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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

山手の散歩は優雅な時間でした。 

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これまでの話の続きです。
前回の話の結論は、自分の作品、魔法植物園はスタートしたころはファンタジーなど敢えて意識しなくても自然に備わって自由だった、行く場所が初めての場所ばかりですべてが新鮮だった、行った先々でこんな感じがいいな、これがいいな、あれこれ思いワクワクしながら撮っていた、それが回数と年月を重ねるうちに徐々に鮮度が薄れ魔法気分は消え遊び心も見失い始めた、それに代わって気分は作品を完成させる目的意識ばかりが先行し始めた。
これは写真に関われば誰もが一度は陥る壁です、なかなかここから出られないでしょう、何かを表現するとはこの壁を神が仕組んだ「わな」と受け取りどう向き合えるかです。これをただのスランプとして受け取るか、これを文学的な羂と受け取れるか、そこに人間的深みとそのセンスが試されます。
スランプに出会った時、その解決の糸口を自分で考えられないならもうその時点で失格です、むしろこう言う時こそ自分のアタマを駆使して壁の壊し方を考えるチャンスと捉え、むしろそれを楽しむべきです、そこで自分の才能、内面世界に対する信頼を深められる絶好のチャンスであり、それが作品作りの面白味と本質です。
僕はこれを見失っていた、作品を完成させることがいつの間にか目的にすれ代わりファンタジーを忘れていた、でもこれは笑えない話で多くがここにハマっています。

最近、撮ることよりまず物事を見ています、下手にカメラを持つと撮ることばかりに意識を奪われモノをしっかり見ることが怠りがちから見ることに意識を戻しています、モノをどう見るかは各自のセンスです、ただ見るだけか、美意識でモノを見るのか、どう向き合えるかです。
最近、長い散歩をしています、そこで目に写ったモノを見ます、ただ見るんではなくモノと向き合いながらモノを観ます、細かいことは企業秘密でまだ言えませんが、1日かけた長い散歩はモノを見る意識を確実に変えます、目線、感じ方、心に映る風景が変わって見えます。その目線は旅の目線を思い出させ、叙情的、感傷的なフィルターを通して見えます。
それは確実に日常の意識、感じ方を変える機会だと思いました、もし何かちょっとした迷いがあったら筆記具を持って長時間の散歩に出るべきです。少なくとも机の上で考えるより広がりがある視線を体験します。ただ結果を期待しすぎは禁物です、意識変化はごく僅かでその僅かな変化に自分自身が気がつくべきなんです。

一昨日前、横浜の地図を見ていました、地図によれば根岸森林公園から山手が意外に近いことに気がつきました、JR山手駅から根岸森林公園に行き根岸競馬場建物を見て、山手の洋館巡りをして、そこで古き良き優雅な時間に触れ、元町を横切って、中華街に出て食材購入と昼食をして、そこから関内に出て伊勢崎町辺りから弘明寺まで黄金町経由で歩きました、総距離は多分20キロくらいだったと思う。
やはり山手の洋館あたりはなかなか優雅な気分になれるところで詩的な気分に浸れました、優雅とは一体何なのか、時々目についたモノ、感じたこと、これらにカメラを向けました、それは写真を撮るよりも、カメラを通して何かを捉えたり考えたり、捉えるとは一体何なのか、自分が撮りたいことは何なのか?それを考える良い時間だったと言う方が正しく、久しぶりにカメラを通した優雅な時間でした。
そう、こう言う濃密な時間を思いながら、撮ることについて考えていたわけですが、本格的な散歩はなかなかいい時間でした、、、またどこかの国で当てもなく散歩しに行こうかな、、、。

