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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

取り組み姿勢がすべてです 

数年前は立派なギャラリーを定期的に借りて精力的に個展活動をしていた、そのおかげでコマーシャルフォト(広告写真の雑誌)に特集を組んでもらったり、写真学校でトークしたり、おかげで写真を学ぶ人たちと接することが多くあってワークショップを定期的に開いて写真を教えていた。
でも最近やっていない、もうやらないと決めたわけでもないけど、多分今後定期はもうやらないだろうと思う。
そこで気がついたのは、写真はすぐ上手くなれるタイプと、いくらやっても上手くなれなれないタイプにきれいに分かれるんじゃないかって思う、その多くは上手くなれない人が圧倒的に多いって事実に気がついた、さっと上手くなるヤツは希中の稀的な存在だ。
それが結局才能の違いなんだと言ってしまえば、それで終わりかも知れないが、現実は、才能とかあれこれを語る以前の問題だと思う、以前は、ちょっと背中を押して、きっかけさえ作ってあげたら、ある程度のセンスは必要だけど、誰だってそこそこはすぐ撮れるって結構マジメに思っていた、今はそんな考えはもうしなくなった、問題意識が低ければいくらこっちがどんなに手出ししたところで、こればかりはどうにもならない。
これは写真だけに限った話ではない、生き方全体、何にでも通じる話じゃないかと思う、つまり結果が出せる人と、結果は出せない人、そこにはっきりと違いを感じた、結果が出せる人は、まず問題意識がまったく違うし捉え方も違う、ポイントも心得ている、世の中ではそれを「センスがある、センスがない」って言ったって思う、つまりセンスの正体は心の問題です、目の付け所が人とは違う、その根本はそれに対する問題意識の違いだと僕は思う。
そのセンスさえあれば、敢えて人から一々教えられなくたって、自分で勝手に考え自分の感性で捉え結果を出す、センスがなければいくら、何を教えたところで身に付かない、何かを教えたところで心に止まらないから結果も出ない、この考えは少し結論づけすぎかも知れないが、僕はそう思う、、、、。

話は変わるけど、僕は子供のころ、学校が合わない子だった、当然成績は良くなかった、でもNHKテレビでフランス語を自分から勉強するくらいだから心底から勉強嫌いではない、今だって毎日英語勉強をしてる。
でも学校の勉強はいくらもがいても馴染めなかった、でも家族はみな学業優秀だった、僕だけがダメだった、先生の話がすごく退屈だった、退屈は人の2〜3倍、忍耐力がない子だった、これは多分みんなには想像できないくらい、僕にとって辛いことだった、だって毎日、学校にダメな自分を味わいに行くようなものだから楽しくないに決まってる。
僕は学校に限らず苦手意識をいくつか持ってる、パソコンやスマフォの思考感覚もなかなか馴染めない、映画だって退屈なシーンがあれば話について行けず脱落するし、本にしても退屈なページが多ければ途中で脱落する、脱落する確率は間違いなく人より多いと思う。これは脳の構造問題で、こればかりはどんなに逆立ちしてもどうにもならなかった、でも救いもちゃんとある、自分の興味とか関心とか入り口さえ見つけたらもうシメたもので人の2〜3倍の集中力を持っている。
僕は中学から高校にかけては蒸気機関車の写真撮影にハマっていた、それは今見ても驚くほど高い水準で撮っていた、中高校生が撮るような写真ではなく、その完成度、その攻略意識はズバ抜けて高いものを始めから持っていた、もちろん人生経験とかでレベルの差はあるにしても、基本的な攻略意識は大人も中学生も対して違いなんかないって僕は思う、その世代をを甘く見たらダメだと思う。
なんでそうなのか?と言えば答えは簡単だ、学校が退屈で自分の居場所がない子だった、それが機関車の写真を撮ったら、カッコよく撮れた、鉄道雑誌写真に負けないレベルまで行っていた、時にはそれ以上いいのが撮れることもあった、写真を撮ることの問題意識は半端じゃない意識レベルを持っていたと思う。
それは一つには学校の結果悪さも手伝って、自分だってこんなことが出来る、その自己証明が欲しかったから必死だったとも言える、それは多分野球とかスポーツにも言えるんじゃないかな?勉強が苦手な分、その反動でスポーツに全神経が行く。改めてここで言いたいのは、要はどれだけ、それに対しての高い意識を持っているのか、その違いでしかない、僕は写真に関する優劣差はたったこれだけじゃないかって思っている。
だから、写真に関しては人並みに趣味として上手くなりたいとなんとなく思ってる人と僕らのように、攻略意識を持ってやってる人との間には大変な違いがあるがそれを目でハッキリ見ることはできない、強い必然と才能があれば、自然に興味は湧いて自分から切り開くし、その必然がなければ縁はないし、つまり才能があるから開花するではなくて強い必然とセンスがあれば開花する、それを才能と呼ぶ。だから、逆説的に、学校環境とは勉強嫌いな子にとっても重要な才能開花の場なのかも知れない、、、、。

