一利なしだけど、残された歴史的文化建造物からすれば、貴族の残した遺産はやはり輝かしい財産であり間違いなく宝物だと思う。
今の時代の人々の根底にあるものはどこまで行ったところで所詮は目先の利便性と効率性による生産性でしかないと思う、 それ以外の概念、価値観、などは直接的にはほとんどなく、結局行き着く価値観は、少しでも、早く、安く、効率よく、手間を掛けず、情報や物がスムーズに取引されるのか、、、そこじゃないのかな?でも貴族たちが目指した価値観はそうじゃない、今にくらべたら宇宙人感覚を持っていたような、予算なんてまるでアタマになく破茶滅茶でしかない、とにかく少しでも圧倒的で、荘厳で、美しいものを作りたい、という無謀な企みばかりに明け暮れていた。
そういう優雅な文化を血筋に生まれたヨーロッパ文化に僕は思春期に麻疹のようにハマってしまい、ハタチになって早速現地に渡ってそこで暮らした、でも現実は毎日ただフラフラするだけの無駄な時間を消費しただけだったが、それが年を取っていつしか僕の原点となって今のもの作りはすべてそこにある、それに対してどうしてもNYのアートシーン、今の日本のカルチャーには根本的に好感が持てないのは、それらの文化は所詮は根底に物をいかにして効果的に作って売ることが最終目的だからそこには宗教的な面白みが今ひとつ物足らない。
そう思うと1900年代初頭の時代は激動の時代で興味が尽きない、あの時代感覚はやはり新しい時代の夜明けだったと思う、次々に発明される根拠は、物を売る目的だったんではなく、それまでの中世ヨーロッパとは重たい宗教的教会権威、その社会的重圧だったんです、特にカトリック社会では聖書のモラルから外れては何もできない重圧の中に人々は長い間呪縛されていたんですが、それが新しい時代と共に発明ラッシュ時代が到来し時代は科学が台頭し、その流れが聖書の重圧を丸ごと引っくり返し人間の概念を変えてしまった。
それは今の消費経済目的、経済効果だけが目的ではなく(あるにはあったと思うけど)新しい時代の幕開けに人々は希望を感じた時代だった気がします。そういう幸せ感が印象派絵画には溢れていて、パリ万博でパリの真ん中にエッフェル塔を建てたり新しい時代感覚に人は酔いしれた、でも今の時代文化はそうではなく何でもかんでも、背後に経済効果の企みを感じそれを感じるとすべてが興醒めするしかなくどうもそれが好きになれない。120年前の時代感覚が好きなのは、あの時代感覚は希望に満ちていて、どれも複雑な構造ではなく原理が単純で僕は好きなんだと思う。
果たして人間はそれ以上に複雑になる必要が果たしてあるのか、、、、、と時々思うけど、僕だって安く飛行機に乗ってヨーロッパに行けるからその恩恵は十分に受けているし、考えれば考えるほど難しい話です。

要するに自分の心の心象風景の扉が開けばものは見えてくる 

昨日の話しは上手く書き切れていないので少し手を入れたり書き直します。
僕たちクリエーティブの世界で生計を立てている人の多くは十代のころ表現に何らかの夢を感じ、若いころそれに時間とエネルギーを使い夢中になって、それを心の支えにして大人になることの嫌悪感を振り払いながらなんとか頑張って大人になったわけです。
村上春樹氏は思春期のころは変わったやや引きこもりな少年だったらしく、体育会系の人と関わって何かをするよりも、自分の世界に引きこもって本の世界に貪りつくように物語に没頭して思春期を消費していたようです、神戸育ちの彼は海外の船乗りが古本屋にどっさり処分して行った小説を英語原文で読むことを高校生のころから始めていたらしく、そういう思春期の経験って、その後の人生に大きな基盤であって大変な原動力なります。
今こうして僕は表現する仕事に従事し、僕も気がつけばそろそろ晩年を迎える時期になりその軌跡を振り返り自分にとって写真って一体なんだったんだろう?ってもう一度考え直してみるといろんな思いに駆られます、そして言えることは今している仕事は大きく分けて二つの仕事に分かれます。
広告の仕事はやはり企業を広告するものであって自分自身の作品ではない、もちろん完全に双方、二分割できるわけではない、中には重なる部分もあって分別はできない、広告ノウハウや感覚が個人作品に使えることもあるし、広告表現に個人作品のノウハウがそのまま使える事もある、僕の場合はわりと自分の表現スタイルを活かさせてもらえるけど広告はあくまでもコンセプト主体なので個人作品とはやはり根本的に違う。