感性はある時あっさり消える 

前回の話の続きです。
この話は個人的ですが僕にはシリアスは話なので最後まで書き切りたいので続けます。
荒井由実さん(松任谷由実)のデビューアルバム”ひこうき雲”と2枚目のミスリム、この完成度の高さと言ったらことばにはならない中身の濃いアルバムだと思う、これは1973年に発売した作品ですが47年経った今聞いても古臭さは微塵も感じない、こんなに時間が経ってもいつまでも新鮮なアルバムはそうやたらにはない。
それが10枚目くらいのアルバムは初期に比べたら商業的要素が強くなりはじめた、それは初期に感じた詩的なムードは消え時代の価値観や流行が曲に感じ始めた、その当時、ユーミンは女子大生たちの圧倒的なカリスマと化し女子大生たちに受け入れられるアルバムを作らざるを得ない立場にあったのかも知れない、しかし初期に衝撃を受けたファンにはその流れは多分残念だったと思うけど、それはユーミンの問題であって外野がとやかく言える話ではない。
どうして初期にあった詩的な叙情性は消えて言葉は悪いけど時代の音楽になってしまったのか?ご本人に聞かなきゃ分からないが、、、、僕の想像ではやはりここが大きかったんではないかと思うのはユーミンのアルバム売り上げはレコード会社にとって大変な収入源で、当然レコード会社からアルバム制作は大変な予算と期待がかけられていたはずです。
ユーミンがアルバムを作って世の中に出すのはもはやユーミンだけの話ではなく、レコード会社の経営そのものであり、レコード会社が敷くレールを走らされただろうし、相当な数字プレッシャーはかけられていたはず、それをストレスと感じず追い風と捉えられる人もいるし、それでダメになった人もいる。
初期のひこうき雲はまだレコード会社にとって数字的に未知数だったから自由に制作出来ただろうけど、ある程度売れ始めると自由奔放なアルバムはそう勝手に作らせてもらえない流れになったんじゃないか、いずれにしても初期アルバムを思うと5〜6枚目くらいから初期にあった濃密で叙情的な空気は消えアルバム全体から感じたのは商業主義的でその時代音楽になり始めた。
ただその中で奇跡なのは「時のないホテル」と「紅雀」は必死にその流れと葛藤しながら身を削りながら作ったんではないかと思うが、世の中から地味で根暗なアルバムだと評価されていたらしい、でも僕には好きな叙情的なアルバムの復活でした。
ここに書いた流れがわかりやすい現実の難しさですが、それはユーミンとご主人が自ら選んだ流れなのか、時の流れでやむを得ない事情の結果なのか、初期は単に奇跡作品だったのか、、、、ご本人しか語れない話だろう。これは僕だけが感じていることではなく、ユーミンを天才と讃えるコアーなファンなら周知の事実だと思う。しかし一個人を勝手に憶測で書いてとても失礼なことだとは思うけどやはり初期の才能が消えたのは寂しい限りです。

何らかの事情であの時キラキラ輝いていた天才的感性はある時を境にあっさり消えることがあります、また現実的な煩わしい雑ごとに生活が追われるとどうしても作品作りでは心の余裕がなくなって、あの時はカンタンに作れたものが、今はキラッと輝く世界がもう見えなくなって、無意識に物作りは理屈で捉え始め感覚的に作れなくなったりします。
実を言うと僕自身も今の作品、魔法植物園について、これまでの流れ、問題点に向き合って感じるのは、やはり鮮度を見失っているしその事実を認めざるを得ないし、どうしてもこの壁を越えたいならアタマをリセットして出直すしかないと思う、言えることは鮮度を失ったからもう終わりと思わない、過去にも作品が撮れなくなったと感じていたところから、また新しく撮れ始めたこともあった、むしろ一回壁にぶつかって、身動きが取れなくなって心と向き合って流れを変えたことがあった。
そう言う時、どうするかと言えば、感覚に頼りすぎると身動きは取れなくなる、現実的な思考が案外助けになってくれる。 それと感覚はどう言う流れきっかけでキラキラ、ワクワクし始めるかを知っておかなければならない。

そこが大きな分岐点です 

昨日の話は後半が分かりやすく書けていないのでその部分を書き直します。
こんな言葉を耳にします、「芸術家がお金勘定を始めたらお終いだ」でも芸術家も人です、カスミを食べて生きて行けないし現実生活は芸術家にもある、僕はこのように受け止めます、世俗的なことばかりに心が煩わされ支配されると感覚は見失ない作品はダメになる。
これは本当にそう思う笑えない話です、これで才能発揮していない人を何人か見ています。これは現実世界で感覚を貫くのは現実との戦いであり激しい葛藤です。
できるなら本当はもっと感覚的な世界で生きたいけど、現実はそうではない、自分の能力ではそれはとても叶わないから、現実を選んだ、そう言う人は多いと思う、実際クリエーターと言えど実は現実的な考えの人は五万といます。むしろそうじゃない人なんて稀です。