しつけとは、、、、 

最近、フェイスブックの友人がFBで躾の是非について書いていた、その中身は、昔は親から叱られたり、躾(しつけ)されていた子が多かった、躾を通してある程度は叱られることに慣れる、打たれ慣れしているが、躾がないまま大人になった子は、ちょっとで切れやすい、反発したりが多いと思う、みなさんこれに関してどう思うか?そんなようなことが書かれてあった。
まあたしかにその通りだし、そこには異論はないんだけど、難しい問題だなって思った、躾ければいいって気もしないし、躾をすれば良いって考え方は、少し考え直すとかもっと慎重になってもいいんでは?って思う。
書き込みに僕は「これはもう時代感覚が昔と今では違う、昔のやり方、考えをそのまま今に当てはめても時代背景も違うと思う」そんな内容を書いた、それより厳密に言えば「しつけ」する、しないの是非論ってちょっとおかしな気さえする、しないよりはした方がいいけど、躾のやり方自体が方がよほど問題の気がする、ほとんどの大人にしっかりした躾ができるのだろうか?躾に対する理念考えがあって躾ができるんだろうか?下手に自分の価値観の範疇で躾をするくらいなら何もしない方がよほどいいんじゃないかと僕は思っている。
実際、僕は小学校のころ、大人にとって手に負えない子だった、普通とは行動パターンが違っていて、実の母親よりも学校の先生とか、兄貴からとか、周りの大人から納得の行かない叱られ方をいっぱいされた気がしてイヤな記憶が僕にはある、躾と称して大人たちからあれは要するに単なる価値観の押し付けだったり抑圧行為だったんじゃないか?って今にして思うしそこを理解していないと躾は良い結果なんかない。
それに親が子育てをしっかりしてたり、親の人格がまともなら、あえて躾なんかしなくたって大人の後ろ姿を見て勝手に学んで自然に躾られて行くものだと僕は思う。

話はすごく飛躍して申し訳ないんだけど時々取り上げる白州正子さんですが、やはり筋の良い家柄に生まれるとはこういうことなんだな、、、って感じる、一言で言えば白州正子さんは育ちが良い、育ちならではの文化教養も素晴らしいし考えも生き方も価値観も普通とは違う、こんな方は素敵なお方は本当にいないしこれこそ名家の育ちだと僕は思った。
幼い頃から筋道のしっかりした能の手ほどきを受け、数年間アメリカの名門大学に留学し、父方も母方も双方のおじいさんが日本海軍大将だから、一般家庭では想像がつかない厳しい躾をされて育ったんじゃないかなって僕は想像する。
それは良いとか、悪いとか、を超えて、すごく良いだろうし、人には言えない嫌なことだってあるだろうし、躾をされるってことはその家のいい意味でも悪い意味でも家の価値観を背負うことだし、一緒に歪んだ価値観も刷り込まれて不要な重荷までも背負わざるを得ないことだと思う、要はその条件で大人になってどう生きていくのかにかかっていると思う、でも名家に生まれなければ絶対に得られない特権だってあるわけだから、僕ならやっぱり羨ましく思うけど、、、、。
まともな躾とはこれを言うのではないだろうか?ちょっと話は飛躍しすぎかな、、、、?

