アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

ならば海外から買えばいいじゃないか! 

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最近、モノクロの印画紙事情はかつてにくらべて、ここ数年の著しいデジタル化でフィルム、印画紙、その周辺機材、材料の存続は風前の灯火です、止むなく生産を終了した品目は数限りなく、薬品はちょっと特殊なものが欲しければ自分で製薬会社に直接問い合わせて材料を購入して自家調合するしかない有様です、物によっては劇薬毒物マークの付いた調色材もあるから薬品知識がないと困る。
製薬会社からの直接購入ルート、これがまた厄介な話で一般個人が製薬会社から試薬品を購入することは、そうカンタンではありません、なんらかの説得材料を相手に提示しないと売ってくれない場合が多く、僕の場合は自分がプロの写真家であることを証明してなんとか販売登録してもらいました。
これまで普通に買えたフィルム、印画紙、写真感材はどんどん生産を終了するばかりで、今現在日本の量販店でなんとか普通に安定して買える高級バライタ印画紙はイルフォードかオリエンタルくらいまでになりましたが、これもいつのまにか値段が上がりかつてに比べ価格は2倍3倍くらいにまで跳ね上がりました。
印画紙はまだ当分の間、残るのか、近いうちに生産は終了し消えるのか、この瀬戸際に立たされた時代、苦肉の策として、値段を上げ、買う人は高くても買う、そうやって価格調整し利益確保しながら生き残れるんだ、、、と思いましたが、これは最近になって返って逆効果、自分らの首を絞め終了を早めている気さえしてきました、現実問題、フィルム、印画紙の価格上昇すれば、ますます客離れを促すだけで販売終了がチラチラと見え始めている気がします。
かつては量販店にもイルフォード、オリエンタル以外に個性的な印画紙、フランスのベルゲール、ハンガリーのフォルテ、チェコのフォマ、イギリスのケントメアーなんかが普通に買えましたが、しかしその値段が気軽に買えるような値段ではなく常用で使うには非現実的で、気軽には使える品ではありませんでした。
輸入代理店にとって、それがギリギリの価格だったのか、どこかで企業努力が足らない気がして見ていましたが、とにかく値段が高ければ客離れを促すばかりです、売り上げが伸びず、結果的にその輸入業者は海外印画紙の取り扱いはほぼ終了同然です。
これを見て痛感したんですが、このままではアナログ感材市場の衰退は必至です、逆にデジタルの拍車がかかるばかりの悪循環に入っています、フィルムは味がある、デジタルは味がない、もはやこんな悠長なことを言ってる場合ではなく写真にどれだけコストがかかるのか、かつては広告フォトグラファーがどっさり大量にフィルムや印画紙を買い込んでいましたが、今やユーザーは一部の愛好家に頼るしかなくその存続は窮地に立たされています。
このままではフィルムを知らないカメラ世代にとってアナログは敷居の高いものでしかなく、気楽に試しに暗室を始めてみようという気にはさせません。それが国内のアナログ感材市場の実態です。
ところが一つ朗報があります、海外から印画紙を買う手があります、英語が不得手だとちょっと敷居が高いけどクレジットカードがあれば買えます、これは最近友人から教えてもらったんですが、チェコのfomaという印画紙取り扱い業者から直接、買えます、かつてはfomaは日本の量販店でも普通に見かけ馴染みのある品なんですが、先にも書いた通りなんせ異常に高かったから買いたくても買えなかった。
これが冗談みたいなんですが、海外から買うと国内で買うよりもずーっと安いんです、大雑把な比較ですがイルフォード 印画紙8x10温黒調25枚これが、1パック8640円、同じような温黒調8x10 fomaを75枚(25枚x3)で13910円、これは送料込み価格です、単純計算でイルフォードを75枚にして25920円しかもfomaの方がテイストが好みです。
これでまた少し気楽にアナログモノクロが当分は楽しめます、海外から印画紙や感材を買うことはずいぶん前からしていました、でもそれは日本にない印画紙を買っていたからです、あまり現実的に値段まで考えていなかったけど、送料を入れてもそんなに高い気はしなかった記憶があります。
当時も印画紙価格に差はあったとしても、さほど気にならない程度でした、ただ不思議に感じたのはカラー印画紙が国内の半額くらいだったから発送時に必ずカラー印画紙1箱も入れてもらっていました。
つまり印画紙がそのうちに、消えるか、残るのか、この議論が愚かに思えてきました、日本で買うヤツがいなくなって消えたら海外から買えば良いだけのことじゃないか、しかも送料を払って海外から買った方が安い時代にもう実際になったから心配ない時代になったんです。
だいたい、このアナログの感覚は日本人感覚と海外感覚ではえらく違うと思います、まして東ヨーロッパと西側諸国では工業製品価値観もえらく違うんです、ここまで来たらもう国内の市場感覚なんか依存する必要はないと思います、聞くとこによればアナログ製品はどこも経営が上手く行っていない中で、フォマは利益を出しているそうです、だからまだ当分は消えることなく存続するんじゃないかと思います。
チェコって国は前々から興味をそそる国だと思って見ていましたが、なかなかの工業国家です、カメラではフレクサレットという2眼レフカメラがありましたが、これがまた良く考えられたおもしろいカメラです、会社名はメオプタと言います、チェコはもしソ連に支配されずに西側圏に属してたら間違いなくオランダ級の工業国になった気がします。