昨日書いた話で僕が最初に助手に就いたカメラマン事務所では壁面いっぱいの書庫に相当数の作品集や写真集が隙間なくぎっしりコレクションされていた話を書いた、まだ名古屋から上京したばかりでクリエーティブにすごく憧れていた駆け出しにはそれは途方もなくカッコ良かったし、優秀なクリエーターとはそう言うものだと思っていたけど自分が独り立ちして、自分の個性、自分のスタンスや考えも出来てくると、それは果たしてどうかと懐疑的目線で見るようになった。
そんなにたくさんの本をコレクションするって一見カッコよく聞こるが、それが本当に役に立っているのか冷ややかに醒めた目で僕は見る、それらは所詮はただの情報でしかなく情報がそんな期待するほど表現活動に役に立つだろうか、僕ならそれらは荷物になるばかりで役に立たないことの方が圧倒的に多い、広告カメラマンは、オリジナル性よりも、浅かろうがいろんな引き出しを持っていた方が仕事になるし役に立つ、またその方が受け入れられやすい業界だから、それは理解できるし無知な人にとってはカッコよく映る。
まったく何も知らないのもちょっと困るけど、クリエーターだからと言っていろんな作家や作品内容を知っておく必要なんかない、自分は自分だし人は人だと思う、自分が特に好きな作家だけ知っていればそれで良いんじゃないかと思う、僕はいろんなものを収集したり、たくさん抱えるのは好きじゃないから、不要な写真集が自分の書庫に居座るのは好きじゃない、とにかく狭い書庫には必要以上の本は置けないし不要になった本はさっさとヤフオクに出すか、誰かに譲るか、処分する。また読みたくなったらまた買えばいいくらいに思ってる。

それより個人作品を作る最大の原動力とは、思春期時代に夢中になったことを掘り出すに尽きると思うし大きなヒントがある、例えば十代にハマっていた音楽、大人になって久々に封印を解いて聞くと、あの当時、夢中になった気分に一瞬にタイムスリップさせる力がある、こういう影響力って中途半端な作品集をコレクションするより心の奥のまたその奥の深い部分の心を揺さぶり動かす不思議な力がある。
自己作品を写真で表現することって、とどのつまりは失った時間とその思い、失った夢、失った記憶を揺さぶり喚起させるものなんだなって最近痛感する、新機種カメラやライカがそれを撮ってくれるのではない、そういう心の奥の奥に埋れた、言わば埃をかぶった化石化した記憶のエネルギーを引き出す表現行為は、誰かの作品から刺激を受けるのではなく、(もちろんメチャクチャ刺激を受けるものだって当然あるけど)もっと別次元の引き出し方を自分自身の心の心象風景とその扉を開くカギのありかを知っておく必要があると思う。
つまり自分の心象風景の扉はどのカギを使えば開くのか、そこを熟知していれば、壁いっぱい書庫なんか要らなくなるし、そんなものはただの荷物でしかなくただの邪魔モノに見えてくる。昨日書きかけたあるデザイナーにとっての思春期はこの時代のNYのデザインシーンだったんだなってFBを見ていたらひしひしと感じて、こんな文章を書きたくなったに至ったわけです。