話は一気に俗っぽくなるけど、僕の家庭の場合、父は僕が小学1年生の冬に死んだ、父は当時にしては珍しく戦前から芸大に行った人だから、その世代にしては教養もあったし物事に対する作法だって普通の家庭にはないものだってあったけど、同時にちょっと歪んだ価値観もあるし、それを背負って僕らは大きくなった。
そこで痛感するのが、兄貴と僕の違いです、兄貴は小学校高学年まで父親のしつけとか祖父の期待も背負って大きくなった、僕と違って家の価値観、責任の重圧を背負わされた、でも僕はそんなしつけなんかされる前に父が死んだ、ハッキリ言えばうるさい父親が死んだのでこれ幸いとばかりに、刷り込みも、重圧も責任もまったく無縁で完全に好きに自由にある意味で放ったらかし、自由奔放やりたい放題で育った。
だからこんな人格ができた、これはある意味で良かったけど、ある意味では大変良くない、それに対し兄貴は僕みたいに無責任に自由に受け止めたりができない、当然僕みたいに奔放な性格ではない、でも一度社会人になって大学医学部に入り直し医者になった、これはそうかんたんにはできることじゃないしそんな考えだって普通はできない、これは家系に流れる価値観と躾の賜物だと思う。
とにかく僕と兄貴では育った家は同じでも親から受けた環境がまったく違う、僕は奔放だけど兄貴はそうではない、どっちが良いかなんて問うても仕方がない。
時々僕なんか、親から躾らしい躾なんかないまま育ったて思うけど、その分、無用なスポイルも受けず済んだし、そのおかげで自由奔放に育った、それを思うと周りの人たちは親たちからはずいぶんマイナス刷り込みを受けて育ったんだなって感じることがよくがある。
こんなのは親たちから価値観の刷り込みでしかないって思う時がよくある、何かで読んだ情報だけど、子供の成長期、その人格形成で一番の加害者は、実は親であることが圧倒的に多い、とあったけどそれはすごく分かる話だ。

インドの大女優 シュリデヴィ  

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シュリデヴィ なんて日本では聞いたことがない人ばかりだけど、インドでは大スター的存在でインドの吉永小百合とさえ言われている方です、なんせ彼女が出演すればヒットは確実に飛ばせたらしく通算300本の出演数があったと聞いています。
僕はインド映画を詳しく語れるほど精通していないからこの辺にしますが、昔、30代前半はインドにじっくりハマって旅をしていて、インドは通算3回10ヶ月くらい滞在したから、少なくとも「にわかインドファン」ではないと思います。
インドは知る人ぞ知る世界有数の映画大国です、当時の年間制作数は世界一だったと聞いています、一本一本が低予算で量産されていたから、制作数はあまりあてにはならないとは言え、そもそも大衆娯楽のほとんどない国の数少ない娯楽なのでその圧倒的人気ぶりはわかる気がします。
内容はどれも、むずかしい映画ではなくて誰だって理解ができるような、単純な内容で、歌あり、踊りあり、涙あり、戦いもあって、恋もあって、、、そんな中で美しいヒローインが歌って踊って、、、、、それを見る観客がまたおもしろく、映画のシーンの度に一喜一憂し、一緒になって歌ったり足をバタバタさせたり、怒ってブーイングしたり映画館で騒いだり、、、ちょっと日本にはないことで、それを体感しに行くだけでも楽しい。
まあ内容だって大まかに想像がつくと思いますがシンデレラみたいなもので最後はハッピーエンドでみんなで歌って踊って盛り上がって終わり、、、、みたいな映画が大半です。僕らが旅してたころ大ヒットしていたのがシュリデヴィ主演 の「カルマ」でした、映画の中のシュリデヴィの歌と踊りシーンはもう大変に素晴らかったです、久しぶりにyou tubeを探して見ましたが、凄いですね彼女のエンターテイメントは、、、、、sridevi karma で探せば見られますので是非見てください。