平行する二つの価値観 

最近、助手を終えたころについて書いて、あの当時の記憶がよみがえりました、僕がついた2人のカメラマンの考え方、生き方の違いについて書きたくなりました。
まず最初に、、、これは印象派の画家の話だと思います、画家の名前は多分セザンヌかマチスだったかな?と記憶していますが、その画家がまだ修行時代、美術学校で二人の先生に出会いました、一人はデッサンを徹底的に重視します、もう一人は技術よりも表現力、それには心が自由であるべきだと指導した二人の先生の違いでした、画家は両方の考えを学べたのが良かったと後に語っていました。
僕が写真家修行してたころ問われていたのは広告写真をするなら、まずテクニックを身につけること、感性が大事なんて言うけど所詮はテクニックだ、、、と言われました、自分としてはあまり信じる気になれない意見だなと思って聞いていたけど、結局僕は感覚を磨くことを選んだ、選んだというよりそれしか選べなかった。
テクニックを学ぶにしても、それはこういう表現がしたいからテクニックが必要になるのが順序で、始めらテクニックと言うのはどうにも気が進まなかった。
僕はスタジオマンだった時、Sさんと言うカメラマンに声をかけられ、そのままSさんの助手に取ってもらった、入ったばかりのころはSさんのところにいるのが刺激的に感じていて、特にモノクロ暗室はすごく学ぶものがあったりで、Sさんは世の中的に見たら多分優秀な広告カメラマンだったと思います。
仕事は名の知れた広告はほんとんどなかった、どちらかと言えばパッとしない広告が多かったけど安定して仕事はあったと思います、でも僕からすればどこかもの足らなかった、有名広告に拘っていたわけではないけど、人間がどこかキラッとくるようなタイプではなかったけど、しっかりしていて、感情の起伏はあまりなく、毎回安定して納品するので、仕事を出す側には不安要素もなく、やりとりもきちんとしっかりしていたし、物事の管理もきちんとしていたから仕事には困ることなく安定してあったようです。
ただ僕から見て表現者として発想の豊かさ、着目点のおもしろさ、アーチストとしてキラリと輝くような才能はあまり感じられなかった、何も知らないで入ったばかりは刺激的だったけど次第につまらなくなって行った、Sさんが頻繁に僕に言った口癖は「きちんとしていなさい」だった、きちんとしてることと、良い写真、面白い写真、魅力的な写真を撮ること、これは全然別の問題に思っていたから、僕にはその言葉はどうもあさってに聞こえて仕方がなかった。
今にして思えば、広告というものが何もわかっていなかったんだなと思う、半年くらい経ったころ、自分がもはやそこに鮮度を失って、相手も僕がイヤになったのか、「渡会くんはここには合わないよ、もっと作家先生のところに行ったほうがいいよ」と言われ僕はそこを止めさせられた、今にして思えば温情のある方だった。