人が何かを立ち上げるにはどうしても物事に確かさを求めます、現実的な行いには確かさは確保できますが、感覚的な行いには確かさなんて確保はできないし厳密に言えば契約は結べない、(現実社会では結んでいますが)だからと言って現実的な、つまり物質的な価値観だけで世の中すべてが回り出したら、それは息苦しい世の中になってしまいます、実際に今の時代がそうなっていますが、、。
何か新しいことを人とすると、その人の価値観がよく分かります、始めから終わりまで一通り見ていると、その人の価値基準、何を優先するかその人の価値観が見えます、カタチ、結果を重視する人と感覚的な価値観を重視する人に分かれます。はっきり白黒はつけられないにしてもその人の価値傾向はだいたい見えます。よくあるパターンはそりゃあできれば夢は大事にしたいけど現実はそうじゃない、本当は現実的な生き方は選びたくはないけどそれしか選べない、そんな人ってわりに多くいます。
感覚的な行為とか表現活動とは、やはりひとつ一つに掴みどころがないし目には見えないから、どうしても終始一貫してブレずに感覚を貫き通すってことは心が鍛えられていないとむずかしいです、こうやって現実に押しつぶされ感覚は蚊帳の外に置かれやがて感性を見失います。
今回の僕の作品作りを例に話をします、魔法植物園と言うタイトルで植物テーマに作品作りを始めました、しかしただ植物を撮り集めたって面白くもない、ただの植物写真ではない植物をテーマに「魔法がかかったファンタジー」を撮り集めて作品集にしたいと思ってスタートしました。
しかし実際やって感じたのは、これは自分が思っていたより遥かにハードルの高い作品でした、そこに明白なイメージがあったわけではなく、ただ直感から始めました「それが撮れたら良いな、、、」くらいの根拠のないところから始めました、それを何年も年月とエネルギーをかけいろんな植物園に通って撮ってみました。
このテーマはそんな曖昧な考えではカタチにならないテーマだった、撮った上りを見て感じたのは、たしかにまあ良い作品はいくつか撮れているけど、いろいろと撮ったわりには期待した結果が出ていない、どうもイメージした物とは違う、そのうち当初イメージしていたことがだんだん分からなくなった、えらい難しいテーマに手出しをしたな、、、って時々思った、今後、何を具体的にすべきなのかが分からなくなった、でもあまり深く考え込まないで撮り続ければそのうちに何かに突き当たるだろうと気を直して撮り進めた、そして気がつけば3年くらい経った。
さらに気分を変えて植物園、ガーデニングの聖地イギリスに行って撮った、行った時はまた新らたな流れが見えた気がしたけど、そこで撮ったモノを冷静に時間を置いて、もう一度作品に向き合ってみると、やはり残念ではあるけど今までの壁から一歩も出ていない同じところをクルクル回っていることを認めないわけには行かなかった、とても感覚的とは言えずこのまま同じことを続けたところで仕方がないと感じ一旦、手を止めた。
せっかく志を高らかに掲げて始めた作品だったけど、このまま終わってしまうのか、また再開できるのか、そこは不明だったけど、このまま続けたところで仕方がないし一旦止めた。要するにただ植物に向き合っていても、そこから夢世界にはなかなかカンタンには入らせてもらえない厳しい現実がそこにあった。