シュリデヴィのパフォーマンスは絶品でした、エロチックで、甘美で、圧倒的なスター性があって、これはこれで日本にはないすごい美学だなって思いました、正直言ってこんなに比べたら AKB46でもなんて比較じゃない気がします、しかも彼女が凄いのはただキレイでエロスだけではなく知性と品格もきちんと備えていたし、大人になってもこれは廃れないだろうなって思っていたら、年を取ったシュリデヴィを見てまさに想像通りの彼女でした。
テレビNETFLIXで「マダムインニューヨーク」という映画で久しぶりにシュリデヴィを見ました、僕らがインドを旅してたころに出会ってあれからなんと30年の年月が経っています、でも相変わらず彼女は美しかったし品を感じます、もちろん年相応でしたが彼女は光っていました。調べたら彼女は結婚して12年間、映画界から遠ざかっていたそうですが、久しぶりに映画出演した主役だったわけです。
内容はニューヨークの姪の結婚式の準備手伝いで1ヶ月早くニューヨークに渡ります、でも彼女は初めてのアメリカ渡航で英語が上手く話せません、そこからはネタバレになるので控えます、インド社会の女性の立場を少し理解していないとこの映画メッセージはしっかり理解しがたいんですがニューヨークでインド人女性が自分の生き方に目覚める話です。
通常のインド映画なら歌あり踊りありの娯楽映画ですが、これはそうではない社会派映画です、これをインドでどう評価されたかは知らないけど、久しぶりのシュリデヴィ映画に僕は嬉しく思いました、この映画はもしシュリデヴィ じゃない人が演じたら話題にならない映画だったかも知れない、シュリデヴィ だからなんとか興行ヒットが取れた気さえします。映画では彼女はもう50歳はとっくに越えていたと思いますが、相変わらずスター性を感じさせる素敵な方だなと思って見ていました。
彼女についてもっと知りたくなって、調べたら、、、、なんと去年のちょうど今頃、2月24日にドバイで亡くなっていた事実を知りました。
生きているうちですが、、、彼女の映画界の功績が称えられインドの勲章授与までされた方でした、ネットで見る限りはもう国葬級の葬儀でした、もし彼女が晩年に政界進出したら間違いなく国会議員になれたと思います、そう言う偉大な方だったけど亡くなってしまい悲しい報告です。

下積み時代の僕のこだわりとその想い出の回想2(有田泰而さんについて) 

今日は有田泰而さんについて書きたいと思います、この方にもし出会えていなかったら僕はその後どうなっていたのか?ってやっぱり思います、人生には何人かそういう人がいますがこの方はその一人なのは間違いと思います、ただ残念ながら僕と有田さんは助手時代は良い関係ではありませんでした、それについてはまた日を改めて後日書きます。
でも有田さんから大きな影響を受けたのは間違いないし、有田さんは日本の広告界に大きな足跡と影響を残した方だと思います、最近ブログに間が開いたのは有田さんについてどう書くべきかずーっと考えていたらこんなに時間がかかってしまった。