行き場を失って途方にくれていたところ、こんどは有田さんという写真家につけた、僕はこの有田さんとの出会いは大きかった。多分僕は有田さんと出会うか出会わないかでは人生は違っていたと思うくらい有田さんの影響は計り知れないと思う。
有田さんはSさんとは真逆だった、有田さんは存在自体から何かを発していると感じるくらいセンスを感じた、仕事もわりと有名どころの広告が多かった、ある時、有田さんが帰って部屋を片付けに行った時のこと、机の上にレポート紙でくしゃくしゃと捻って作られた人形が何体か無造作に並べてありました。
僕は呆然とした、ただのレポート用紙でこんな物にしてしまうその世界観に驚いた、この人は写真家だけど一体何者なんだと思った、それをゴミとしか見えない人は世の中にはたくさんいると思うけど僕には作品に見えた、この人はアタマの中は一体何を考えているんだろう?いつもこんな世界が渦巻いてるんだろうと思った、微笑ましいやら、ホッとするやら、羨ましいやら、笑えるやら、そんな気持ちになった、もちろん片付けないでそのまま帰りました。
広告写真家はテクニックが大事、きちんとしていることが大事、紙で人形が作れることが大事か、さてどっちが大事なのか?有田さんについては7/21のブログ「モノを見る目」で書きました、僕はこの方に出会ったから今の自分があると思っています。
さてこんな風に書くと二人の能力を比較しているように取られかねないです、確かに個人的に好き嫌いはハッキリしていますが、でも物事は好きか嫌いだけで事は前に進みません、芸術性があるから良いと言えるほど世の中は単純ではありません、それにはそれなりの落とし穴があります。
有田さんは数年前にお亡くなりになって時効だから書くけど、有田さんは感性がそれだけ豊かだっただけに感情の起伏もそれに比例して激しかった、気持ちが不安定に陥ることが時々あって助手は誰もその感情に振り回され続けた、時々その感情、不安定、不機嫌に執拗に苛立ちの標的になってそのままクビになったりしていた、それはもう病気そのもので僕もきちんと卒業はできませんでした。
でも今になって両者を見比べると、Sさんはハメを外すこともなく、大きな夢があるわけでもなく、表現は退屈で、常識的でマトモな方でした、その点では有田さんには夢があって写真にその世界観が写っていました、有田さんの世界には何か夢とロマンを感じたし、あの方の横にいるだけで夢を感じられていた気がします。
それから30年近く時間が経ちました、僕は広告を始めてかれこれ20年は経ったと思います、今になって思うのは、大半の広告写真はアートではないのがやっと理解できました、今さら分かったのは遅すぎるかも知れませんが、テクニックが大事だ、きちんとしていなさい、これが大事なんだ、その意味が今さらになって分かってきました、でもいくらそこが分かったとしても、どこまで行っても、僕にはそれはできないと思います。
それはきれいごとじゃなくて、いくら自分に言い聞かせてもおもしろくないことはスイッチが入らないから。

エサと料理のズレ(2) 