そして作品作りは中断して1年くらい経って、これまでやったことを新ためて振り返えると問題点を発見した、それは薄々は気がついてはいたけどやっている時はほとんど気がつかなかった、気がつかなかったんではなく、気がつこうとはしていなかった、でもそれは根本的な問題点であることに気がついた。
その問題点は根本的でそこから考え直すのはテーマ自体のあり方に関わる問題で、それを始めから問い直すのはとても厄介で、とても難解で、現実的に考えたら気が遠くなることだった、できれば看過したい問題だと感じた。
要するに、徹底して感覚的に作品を作る「感覚的な状態」にはまだ意識は程遠かった、撮り方は一つのパターンにはまっていた、もっと感覚は徹底して自由じゃなきゃダメだ、もっと根本的に直感が前面に写っていなかったらダメだ、直感が冴えていなかったらダメだ、徹底して厳しい目で作品を見ないと、自分の心の壁に埋没してしまう、そこから出られずパターンの繰り返しに終わっている現実を感じた、現実思考が無意識に自分を支配し生産的な自分がいた、感覚は現実の自分に押しつぶされ、知らぬまに埋没していた、このままではいくら撮り進んだところでつまらない作品でしかない。
でも制作はまじめにやっているから自分なりにやってる気になっていた、問題はここです、それはもはや感覚行為ではなく現実的な生産活動で撮っているにすぎず自分でそこに気がついていない、やってる気になって自己満足していた、ああここにハマっていたのか、、、、、。
写真がうまく撮れない原因の大半はこれです、もちろん才能の違いもあります、ここからどこに進みたいのか自分でその先が見つけられるか、見つけられないか、そこが大きな分岐点です。
結論は、どんなにあれこれ最先端の機材やスキルを使ったとしても、立派な理屈をつけたところで、感性が不在の作品、感性を見失った作品はつまらないモノでしかない、現実に心が奪われればそれがすっかり見えなくなる。

感覚は気まぐれでわがまま 

今日は感覚について書いてみたいと思います。
僕は写真家です、感覚を使うのが仕事です、でも写真家はみんなが感覚的とは思いません、クリエーターと言ってもあまり感覚的とは言えないクリエーターは山ほどいて要するにクリエーティブとは言えど中身はピンキリなんです。
広告で本当に感覚表現力が求められている広告なんて世の中広しと言えどほんの一握りです、あとは撮影スキルと仕事の流れ、スポンサーに対して説明力があれば出来ます、むしろその方が現実的で上手くはかどることが圧倒的なはずです。
広告の撮影現場では感覚力と現実思考力の頻度割合は多分3対7くらいで現実的な思考能力が必要とされます、ただしここぞという場面、撮影の真最中とか撮影の方向性を決める時には、その決断は感覚的じゃないと本当にその広告の結果はつまらないモノになってしまいます。やはり”ここぞっていう大事な場面は”現実的なアタマのスイッチは未練なくあっさり切って、徹底して感覚的になり切れないフォトグラファーはやっぱりつまらない写真しか撮れないです。
しかし感覚とは掴みどころがないものです、何を指して感覚と言うのか?そこが重要です。
感覚を掴み取りコントロールできること、感覚と現実的な思考をしっかり分別できることは、自分の心の動きを読み取る能力が不可欠です、ではその能力はどうしたら身に付くのか?って言えば心を観察して自分の感覚に向き合う習慣を持っていないと感覚は見えません。
話として書くのは簡単ですが実はこれがなかなか出来ない、これをきちんとやっている人はそう多くはいないです、それくらい自分の感覚をさっと読み分けができる人っていないんです、だいたいは曖昧な読み分けレベルです。
世の中には時々多感な少女がいます、男子より女子の方が多感な子が多い気がします、彼女たちはむずかしい理屈なんかなく、ただ単に直感的に感じるがままカメラを向けてゾッとするくらい良いモノを次々に撮る子たちがいますが、多くはいっ時のことでそれがいつまでも持続できる子はあまり多くはいません、大人になっても変わらず良いものが撮れる子はこれこそ”選ばれし才能”だと思います。
それで僕が現状で感じている感覚についてに話を戻します、感覚ってどう活用すれば発揮できるかやはり知っておくべきです、少なくともそれを職業にする場合はコントロール出来た方が良いし、その実態も知っておくべきです、下手に感覚を美化しすぎたり感覚に頼りすぎても感覚は機能はしないことが多く、感覚を機能させるにはまず現実的な思考が感覚の長所と短所を熟知しサポートしないと感覚は機能しないと僕は思っています。
例えば自分の作品をより感覚的にしたい時は現実的な分析力で作品を客観的に冷静に作品を見ます、ここは徹底してきちんと持てるアタマをすべて使います、この時のあたまをどう上手く使えるかがその人の価値と言っても良いくらいここが甘いと先には行けません。そこでの落とし穴は気持ちが冷静さを失い良い結果に気持ちが執着しすぎるとだいたいつまらないセレクトをします。
大半はそこにハマります、つまらないモノを良い作品と思い込みそれを撮り集めそれが作品だと信じ込みます、しかしもっと先に行きたいならまずそこから卒業しなくてはなりません、その場合は感覚と現実のアタマの共同作業をします、その行為は感覚的ですが現実的思考力は不可欠です、感覚と現実思考の掛け合いのようなモノです、感覚の弱みの部分を現実的な思考とか知性で感覚を冷静にフォローしないと感覚は充分に機能発揮しません。
多分、そこがよく心得ている人が本当にできる人なんだと僕は思います。
実を言うと、、、、今、僕自身が、ここに書いた、感覚と現実思考の掛け合い共同作業の真っ最中なんです。