さて、助手時代、まだカメラマンになる前、現実の軋轢に葛藤してたころ、、、カメラマンになりたいのははっきりしていたけど、そこに立ちはだかる最大の壁は、本当にカメラマンになれるか、なれないか、だった、巷の話によればカメラマンに無事になれるのは至難な技で、写真学校卒でカメラマンになれるのは何十人に一人いるか、いないか、、、だ、と聞ていた、僕がいた名門スタジオでも、カメラマンになれるヤツはその中で一人出るか、出ないか、と聞いていた。
確率的数字ではそうかも知れないけど、その手の数字はあまり真に受ける気がしなかった、そんな話なんてロクな事がないし、所詮数字でしかない、そんなの信じたところで何のプラスにもならないし、そんな数字より自分の直感を信じたいと思い始めていたころで、この手の話は信じれば信じるほど自分を見失なうのが関の山だ。
要するに僕は確率的には勝ち目のない勝負に出たけど、30人に1人しか椅子は用意されていないって言ったって30人みんな優秀とは限らないし、そんな基準より自分の目で冷静に周りを見渡せば、なれそうなヤツ、なれそうにないヤツなんて見れば分かる気がした、、、、なるヤツは条件がどうであれなるし、なれないヤツはやっぱりなれないし、そこはわりとハッキリしてた、要はそいつのやる気、志次第だと思う。
僕の助手時代は自分がそこで何を学んで、どうやって成長するのか考えなくてはならない、それと同時に自分はカメラマンになれるのかの不安との葛藤の中にでやるべきことを見出さなくてはならない、カメラマンになれなかった多くの仲間たちがなれなかった主な原因は、能力不足だったとは思わない、不安の重圧に写真に集中できなかったからじゃないだろうか?と思う。
その点では僕は自分に能力があったとは思わない、むしろみんなから広告カメラマンは向かないと思われていた、でも自分がしたいことに多分誰よりも執着してたし、みんなより歳を取っていた分だけ、自分にできること、できないことの分別はもう分かっていたから、自分の弱点も心得ていたし、何が何でもなってやる、その集中力はみんなより絶対あった。
多分僕は助手時代に自分を最も鍛えたことは、自分の感覚を深く信頼すること、それを一番大事にする生き方をこの時期に痛みを通して体で覚えた、逆にこの感覚を鍛えないまま大人になったら、僕ならゾッとする、この感覚は何か大事な挑戦の時、決断しなきゃならない時、一番助けになるのは自分の感覚だと思うし、所詮、人の言うこと、世の中の常識なんて肝心な場面では役には立たないことが多いと僕は思っている、この感覚を生まれながら持っているヤツもいるかも知れないが、僕は助手時代に学んだ、それが人生で最も重要な時期だった、そして有田さんに出会えたことも感覚育成に重要なカギだったと思っている。
この時期にほぼ確信したのは、才能がある、能力があるというのは、始めから完成度の高い表現ができることではなく、逆境であっても自分の目標にブレずに集中出来ること、謎を一つ一つ解いて自分の物に出来ること、集中できる環境を作れる能力が生まれながらにしてあること、これが才能なんだと思った。