昨日、国外に一度出ないと見えてこない話を少ししました、僕はあの当時、旅で何を探し、何を考えたのか、旅から具体的にどんな収穫があったのかを今日は書きます。ただこれはたまたま僕が上手く行っただけでこのやり方はどうやらほとんどの人は良い結果は出ない、まずダメになる、と後から人に聞いた。
僕は助手を経たばかりのころ、カメラマンになるにはまだ作品もない、自分のスタイルもない、これからどんな生き方をすればいいのか、写真家へのビジョンは模索段階で方向性がまだ何も見えていなかった、考えてみればそれは至極、当たり前のこと、そもそも写真家のビジョンなんてもともと持っている人も中にはいるかもしれないけど、僕の場合はホントんどないに等しかった。
それがある日、降って来るわけでもないし、どうやって探せばいいのかさっぱり分からなかった、仮に刺激的な本を読んだりすごい人に出会ったとしても、(実際に自分の師匠はすごい人だったと思う)それで人生が明日から変われるほど人生はカンタンじゃない。やはり自分で何か行動を起こし何かをカタチにして、悩んだり、挫折したり、乗り越えたりして、そこで自信をつけたり、その繰り返しが自分の人生を作るものです。
当時、僕が直面していた環境は、これから自分探しをするには劣悪な環境に感じた、そこになんの夢も感じなかったしイメージのかけらもなかった、ただ日々生産に追われ、夜遅くまで残業を繰り返していた、こんなこといくら頑張ったところで得るものなんて何もない、少なくとも僕が描きたいイメージのヒントなんか何もない、そこは僕には四面楚歌な状態だった。
自分が目指す広告カメラマンになるには、、、、、自分はまだ何もない、作品もない、本当に自分に良い作品が撮れるかだって未知数だ、まず良い作品を作らなければ道は開かない、まず作るための環境作りを最初に整えなくてはならないとあのころ考え始めた。
もう一つの道としては、始めから理想を求めるんではなく、まずは広告プロダクションのカメラマンになって、そこから時間をかけながら、自分の道を模索するやり方だってある、でも僕にはそれはまず無理だろう、僕には勤まらない、多分相手も僕なんか取らない、夜遅い終電ギリギリの残業の毎日、そういう広告写真に魅力は感じない、言われた通りに撮るだけ、こんなことするために写真家になりたいわけじゃない、仮に自分を抑えたとしてもやれるわけがない。
とにかく自分がどうしてもなりたい写真家とは、言われたことを撮る写真家ではなくて、自分で良いと思うモノが撮れる写真家になりたい、ならばそんな仕事が取れる写真家にならないと意味がない、そのためにはそれに見合った実力を持たないとそれは実現できないわけです。
さらにもう一つ言えば、僕にとって都会の環境はしっくりこなかったし魅力を感じなかった、通勤電車に乗って会社に行って、つまらない仕事をして家に寝るために帰る生活、この繰り返しにどうにもしっくり来ない、希望がどうしても持てない、じゃあ他に何ができるのか、選択肢がないからそれをするでは何か納得が行かない。
早い話、どうして僕らはにこんな奴隷みたいな暮らしをしなくてはならないのか?自分が納得ができる生き方ってないのか?それができるのは選ばれし人たち以外、そもそも無理なのか?
そう感じて僕らは旅に出た。旅に出たんではなくて、その生活環境が受け入れらなかっただけだ、今思うとずいぶん大胆な考えをしていたと思う、ただの世間知らずだったとも言える、でもここに書いたことは僕だけの気持ちじゃない、誰だってみんな薄っすらと感じていただろう、僕はそれが受け入れられなかったから旅に出ただけでそれを実際に行動をするか、しないか、分かれ道はそれだけだったと思う。
旅のテーマは良い作品を完成させること、自分にとって好きな生活スタイル、好きな時間、好きな空間、目指す生き方の方向性、これらを旅をしながら探すこと。今になって見れば、考えは整理できているけど、あのころはもっと混沌としてもっと手探り状態だった、ただはっきり確信してたのは、あの場でいくら頑張ろうが、自分が描きたいイメージなんか見つかるわけがないと感じた、昨日の話じゃないが、ただエサを求めて日々ただ消耗してるだけにしか思えなかった。

それで結論を書けば、繰り返した旅で得た収穫は何だったのか?一言では上手く言えないけどできるだけカンタンにまとめると、、、、、、、。
今でもエサを求める苦行からきれいに解放されたわけではない、ただ言えることは、同じ労働をするにしても自分の悦びなのか、ただのエサなのか、その違いがはっきり分かるようになった。
また、自分にとって極上の良い時間の過ごし方を知った、おもしろいことと、おもしろくないことの違いが、よく分かるようになった、その原理と原則みたいなものが読み解けるようになった、だからそれはそのまま写真に撮ることで大いに助けになったと思う、もちろんそれはあくまでも僕個人的な感じ方だけに限ると思うが、でもそれは時として人と共有できるはずだとも思う。

