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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

時間の止まった街 上海 

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インドの旅では、はじめはただただ、観光地を転々と旅をしていたけどムンバイ、ゴアあたりから旅の目的と行動がやっと一致し始め、旅に出た目的と悦びを感じ始め旅に充実感を感じ始めた、カルカッタから一旦バンコクに出てミャンマーに立ち寄って香港に入った、目的地は上海、、、、長い間、個人自由観光が叶わなかった社会主義体制の中国が西側との関係を結び始め、自由旅行も少しづつできるようになった時期だった。
中国に行った人たちの情報によれば、長く文化大革命で国内が大混乱状態だったが、革命も終わり、その混乱も落ち着き、自由旅行者たちにも門戸が開き始めた、しかし行ってびっくり、これが本当に隣の国か?と思うほどそこは時間が止まっていた、僕はその話に酷く興味を持った、なんとしてもその時間の止まった中国をこの目で見ておきたい、今行かないと時間の止まった中国はさっと消えて無くなる、、、、それは一刻を争う問題だと切実に感じていた。
その感覚をなんと説明すれば良いんだろう?仮に南米とかアフリカの諸国が時間が止まっていようがたいして興味なんか持たない、それがヨーロッパであろうが同じだけど、これが旧満州とか北朝鮮とか上海になら話は別だ、、、そこに戦前の昭和の日本が重なって見えると思ったから、僕にとっては貴重な風景だと思う、それがこの目で見られるならなんとしてでも見ないわけには行かない、、、と僕は直感した。
香港でヴィザを取ったり、これから真冬の中国に向けて衣類とか旅の準備を香港でした、列車で資本主義圏から社会主義圏へ国境を越えた、生まれて初めて社会主義圏に一歩入った、深圳は(しんせん)今では香港と肩を並べるほど発展した巨大な経済都市になったけどあの当時はまだ古い建物ばかりが並ぶ時間が止まった田舎の街でしかなかった、少なくとも列車車窓から見えた深圳はそうだった。香港がもし隣に存在しなかったら今の深圳はなかっただろう。
深圳をパスして列車で広州に入った、歩くとそこで目にしたのは、香港に比べて圧倒的に貧困さと荒れた様子が目立った、庶民の服の汚れ、人々の垢抜けない顔つき、駅前には地方から職を探しに天秤棒を担いだ人たち、今とは比べ物にならないほど貧しい状態だった、あの当時の中国を見たら、今の発展した中国を誰が予想できただろうか?これまでいろんなところを旅したが、こんなに変貌を遂げた国は他に知らない、親世代が味わった敗戦時の日本から今の姿への変貌ぶりも似たようなものかも知れない。
広州から上海に向けて列車で、たしか2泊3日くらいかけて列車の旅をしてやっと上海に着いた、街をざっーと一回りして やはり驚いた、この姿をどこから表現すれば良いんだろう、、、、まずカメラ目線から語れば、ムンバイは街の雑踏を撮ろうと思った、この街もムンバイに劣らず人が異常に多いには変わりはないが、この街で人の多さを撮っても面白くもない、 この街の狙い目は時間が停滞したものを撮るしかないと僕は思った。
この画像の通り街のいたる場所で車がまだ多く走っていなく自転車ばかりが目立った街だった。これは特に歩行者天国でもなんでもない日常の風景です。