120年前の新しい時代感覚が僕は好きだ。 

クリエーティブの仕事をしているといろんなアーチストの作品をたくさん見て、いろんな作品集、写真集、画集をたくさんコレクションしていたり、それらについて知識があったり、ギャラリー巡りをしていないとダメみたいに思われがちだけど、、、、どうなんだろう?僕が思うに必ずしもクリエーターはそれは必須だとは思わない。
僕がまだ若くカメラマンを志し上京して、、、、まだ何も知らなかったころ、最初に助手になったカメラマンの事務所にはまるで図書館のように壁一面の書庫にはたくさんの写真集、美術書がコレクションがあった、初めてそれを見た時、圧倒されたしカメラマンというのはそうじゃなきゃならないものだと思っていた。
たしかに何も知らないのはあまり良いことじゃないだろうし、いっときはいろんな作品集、美術書を片端から見る時期があっても良いし、むしろそれをまったく通過しないでカメラマンになろうとするのは果たしてどうなのかな?って思う、やっぱり良くても悪くても駆け出しのころは頭ごなしで構わないから誰かに就いて安月給でその世界を一部始終見せてもらって下働きに明け暮れる時期はあってもいいと思う。
下働きの意味とはそれを通して仕事も覚えさせてもらえるけど、それだけではなくてもっと違うものを学ばせてもらえる意味がある、そこそこに仕事をしてるカメラマンは一体どんな暮らしをしてるのか、どんなモノを見て勉強しているのか、下積みでは経済力がないから高価なものに触れる機会もないし、時々、値段の高いレストランにも連れて行ってもらえるし、金のない下積み者には何かといい経験をすることだってある。
ただその下積み生活があまりに長過ぎたり下っ端根性が全身に染み付きすぎたりすると自分の考えがないまま大人になるのはどうかと思う、、、、まあ細かいことは自分自身で考えて決めることだけど、それが自分で上手く選択が出来ないヤツはどんなことをしたとしても頭角は表せないし結果は出せないと思う。
僕はスタジオアシスタント、カメラマン助手を経て、小さなプロダクションに入って、カメラマンになろうと試みたけど 結局それまで身を粉にしてやった下積みは、要はただの助手であって言われたことをテキパキとこなすだけの仕事に明け暮れていただけで、自分で考えて自分の感覚で撮る、この単純な訓練については、下積み時代は何もしていないから、さあ今日からカメラマンになろうとしても何も出来ない自分に直面する。
考えたら、そんなごく当たり前のことすら下積み時代はあまり深くじっくりと考えず、その事実を見過ごしてきたわけで、その時、痛感したのは「アタマを使ってこなかった」下積みの意味に対して僕は疑問を感じた。
それで僕は日本を出て長期間の旅をした、旅で写真を撮って、撮ったモノを見て、自分と向き合って、自分の体質について考えたり、自分は何が撮りたいのか、自分は何が撮れるのか、自分は何を撮ることに向いているのか、写真を通して自分はどういう生き方をすべきなのか考えた、こういうことはただ考えればいいってものではない、ただ考えるだけならたいした結論には至らない、と言うか至るはずがないと思う。
写真とか自分の表現媒体があるから、自分についてとことん考えることができる、自分が下手な写真しか撮れなかったら、どうして下手なのか考える、第一線のプロ水準と自分を比べると、自分はどの辺に立っているのかがだいたい分かるし、第一線の水準にたどり着くには、何が足らなくて、何をしなくてはならないのか考えるし、自分の写真が今現在どのレベルにいるのかそんなことをあれこれ考える。またそこをじっくり考えなかったら上になんか絶対に行けない。
そう言う意味で下積み時代に誰かの助手をするのは少しは意味がある、またいろんな作品集を片端から見る時期だって必要だと思う、ある意味でそれは絶対に通過すべきと思うけど、いつまでも人の写真集を熱心に見るのはどうなんだろう?少なくとも僕は人の作品を熱心に見ないし、誰かの作品展だって熱心に通わないし、誰かのFacebookだって熱心に見て「いいね」を入れたりしない、でもカメラマンになって東京に事務所を持って仕事を忙しくしてた時期、いっとき集中してあらゆる写真集を次々に買って見たこともあった、でも今も手元に残っている写真集はわずか1冊しかない。
なんでだろう?なんで自分はそう言う生き方をするんだろう?それは自分は極めて個人的な性格で、誰かの写真を見て自分の参考にできるタイプではなく、そう言うものはむしろ自分を見失うだけが圧倒的に多く、その結果そうなってしまった。
それともう一つは僕はわりと古典思考の持ち主で今風の思考回路、価値観はだいたい自分に合わない、僕が最も自分に合う時代感覚は1800年末から1900年初頭の印象派の時代感覚が好きだ、あの時代、エジソン、ライト兄弟がアタマを捻っていた感覚が自分が最も共感ができる時代感覚だと言うことを自覚している。
多分、僕の感覚は、鉄道が一般化し、人間が初めて空を飛び、家庭に電球が普及し、異国文化がまだ新鮮だった時代感覚が僕にはシンプルで分かりやすいし、実際にその時代の話が好きだ、絵画にしても、アメリカの発明ラッシュ時代も好きな時代です、それ以前の時代感覚は宗教色が強すぎて聖書が主題の大半だし、それ以後の時代になると時代感覚は物質中心になって肌が合わない、、、、。