中身のあることを描きたいと思います。 

最近、ブログを書く回数が減っています、特に書くことから気持ちが遠ざかったわけではありません、見たこと感じたこと考えたことを文に書き留めそれが誰かに読んでもらえて考えが共有してもらえることは基本的に嬉しいことだ思いながら書いています。
10年ちょっと前、このブログを始めたころは、自分の考えを文に書くこと、それ自体が面白く人に読んでもらえ意見ももらえたりガンガン書きまくっていたんですが、後で書いたものを読み直してみるとよくまあこんな恥ずかしいことを調子に乗って書いたものだと、まあ恥ずかしいやら、傲慢であり、なんとも言えない気になったりで書くことを懲りずに書いていました、そして気がつけば書き始めて10年以上も経ちました。
ここ最近、多分2〜3年ころからの思いなんですが、どうせ書くならば書き散らすんではなくひとつひとつまともなこと、内容のある事を書きたいなって思うようになり始め必然的に回数が減りました。前なら一気に書いてアップさせていたんですが、今は書いてそこに手を入れ書き直したり、出すのは止めたり、1〜2日置いてアップさせたり徐々にそんな考えに変わりつつあります。
もちろん文章なんて考えたから良いって物じゃないくらい分かっています、パッと思いついてサッと一気に書く文章の方がはるかにまともなことが伝わることだってあります、文を書くことで伝わるってこととは、つまり一体なんなのか?それを考えたりしていたんだと思います。
僕らカメラマンは文字通り写真家ですから文章と別の職業だから時々人から、よくあんな文章まで書くね、、、と言われたりしますが、それは僕にすればおかしな意見だと思います。むしろ僕は写真家から何かを学ぶより小説家から学ぶ方が多いかも知れませんし、文を書くことと写真を描くことは使う神経は同じだと僕は思っています。
文でも写真でもそうなんですが、何か伝えたいこと、描きたいことは、もちろん具体的な表現の手法は違いますが、肝心なツボは共通です、僕にとっては村上春樹氏から学んだことが一番大きかったと思っています。例えば、さっと思いついた思いは、ダラダラした表現はあまり伝わらないです、そう言う場合は簡潔にシンプルに勢いだけでさっと書き上げた方が気分が伝わります、これは写真もそうだと思います。
また逆にここはじっくり腰を据えてしっかりどう描くか思考を巡らせて描く方がしみじみと伝わる場合もあります、この考えは写真も同じです、つまり文章を通して伝わるってことの要点を考える機会として考えています。
それらの経験から学んだことは、アタマの中だけで考えたことは伝わりにくく、ふっと降りて来たような直感的な閃きは伝わりやすいです。
それで僕は前からずーっと思っていることですが、直感と言う物がいかに不思議な物で世の中一般が思っている以上に直感は実態があるものなんだ、下手な言葉で説明するよりもはるかにコンセプトを伝える力がある物だと思っています、これを何とか作品にして描きたいと思っていますが、これが中々思うようにはならない、、、、、。
そんなことを考えていたら、あまり無意味なことをブログに書きたくない気分になって来ました、それで最近ブログをアップする回数が減っていますが、書きたいことがしっかり浮かべば書くし、浮かばない時は書かないし、、、、、。