それで帰国して最初に取った行動は、まず都会暮らしから離れることにした、鎌倉とか葉山はその点ではとてもありがたい場所、都心から2時間以内で何とか行き来ができる、そこは海があってゆったりした時間が流れているから、ゆったりした生活ができる。
でも実は、何が大事かといえばゆったりすることではない、海だってそんなに重要ではない、もちろんマリンスポーツがしたいなら重要だけど、大事なのは悪い環境にいないこと、これが重要だと思う、家の前の視界に何もない空間があるだけでなかなか良い、結果として海なんだけど、海は必ずしも必要じゃない。
人はそれくらいビルに囲まれた圧迫された環境で長く暮らすと気が変になる、また生産性に追われた生活も感覚的な生き方にとってはプラスにはならない。
でもこの生き方が実現できたのは、やはり何と言ってもうちの奥さんがいてくれたことが一番大きいと思う、それと自分の実家の家族の助けがあってできたことだと思う、もしそれがなかったら僕はもっとつまらない人生だったことは間違いないと思っている。

エサと料理のズレ 

一昨年前、香港に行った時、日本食料理人をしている知人と会って話した、日本から単身赴任で一人暮らししてる彼はこんなことを言った、「はじめは仕事が終わって帰ったら、自分で作って食べていた、でもそのうちに、こんなのはただのエサだと思った、料理人がエサなんか作って食べていたらダメになると思った、それ以来帰って家で食べるのは止めた」と僕に話した。
ただのエサと料理の違い、、、なんだかわかる気がします、でもこれは何にでも言えると思う。
忙しい毎日の仕事に追われると物事は現実的になってきます、それが何であるかより手早く事が済んでいればそれで良しみたいな、自分がどうしてそれをしてるのか、なんかどうでもよくなって来ます。
仕事はただのお金を儲け目的か、仕事で生きがいを感じたり、目的を達成させるためなのかでは生き方が違うし、考える事も違う、でも世の中の仕事の主流は仕事をこなす生産性重視の考えばかりでそれをなんでするのかまで考えない、考えていたら続けられない、一応、建前ではきれい事をあれこれいうけど、結局これだけやっていくら稼げるか、それが殆ど見たいです。
僕は30代前半辺り、何度もアジアを長く旅していました、旅で作品を撮り集めるのが目的でしたが、旅でこれから自分はどうやって行くべきか、どう考えるべきかを考えていました、世の中は旅とは遊びくらいに軽く思ってる人がとにかく多いです、もちろん旅は誰でも出来る事じゃないのは分かった上で書いています。
旅に出ることは多分みんなが想像してる以上に大きいと思います、旅に出ないと見えてこないこと、旅に出て考えらること、旅に出ないと考えられないこと、日本社会では見えないことが見えることは確かにあります。日本社会はちょっと異常なくらい生産性効率追求、これにあまりにもやられすぎていて、もうこの流れは自力じゃ止められない感じがします。それが旅で感じた大まかな考えです。
彼が話した、料理人である自分が仕事が終わって部屋で一人でエサを作って食べるわけにはいかない、彼が香港で単身赴任して感じたことなんだろうな、、、と思って話を聞いていました、もし彼が家族と暮らす現実的な日本の生活だったら、そう感じただろうか、そう感じなかったかも知れないな、、、、と思いながら僕はその話を聞いていました。
その話のエッセンスは料理人がエサを作って食べるか、食べないか、そこが重要なポイントじゃない気が僕はします、いろいろ考えた末、今はエサを食べているよ、と言ったところで僕は失望はしないし、彼が海外で単身赴任して一人暮らしの中で、あれこれ考えて、そこに目をつけて行動を起こしたことが僕には興味深く感じました。それくらい彼は一人で考えることもあっただろうし、いいものが作りたいからそう考えたんでしょう。