どうしてそんな話を今日は書いたかと言えば、話はちょっと変わるけど、普段あまり見ないFacebookを今日はあるデザイナーのページを開いて過去を遡って開いてしげしげ見てていたら、彼の興味についてふとある事に気がついた。
それは、僕らクリエーターとかカメラマンは十把一絡げに「クリエーター」として括られているけど、だいたいは今現在の需要として広告か出版かプロダクトデザイン、多くはこれらに属しています、でもそれぞれにみんなそれぞれに自分のルーツとか自分の原点をちゃんと持ってるんだな、、、とFacebookから感じたわけです。
Facebookをじっと見て感じたデザイナーは一昔前のNY(ニューヨーク)のデザイン世界に憧れそれが彼の原点であり基盤でありそれが彼のすべてとして自分を確立してきたんだろうな、、って感じたわけです。そう思うとみんなそれぞれに自分の原点というのがあるんだなって感じたわけです、でも今はこの2018年の日本でそれぞれの場で仕事をして生きている、でも彼のルーツは一昔前のNYから影響を受けて今があるんだと感じたわけです。
そう思った時に自分を振り返った時、僕は先に書いた通り、心は120年前のヨーロッパ(パリであったりロンドンであったり)の工業製品が目新し時代で、それまで中世のキリスト教会に振り回されていた時代から科学が新しい時代感覚を切り開いた時代で、次々に物が発明された時代感覚で、パリにエッフェル塔が建てられた時代、それが僕にとって一番心が踊る時代の感覚なんだな、、、とより深く強く自分のルーツに気がついたわけです。
いきなりこんなことはちょっとバカみたいな話にしか聞こえないかも知れませんが、それが僕のルーツです、、、、、。

英語学習とは、なかなか覚えない自分との戦い自体がゲームです、 

3年くらい前から真剣に英語を勉強し始めた。
これまで自分ではあまり自覚はして来なかったけど他の学科に比べて僕は語学好きな脳を持っているようで、ならばと、、、もっときちんと英語を勉強したいと3年くらい前から集中して勉強を始めた。
イギリス生活経験もあるし海外旅行経験、海外ロケもそこそこにあるから、カンタンな英語会話ならこなせるとこれまで自負してきたけど、冷静に見ればこの程度は話せる人から見たら酷い英語なのは前からちゃんと自分で分かっていた、でも、だからと言って何をするでもなくそのまま放置してずーっと最近まで来てしまった。
それがついに3年くらい前にこのままでは良くないな、、と思って、重い腰を上げ、再びきちんと勉強し直したい、、と思って始めた、その目標は出来ることならテレビや映画で話される話について行けるレベルを目指しているけど、やって実感するのはそんなレベルは現地で毎日話す生活をしていなければ、そうカンタンじゃないと改めて実感した、とは言えやれるとこまでやって見たいと飽きもせずに日々励んでいる。
英語を覚えてどうするのか、なんの為にムキになってするのか、、、それは人によってそれぞれ趣もあるし、それを書くのは後日にして、、、まず始めてどう感じたかについて今日は専念します。
あらためて実感したのは僕は知らない国を旅することがすごく好きなように、異国の文化に触れたり異国語で話すことが基本的にすごく好きなんだと思った、日本語じゃない言葉で話すだけでも海外旅行してる気分になれるから好きなんだと実感する。
若かったころは今とは違います、当時は何も話せない状態でイギリスに行ってまず感じたのは必要最低限のやり取りがなんとか出来ればまあ満足だった、それ以上いろんな言い回しを覚えたい欲求はなかったし、とにかく英語のやり取りが少しでも理解できたらそれで良かった、でも今は違う、それなりに込み入った複雑な会話力が必要だし、自分はそれをしたいし、相手の言い分もある程度込み入った中身だろうがきちんとスムーズに理解したいし、今はそれが必要な思考感覚で日々を生きています、書類だってさっと見て理解できないんでは何かと困る立場にいますし。
それは自分が大人になったから若いころとは違って語学力だって高度なレベルが必要になったわけです、それは美術に例えたら今なら興味のある絵画は自分なりに深く洞察したり、作品背景を考えたり、作家がそれについてどういう思いで描いたのか当然考えます、誰か評論家が書いたテキストをそのまま鵜呑みなんかしたくないし、自分の目線や疑問がなく誰かの文を受け売りするだけの立場では今はないんです。
英語だって同じように年を取ったなりに20代と60代では思考世界が違います、この年になればそれなりに深い視線を持った思考もしますし、当然英会話力だって、解読力だって年相応の造詣が必要になって来ます。むしろ勉強を始めたのは遅いくらいです。