日本を出て本当に良かった、、、、 

ゴアに着いて成り行きから小屋一軒を借りることになった、ゴアとは州の名前で僕らが滞在したのはゴアのアンジュナビーチ、当時のアンジュナビーチはまだひっそりとしていた、特に観光地でもないし、観光客相手の宿とか店もほんとんどなかった、歩いてすぐの場所に一風変わったのんびりしたカフェがあったが、それ以外何もない、することもなくただ毎日海辺の小屋でまったりブラブラ暮らすしかなかった。
カフェと言ったところで日本のような洒落たカフェではなく、海の家のようなモノで、屋根があるだけで、窓もドアーも何もない建物、アンジュナはすべてがこんな調子で物事は適当な感じで時間が流れている浜だった。
これまでそんなゆったりした海辺で長く過ごした経験がまったくなかった僕らにとって、ゆったりと時間が流れる暮らしが新鮮だった、それにインドの旅はもう3ヶ月になろうとしていた、インドを点々と渡り歩く旅にもう疲れ飽きたころだった、ましてムンバイのドヤ街で戦うように写真を撮った後だった、浜辺でのんびりと波音を聞き、ゆったり蕩けた時間の流れはすごく新鮮で1週間なんてあっという間に過ぎた。
小屋のオーナーに結局は滞在延長を3度もお願いしたくらいアンジュナビーチに長居した、街に繰り出して生活に必要な物資を調達したり原付バイクまで借りて生活を楽しんだ、ただし国際免許を持っていなかったから警察の目を盗んで走るしかなかった。仮に見つかったとしても賄賂を払って終わるけど、、、。
バイクで気軽に街まで足を伸ばせた、何度か行ってアクセサリーの材料屋を街の片隅に見つけた、僕はアクセサリーを仕事で作っていた、ビーチでは毎週日曜日にフリーマーケットがある、出店料を払えば参加は誰でも自由、アクセサリーを作って出品することにした、他の日本人はウォークマンとかmade in japan製品を売ってたけど、日本人はそんなものしか売らないと思われるのがイヤだったからアクセサリー売りにこだわった。
調達できたのは真鍮の針金、ラジオペンチ、ビーズ、、、これだけあれば作れる、それ以来、浜の小屋はアクセサリー作り内職工房になった。売り上げはたかが知れていたけど、材料費とその晩のご飯代くらいは何とか稼ぎ出せた、僕らはそこでちょっとしたインドの海辺生活をした、その暮らしの体験が、後々、鎌倉の海前に家を持つきっかけになったけど、まさかそんなことになるとは夢にも思わなかった。もしこのゴアの暮らしを体験していなかったら、その後散々訪ねた、アジアの小さな島暮らしの旅もなかった、出会いとはちょっとしたきっかけの中にある。
ゴアでの浜辺の小屋暮らしは気がつけば一ヶ月間生活をした、日々残業ばかりで、あくせくした暮らしがイヤで日本を出たけど、インドでそこから脱却出来たかと言えば、現実はそうではない、染み付いた習慣は想像していた以上に恐ろしい、、、、インドでも2ヶ月半くらいは忙しい旅を繰り返した、何のために旅に出たのかって思った。
インドの旅で日本人がよく罹る病いが肝炎、日本からの体力は3ヶ月までと言われている、それ以降は自己管理次第で衛生環境と気温の厳しいインドで過酷で無理な旅を続けると疲弊し肝炎に罹りやすくなる、僕らもゴアの浜暮らしはちょうど良い時期だった。
毎日浜辺でザブーン、、、、ザブーン、、、、波音と共にまったり暮らすって、都会で毎日残業に明け暮れた暮らしからやっと解き放たれた、また海を知らない者にとっては、この暮らしは衝撃的な出会いだった、都会生活に疲弊した僕らにはあらためて生き方を一から考え直させられた、思い切って会社を辞めてインドに来て良かった、、、と感じた。