前置きがすごく長くなったけど、そんな紆余曲折の真っ只中、僕は有田泰而さんの助手についた、名古屋でいろんなカメラマンの門を叩いたけどどこも上手く行かなかった、それに比べたら上出来というか、よくこんな場にたどり着けたと思う。写真学校にも行っていなかった、助手に27歳なんて遅すぎるって散々みんなから言われたけど、そんなのもうどうでもいい話に思えた。
僕は有田さんのところじゃないと見られないことは二つあった、そこはハッキリしていた、一つはトップクラスの広告制作の現場にアシスタントであろうが、どうしても立ち会いたかったこと、もう一つが、今日これから書きたい話題です。
カメラマンになりたいと志した当初はまだ自分はどう言う方向に行くべきなのか、そのため自分は何を学ぶなのか、そこがまだ曖昧な状態だった、でも時間とともに的が絞れ考えは整理されて行った、そこで痛感したのは広告カメラマンには大きく分けて二つのタイプがあると思った。
もちろんキレイに右と左に分別できないけど、物体ではなく感覚が写せるカメラマンとそれが写せない物体を撮ることしか視野にないカメラマンがいた、それが出来ない、それを憧れるだけのカメラマンがほとんどだった、有田さんはそれが出来た、しかもその完成度がとても高かった、それを広告に自由に表現できたカメラマンだった、それは数少ない貴重な存在だったし、そこに助手につけたのはラッキーだったと思った。
広告の実態とはどんなものか話すと、、、、広告とは何を言ったところとどのつまりは芸術活動ではない、商品の宣伝であって商品を告知して販売促進するのが広告の目的です、もちろん広告とは言え、商品に夢を描かなくてはならないから広告だって夢を描く能力を必要だけど、現実問題、そこは難しいところです、決められた範囲で広告を作るとは、予定通り、計画通りに予算内に作らなくてはならない、スポンサーさんみんながそこをよく理解しているわけではない、現実問題、その範囲で夢を描くことはとても難しい。
早い話が、仮にそう言う夢を描く能力を必要とされる広告の仕事はあるにはある、でも星の数の広告の中で、そんな広告が一体どれだけあるのか?仮にあったとしてそれに出会えるか?出会う確率はカメラマンになるよりも厳しいのは間違いない、早い話がそれだけでは食べて行けないから広告カメラマンになるとは現実的なカメラマンになるしかない、それが一般の考え方だ、でも僕は少なくとも先に書いた通りそんな確率なんんてアタマから信じない、なりたいヤツがなると信じている。
話を戻そう、有田さんはそんな数少ない広告ができるカメラマンだった、有田さんがそんな広告を撮ると映像はリッチで優雅な空気、時間が一瞬止まったような映像になった、つまり時間を止められるカメラマンだった、でも仮にマジックが使えないカメラマンが同じ広告を撮ったら、映像はどうなっちゃうかはだいたい上がりは想像がつくと思う。
具体的にそこにどんな違いがあって、どんな差が出るのか、、、、、僕は有田さんの助手になってそこが一番見たかった事だった、そういうのはスキルじゃない、カメラマンの世界観の問題なのはもう分かっていた。
CMロケ(動画)にアメリカに行った時、こんな事があった、撮影予定はトータルで5日間だったけど、あまり予定通りとは言えず、スムーズじゃなかった、助手の僕が見ても、何か大事なことが欠けたようなロケだった、有田さんは少しピリピリしていた、でも予定通り撮影を進めなくてはならなかった時のこと、有田さんは予定を中断して他ごとに意識を向けた、 、、、当初の予定を変えて夕方の光を選んで別カットを撮ることにこだわった。
監督はその考え行動をあまり良くは受け取ってくれなかった、でも結果的に有田さんの考えで撮影が進んだ、、、有田さんはある時間の光にこだわって撮った、当初はそれがどうなるのか先が見えなかった、でも有田さんはそれを強く推してそうなった。撮影終了して編集して、そのカットが存在を増してそのCMの印象がガラッと変わった。
もし決められた予定で撮るカメラマンにそんな選択はできただろうか、、、、、?
もしあの場で有田さんの選択がもし裏目に出たら、その後の予定を狂わしていたら、有田さんはスポンサーや監督からどう評価されただろうか?でも有田さんはそれが出来た人だった。

またこんなこともあった、ある出版社の仕事だった、ロケではなく日本でメキシコを表現するテーマだった、日本でメキシコを撮るって、どうやって撮るのかすごく疑問だったけど、有田さんはそれを迷うことなくあっさり撮ってしまった、僕は上がったモノを見てあっけに取られた、その時、カメラマンの能力を目の当たりにした。
有田さんが海外に行ったついでに拾い集めたガラクタ類を紙の上に並べだけの写真だった、ひん曲がった錆びたクギ、バスか電車の古びたチケット、錆びたビールのフタ、サンゴのカケラ、乾いた小枝、浜で拾ったビーチグラス、貝殻、そんなガラクタコレクションを有田さんは持っていた、それらが紙の上にばら撒かれ、黄昏の光でアンバーフィルターで撮っただけだったけど、不思議とそこは日本じゃない空気が漂っていた。
こんなことができるカメラマンはそうやたらいるものじゃないし、僕はそれ以来それができるカメラマンになろうと心に誓った、この人の心のフィルターを通すとそんな世界になっちゃうのが不思議だった、でも普通の広告カメラマンが同じものを撮ってもそうはならない、、、その違いは何がそうさせるのか?それが能力なんだと思った、カメラマンの心の中にある世界観がそれを写させるんだと思った。