さてそこで3年それなりに真剣にやって実感したことは、”こんなに毎日やっても、いざ会話の場で実感できる目に見えた効果はほとんどなかった”という事です、いくら真剣に勉強してたつもりでも会話ではそれがさっと出てこないことだらけで、やはり過去に覚えたフレーズを繰り返すばかりでこれと言った勉強成果と進歩はしていない、これが現実でした。
やっぱり日本での英語勉強は限界があるのかな、、、と思ったりしました、でも言えるのは、昔に比べて圧倒的に英語知識が増えたことです、それが会話に即、役に立つかと言えば、そうでもないけど、英語勉強するなら知っておくべき英語予備知識です、これは後になって絶対に役に立つし、文章を読んだり書いたりするには絶対に役に立つ知識は確実に増えています。
僕の場合、勉強するのはその根拠が明白だし勉強すること自体がとても楽しい、10月イギリスに半月間旅して、若いころよりも会話力と会話を楽しめる余裕が格段に上がっているのを感じたし、会話力があれば、人に何かを気楽に尋ねたり、人との雑談が楽しい気分になるし、それが旅の楽しみを左右するし、今回のイギリス旅行は本当に心底楽しかった、でも日々学んだことがそのまま会話で口に出るかといえば、そうでもない、でも聞く能力は相当上がった気はします。
歳を取ると若いころに比べて暗記力が相当に落ちたことを実感します、でもそれは単純にアタマの能力が低下したと結論付けたくはないです、脳の記憶構造が若いころと変わったと僕は受け止めています、これは負け惜しみではなくマジにそう思っています、イメージを伴わない丸暗記力は落ちたけど、イメージを伴う思考力と洞察力は、若いころに比べたらはるかに深くなったことを実感しています。
要するに勉強のやり方も年と共に変わらざるを得ないのが実感で勉強のスタイルはそれなりに工夫が必要です、英語について人によく聞かれるのは、どうやって勉強すればいいんですか?これがとても多い、それについて思うのは、人によってこれだと言うスタイルは違うと思うので究極を言えばは自分に合った方法はやりながら見つけ出すしかありません。
でも、言えることは多分続かない人とか、効果が出ないで辞めちゃう、このケースが多く、何かいい方法があったら知りたいと言う意味だろうけど、何かを学習するとは本人の目的意識とその意欲が曖昧で低くフラフラしていたら、どんな方法論を持ち出そうが結果は同じじゃないかと思います。
3年くらい英語勉強して出た僕の結論は、いろんなフレーズを覚えるとか、あれこれやり方があるだろうけど、結局これだと思ったのは、「手持ち英単語数を2倍〜3倍にする、」それなら必ず勉強した実感効果が得られます、さらに言えばそれぞれの単語をより深く理解すること、その単語はどういう意味があるのかじっくり知る、これならスマフォの英語辞書を毎日じっくり電車の中で見るだけでカンタンにできます。
僕の場合は、英語力をアップもちろんですが、なかなか記憶しない自分の脳に対し、手を変え、品を変え、やり方を変えて、どうすれば記憶させられるのか、効果的な方法を考え、見つけ出し、攻略すること自体がゲームであり楽しみだと思ってやっています。
「覚えない脳」と「覚えさせようとする脳」つまり劣化する脳と再生させる脳との戦い、そのコアーは向上心とでも言えば良いのかな。