昭和の文化は濃厚な味がする 

僕は多感な時期が昭和だったせいか、物事の考え、価値観、それらは昭和がベースです。
最近は特に昭和文化を意識し、昭和に作れらた物を頻繁に見ている、それらは今に比べると明らかに価値観もハートも人間の解釈が違う、それを今と比較してあの頃は良かったと昔を懐かしむのはナンセンスだけど、あらためて昭和の表現を見ると面白い。
僕がカメラマンになるため上京したころ、当時のクリエーターたちは今よりも多分、知的で社会派の匂いを感じる人がパラパラいた、クリエーターとはそういう知的な人たち、それが普通の知性なんだと思っていた、それを特に意識はしなかったけど、僕らより一つ上の世代の人たちは学生運動が盛んな時期に学生時代を送ったからなのか、、、どうやら社会派思考が自然に身に付いているんだなって思う。
もちろん、昭和を単純に一括りにするのは行けない、戦争前の昭和とバブル経済の昭和ではまったく違う、もちろん僕がここで話しているのは1970年代の昭和の話です、一つの傾向として今より確実に物事に対して、人間関係にして、その関わり方が濃く人との距離が近かったり表現がストレートな気がする。
それはいい意味でもあるし、ある意味では厄介だったり、良くない意味があるんだろうけど、、、それが昭和の一つの共通項じゃないかと僕は思う、例えば中島みゆきの歌詞と歌い方は明らかに今とは違う、こんな世界観は今ではあまり出てこない気がするが、、、僕らが10代から20代にかけてのフォークが流行った、その歌詞を見ると明らかに今とは違う価値観が描かれている。それはただの時代遅れでしかない歌詞もたくさんあるけど、それだけでは片付けられない人間の感覚がそこに見て取れる。
最近金子國義の世界に興味が出て、画集を見たり、自伝を読んでいる、もちろん世代が僕よりも20年くらい先の方だから僕らとは感覚がかなり違う、金子國義さんは家柄が裕福だったせいか、良い物や文化人に若い頃から囲まれて育ったのがよく分かる、でもそれはやはり昭和の裕福な家庭のあり方だと思う、今どきの裕福は多分こんなことはしないだろうな、、、、って思いながら本を読んでる。
金子國義さんの作品には今の時代の表現にはない昭和の匂いがあると思う、それは寺山修司や唐十郎にも通じるような、言葉にはならない昭和独特の匂いや空気があった、今は何て言えば良いのかな、、、、すべてにおいて洗練はされているんだけど、味がないというか、深く愛したり、敬意を感じられないものがやたらに多く、早い話が物足らない物が多いし、彼らの考えも幼稚に思えることがとにかく多い。
僕らが十代の終わりころ日本経済は破竹の勢いで成長した時代だった、わずか5年くらいで収入は倍くらいになったし、中卒者でもそれなりに収入があったから、みんないいクルマを乗り回していた時代だった、経済に勢いがあるというのは、当然、消費が活発だった、洋服ブランドは次々にいろんなデザイナーズブランドが登場し、パルコやマルイがものすごい元気な時代だった、でも今は日本経済は失速し物価は20年くらい止まったまま、世界に出る度、海外物価はいつの間にか日本より高くなったのを感じるが外に出ないとその実感はない。

さて、昭和の時代感覚の話に戻そう、、、、今は昭和にくらべてはるかに洗練された、同時に世の中は高度にシステム化されてにとの感情の入る余地がない程システムは洗練され整備された。でも昭和感覚はすべてがアナログ的でダサかった、システムがまだ未熟だった故に不足分を人の手で補っていたと言うか、、、、まだ人の手が入る余地が至るとこにあったけど、今は何から何までマニュアルの通りにやって下さい、でしかない。
最近you tubeでユーミンが20代前半のまだ初々しかったころのライブを音だけでよく聞く、彼女のまだ若かった、まさに昭和のユーミンのステージの語りが聞けるけど、、、、そこには何とも言えない、まだ幼さすら感じる若さや昭和の感覚が克明に、あからさまにある。正直な話、これを聞くとなんだか、、、、ホッとする。
なんと言えば良いのか、、、、演じる側と見る側、聞く側にダイレクトにコミニュケーションしているような、、、、そこにウソがないような、、、、つまり昭和の表現とは今みたいに洗練された表現ではなく、描く側が思いを率直に語って価値観を共有していたような、、、、今は洗練された箱モノばかりに支配され肝心な中身が空っぽが多く、包装紙は外箱ばかり豪勢な中身が空っぽな贈答品を見てるような腹立たしさが感じるが、、、。
要するに僕がここで昭和を盛んに訴えるのは、、、、30年以上も昔の文化を懐かしむ気はないが、、、、今の文化はどうもシステムが洗練されたが故に、ウソで誤魔化すノウハウも洗練されたものになった、やはり昭和にしかなかった素朴さとストレートさを昭和の表現からもっと発見したい、僕の表現は今風よりももっと昭和風になっても良いなって僕は思った。