ここまでとはちょっと話がズレるかも知れないけど、先日、魔法植物園と言う写真展をしました、以前なら作品は一枚でもたくさん売りたかった、この人がどういう思いでこれを買おうとしてるのか、そこまで考えなかった、とにかく売れればいいと思ってた、個展全体でいくら売れるかが重要なことだった、例えば売上が40万円としたらそれはなんであろうが40万円は40万円でしかありませんでした。
もちろん断っておくと、数字だけ考えて個展をしてたわけじゃないです、それはひとつの基準ではあったと思います、それが今回は不思議なことに考えに変化がおきました、多分それは作品にある種の願いをかけて作られたからなのかも知れないけど、心境に変化が起きて前みたいな気持ちで作品展を繰り返すのはもうイヤになっていました。
話は変わりここ数年私たちのアトリエはロケーションの良さから広告撮影に使われることがパラパラ増えました、そこで得られる使用料金は数十万円になることもあります、正直な話、その収入ですが、これと言った労働はしていない、せいぜい言うなら近所に迷惑をかけていないかかなり気は使っています、でもただ場所を貸すだけでちょっとしたお金が入りそれには少々戸惑っています。
もちろん、標準的常識から言えば、そういう価値ある場所とは言え、ただの荒れた場所だった環境に目をつけて、買い取って、雑植物を刈って環境の整理して海一望の眺めを作って建物を建てた、現実的な建物ではなく遊び心の入った自分たちのアトリエ、それをやったんだからその収入は真っ当な報酬だ、と言ってくれる人は何人かいます。
多分、同じことを誰かがやったなら僕も同じことを言うと思う、でもそれは始めから人に貸す考えではなく純粋に自分たちへの楽しみとして建てた物だった。その結果がお金を生んだ。

そこでどうしても釈然としないと言うか矛盾を感じてしまうのは時間をかけて手を入れて作品を撮って作品展をやって売れるまでに気が遠くなる手が入っています、わずか5万円を得るのは大変なことです、それに比べアトリエを貸して10万、20万円もらうことにそんなに苦労はないです、ホームページを載せてヒットすればあとは場所を貸すだけでまとまった金が入ります、多少はあれこれ雑務仕事はあるにせよたいした仕事ではないです。
なんだか実感が乏しい手応えの薄い収入、どこかでバブリーな気がします、もともと旅で感じた気分を日本で同じ気分を感じていたい動機で作った環境が、こんなことになるとは、まさかの棚から出たボタ餅です、強いて言えば同じ旅に出るにしても徹底的に旅をすれば、それはもはや遊びではなく結果は出る証明はしたと思います。
アトリエで得られる40万円と作品販売で得られる40万円、どう見ても同じお金に変わりはない40万円です、でも僕の気持ちの中ではどうも同じには思えない気持ちがずーと引きずっています、でも世の中はそんな考えは少しも通用はしない、ただの個人的思いでしかないです、40万円はどこまで行っても40万円に変わりはないです。
今回の個展は数字目的より別の感情がありました、でも売れたらわずか5万円がすごく嬉しい、買ってくれた人とは作品を通して何か繋がった気がしました、でも撮影でアトリエが1日20万円もらえたとしても作品で感じる充実感は感じられません。
アトリエだって自分たちで開拓して自分たちの発想で建てたハズです、でも作品が売れた気持ちと同じにはならない、どうしてなんでしょう?どうやら5万円、40万円、金額の違いはそこでは大して重要じゃなくなったと思います、要はその気持ち次第なんだなと思います、自分がそれをどう感じてそこで何を学ぶのか、それが今後の生き方に、次にどう繋げられるのか、それがあるのか、ないのか、問題はそこにあると思います、そう言う気持ちがなければ40万円はどこまで行ってもただの40万円のままです、そこから少しも離れられないんじゃないかと思います。
もしそうならばエサと料理の違いも気がつかないのかも知れないと思います。

短波ラジオと供に辺境地帯を旅をしてた、 

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うちの奥さんがギャラリーで聴くために「ねぇ、ソニーのラジオ持っていたよね、あれ使ってもいい?」と聞いてきたから、棚の奥に仕舞い込んであったラジオを引っ張り出し久しぶりにソニーの短波ラジオを手にした、これを見ていくつか思い出が湧き出した。
今この時勢、地球の裏側に行こうがスマフォとかノートパソコンさえ持っていたら日本からのやり取りはカンタンに出来る、まるで鎌倉から東京にメールする感覚で連絡が取れたり海外との通信は楽になった。
こうなると以前、海外に行った時に感じた、あの地球の裏側まで行った重みがない、僕が初めてイギリスに行った時、日本にコレクトコールで電話で話した時たった3分が5000円したそうだけど今はもうそんな時代じゃない、スカイプならタダで海外まで相手の顔を見ながら話ができる、しかもずーっと話ができる。