ムンバイからゴアに移動し、やっと旅は充実感を感じ始めた 

自然発酵する写真

初めてカメラを持ったのは中学生の時に蒸気機関車を撮って写真を知った、機関車を撮るとは既成の枠の中で機関車をどうやってカッコよく撮るかだけ考えれば良かったけど、僕がこの街で混沌としたインドを撮るのは機関車を撮った時とは撮り方が違った、白紙状態で偶然出会った街をどう表現するのか?狙い視点を一から問われているわけだから機関車をカッコよく撮るのとは違う、使うアタマも神経もすべてが違う、そこをどう攻略するかが問われていた。
人から見たらどっちもたいして変わらないことかも知れないが、始めから多少の思い入れがあって撮ることと、まったく白紙の状態からこれをどう表現するのか、、、ではやはり心構えはまったく違う、少なくとも僕は違うしカンタンに自由にはなれない葛藤があった、機関車がカッコよく撮れたから、写真のすべてが上手く撮れるとは限らない、そこに僕は結構長く苦しんだ、馴染みのない素材は思うように自由になれなかった。
そんな時はカメラを持つことすら気が重くやる気が起こらない、でもカメラマンになるならそこは超えないと話にならない、泣いても笑っても、気が乗らない心を励まして、撮って、撮って、越えるしかない、ひょっとしたらそこが越えられずにカメラマンになりそびれた人だっているかも知れない、一度その壁を越えられたら、その後も壁は存在するが、最初に比べたらやや楽な気がする、僕にとってその壁を越える初めての経験がこの街だったと後で思った。
撮って行くうちにうっすら気がついたのは、ドヤ街をドヤ街として撮るんではなくカッコ良さが撮りたかった、それがこの街を最初に見た時に全く感じられずその街を撮ろうという気さえ起こらなかった、家内のたった一言が僕を動かした、でもそれはやって行くうちに気がついた、物事とはどんな条件でも何らかの可能性のスキ間はどこかにある、とにかく拒むよりやってみるべきだと徐々に気がついた。

その街には何日くらい滞在しただろうか?多分10日くらいだったかな?それを撮り終えて、今度は船に一晩乗ってゴアに移った、インドがイギリスから独立した後もゴアは長くポルトガル領だった地域、さすがにポルトガル支配が長いだけにいたる所に教会が点在していた、ゴアにはいくつかビーチがあるが僕らが行ったのはアンジュナビーチ、そこはそんなに俗っぽい一般観光地ではないと聞いてそこを選んだ。
確かにひっそりとしていた、観光地らしき土産物屋もなければ宿らしき建物すら見当たらない、浜近くの林の中にポツンと一軒、粗末な海の家みたいな飲食店があった、入って昼ご飯を食べた、宿はどこか聞いたが、宿はこのビーチにはないと言われた、一瞬ボー然としたが、ちょっと離れた先を指差し一軒の小屋を見せた、空いていたら寝泊まりさせてくるよ、オーナーはあの家のロボスだと教えてくれた。
指し示された家に行って「あの家は寝泊まりできるのか?」と聞くと「何ヶ月滞在したい?」と言われた、何日ではなく何ヶ月?には拍子抜けした、「いいえ、、、1週間くらいで良いんですけどっ、、、、」と答えると、少し考えて、まあ良いか、、と言う顔して、「分かった、、、1週間ね、、、OKだ、、、」となって早速建物の中を見せてもらった。
すごい、、、、、言葉が出なかった、本当に見たままただの小屋でしかなかった、床はコンクリートでベットはないし、トイレもシャワーもない、用は浜のどこかでするしかない、シャワーはすぐ近くの井戸で水浴びをする、お世辞にも快適とは言えないが、この浜の環境をからすればこれはこれで良さそうだと思った、と言うか、、、まず海が目と鼻の先にあって、そんな体験は初めてだった、波の音を聞きながら暮らすのも良さそうと思った。
今まで旅のガイドブックに書かれた有名観光地を一個一個ツブすように旅をしていた、自分探しの旅に来ていながら、これじゃあ、ただの貧乏観光旅行と同じじゃないか、、、、と不満に思っていた、でもムンバイでインドに来て初めて写真に集中して何かを撮れたし、ゴアも暮らしも何かありそうなワクワクした気持ちになれたし、、、やっとインドで充実感を感じ始めた。

撮るとは、、、、向き合うことなんだって思った。 

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前々回に書いた通り、ドヤ街をドヤ街として、凄まじさを撮るのは僕はあまり気が進まなかった、初めてここを見た時に、心がさっと動かなかったのはそのせいだった、でもその時は何も撮れずただ悶々としてただけだった、日本では絶対に出会えない状況に出会っておきながら、心が動かないで出会っても何も撮れず、そこを去ったなら相当に困ったものだ、このころはまだアタマで物を考えるくらいしか出来なかったんだ、、、、情けない限りだ、、、。
「出会って出会えず」と言う言葉がある、それは物事に対し出会っていても目が鍛えられていないから、何も感じることができず、何も見ないまま素通りしてしまうことを言う、若い時はこれが実に多くせっかくのチャンスをどれだけ見過ごして来たことか、、、。
ある大御所カメラマンが口癖のように口にした言葉で「モノが見えていないんだよな、、、、」最初この言葉を聞いた時、その意味があまりピンと来なかったけど、モノが見える、見えない、とはこれを指すんだと思う。

街を撮りながら、徘徊しながら、街と戦いながら、僕はさまざまな雑念も含めごった煮のように毎日写真を撮るについて考えに明け暮れた、思うようにスマートに撮れない、そんな自分に向き合った、これをどう解釈して撮れば良いのか悩み考えた、ただ撮れば良いってものじゃない、、、、、とは言え考えたって仕方がないことも多い、でもここはしっかり考えて撮らなきゃならない場面だ、、、、毎日カメラと共にいろんなことを考えた。
そう思うと日本の日常って何も考えていないって思った、ここで考えたのは、何を考えなきゃならないのか、でも一方でこれは考えてはダメだ、、、、その分別はすご〜く重要なんだって考えた、ここは考えなきゃならない、ここは考えず直感任せにした方が良い、そんなことをあれこれ考えたり、直感に頼ったり、、、、、毎日撮っては考えを繰り返した。いずれにしても日本ではこんなことは絶対に絶対にない。
例えば、この建物に然り、、、、、これを見た時、こんな廃墟同然の建物にも人は平然と何食わぬ顔して暮らしている、難民が暮らしているんではない、もちろん富裕層でもない、そんな最低層ではないと思う、日本の感覚からすればここで暮らせる感覚が異常だろうけど、ここでは異常ではない。
撮りながら思った、異常って一体何なんだ、、、、日本が異常なのか?ここが異常なのか?これを見てどう捉えるか、そこが問われている、ただの貧しい暮らしの街と受取るか、狂った街だと思うか、おもしろそうな街だと受け取るか、その考案を白紙から考えることを問われている気がした、今になって、少なくとも僕は建物の中に入って見るべきだった、それくらいの好奇心があっても良かったのに、、、、。
もちろんえらい目に遭うかも知れない、でもただカメラで撮る前に、もっと踏み込んでも良かったなって思った。この街でカメラを持って歩き回ったおかげで日本では考えられないことを考える機会をもらった。もしインドでこれをやっていなかったら僕は何も考えられない思考になっていたような気がする。
要するに撮るって行為はただ良い写真だけを求めるんではなく、出会ったことに向き合うことなんだ。