昔、バックパッカーで中国、アジアの僻地に住む少数民族の写真を撮り歩いていた時、辺境地に入り込むと自分の周りには旅行者なんか一切いなかった、旅行者にまだ荒らされていない民族を求めて旅してたんだから、当然外国人は自分だけになって一切の情報から遮断される。
一度、中国の僻地にいた時、中国で大きな事件が起きて、それは僕ら外人旅行者にとっても無関心ではいられない事件だった、その時、アメリカ人旅行者たちは短波ラジオでヴォイスオブアメリカをキャッチして、聞き耳立て新しい情報を入手していたのが印象的だった。
またこんなこともあった、アメリカがイラクに最初に攻撃を仕掛けた湾岸戦争の時、ちょうど僕はフィリピンにいた、マニラ市内は厳重なテロ対策の時期で停泊してた宿に出入りする度に毎回厳しい荷物チェックがあった、その時もまだ短波ラジオを持っていなかったから、正確な情報は何も入ってこなかった。
結局フィリピンに2ヶ月くらいいたけど、フィリピン滞在時に戦争は始まってフィリピン滞在時に終わった、街中で売っていた英字新聞で「War is over」と見出しを見て、ああはこれで戦争は終わったのかと終戦情報を得た、それ以来僕は海外の辺境に行くなら短波ラジオは必ず持つようになった。
辺境地帯では今でも短波ラジオは必要かは知らないけど、今はあのころとは事情が大きく変わってモバイル通信が相当僻地まで通じてるから実情はどうなんだろう?なんせまだ電話線が開通していない発展途上国のローカルでも今時は電話線開通する前に携帯電波の方が先に普及するから、僕らの時代の感覚はもう通用しない。
少数民族のテーマを撮って旅して時、それがどんどん泥沼化してついに原始に近い部族を深追いしたことがあった、1回目に行った部族はまだ現代の匂いが感じて、それが物足らなくて、翌年さらに原始的な村を求めた、そこはかつて人食い人種をしてた村だったとガイドから聞いたけど、まあちょっと言葉に言い表せない居心地の悪い気分を抱えながらその村に1ヶ月近く滞在した。
そこは一応はインドネシア領だけど、パプアニューギニアと同じ島で文化的にもニューギニアとほぼ同じと解釈して良いところ、そこで長く滞在するには日本の情報は完全に閉ざされた、あまりにも奥深い辺境に行くと気苦労が絶えない、いるだけでストレスは溜まっていた、そこで数少ない気休めが日本から入るNHKのラジオニッポンと言う短波放送の日本語だった。
日本語から何ヶ月も離れて暮らしたことは過去何度も体験したけど、まともな国ならどってことない、でもさすがにここまで現代文明から離れた村で暮らすと精神的にかなり参った、でもそんな村ですらNHK短波放送は受信できた。
そこで聞けたニュースは国際ニュースと国内ニュース、日々の話題、ドルレートだったけど、それを毎日聞いてるだけで自分と日本が繋がっている気がして心が安らいだ。
ベルリンの壁が崩壊した時も誰かが短波ラジオを持っていて壁が壊された歴史的ニュースを短波ラジオで知った、あと記憶に生々しいのは、中国の山奥にいた時、そこで中国の各都市で民主化要求のデモが各地に飛び火化したことも短波ラジオのニュースで仕入れた、情報ではデモの勢いがどんどん拡大化してる情報をラジオで聞いて危機感を感じてすぐ山から街に降りた。
街で見たのはただならぬデモだった、それを見て、近いうちにえらい騒ぎになるのは必至と判断し急いで中国を出国した、日本に帰国して2〜3日後にあの歴史的な北京の街を人民解放軍戦車が出動した北京天安門事件が始まった。もしあのまま事件勃発後もまだ中国にいたなら少数民族を撮った撮影済みフィルムは出国時に没収されたと思う。