下積み時代の僕のこだわりとその想い出の回想 

20代の半ばのころ、家具工場で職人修行をしていた、3年の住み込み修行させてもらったけど職人仕事なんてとても自分に合わないと判断し、修行期間が終わって即座にカメラマンの道を探し始めた、僕は名古屋人だったけど、そんな仕事が名古屋にないと思っていたら、名古屋でも広告はあると聞いてはじめは名古屋で下働きの場を探した。
名古屋で、ちょっとした仕事をやってるスタジオ情報を見つけ、片端から電話して履歴書を持って訪ねて行ったけど、どこも同じように口を揃えて言ったのは、26才にもなって写真学校すら行っていない、それでカメラマンに本気でなりたいなら今まで何をしてたんだ?そんなヤツを雇う余裕はない、と断られた。
でも仕事内容を見せてもらったら、正直な話、魅力なんかちっとも感じなくこれがしたいとは思わなかった、多分、相手にすれば業界の現実なんか知らないクセにすごく生意気なヤツだなって思っただろう、、、、。
それで行く場がなくて、これからどうすればいいのか彷徨ってたら知人が紹介したスタジオでなんとか雇ってもらえた、でも半月働いてやっぱり案の定シックリと来なく、自分がしたいのはこんなことじゃないって思っていた時、お世話になっていた会社の社長に話すと「それなら、さっさとやめて荷物まとめて、自分のしたいことを探した方がいいよ、もうこれ以上時間の無駄だし、明日にでも東京に行った方がいいよ」とあっさり言われて、僕はそうした。
そういう気の利いたアドバイスはなかなかできるものじゃない、よく言ってくれたなって思う、人生でなにか探し物をする時に重要なのは、自分がピンと来る気持ちがすごく重要で、気が乗らないけど仕方ないから選ぶ、そういう選択は所詮はそう言うものでしかない、仮に選んだところで上手く行かないのはだいたい分かるし、選ばれた相手だっていい気はしないし、結局誰も幸せにしないことが多い、その頃、学んだ僕の人生訓です。

それで僕は東京に出て、まず都内の有名スタジオで働く場を得た、写真学校を行っていない、そんなこと問題にならなかった、そこはただのスタジオでカメラマンの助手になるところではない、カメラマンが撮影に来てそれに立ち会わせてもらって仕事を手伝う、相手の希望するライトを組んだり、必要な機材を揃えたり、助手代わりをしたり、そうやって現場体験をして仕事を覚える。
そこは僕にしてみれば本当にいい場だった。名古屋ではどこも相手にしてくれなかったけど、東京に来たらすぐこんな理想な場に巡り会えるとはまさか思ってもいなかった、「直感の示す方角に行く」この感覚がどれだけ大事かことを示すのか、」この時に深く知った、雲の上に立つカメラマンの撮影、カッコいい外人モデルや有名タレントの撮影が毎日立ち会えるし、もっぱらチラシ仕事ばかりの名古屋では見られない仕事ばかり、同じ下働きをするにしても、安月給でコキ使われるにしても、ここでコキ使われた方がずーっと幸せだと思った、名古屋では「断ってくれてありがとう」って思った。
それで入ったばかりの新人はスタジオにはまだ入れてもらえない、朝から晩まで入り口に立ってお客さんのクルマの車を移動整理したり、荷物をスタジオに運んだり、行き先の案内をしたり、入り口でお客さんの接待雑役を2〜3ヶ月する、毎日こればかりがイヤでスタジオを辞めた奴もいたけど、僕の家具工場に比べたら、こんなのは天国気分だった。
高級外車で颯爽とやって来るカメラマンを見たり、オシャレな南麻布を行く人たちを見たり、キレイな外人モデルたち相手に英語で冗談交じりで案内をしたり、彼女らの質問に答えたり、これはただの雑役係でも楽しかった、名古屋の地味で退屈な家具工場で働くことにくらべたらずーっと楽しくて天国にいるような毎日だった。
僕の場合、英語やフランス語が少し使えたから、モデルが何か言いたいことがあればすぐ呼ばれた、新人だろうが何だろうが、そういう特技があれば一目置かれたし、僕の扱いは徐々に変わった。やや早めだったけど僕もスタジオに入れるようになった、でもそこで何をして良いのかさっぱりわからず、動けず、怒られっぱなしだったけど、ライトはこうやって組むのか、カメラマンはこうやって撮るんだ、、とか、徐々に覚えて行った。
でも僕は今振り返ると、みんなみたいにライティングについて細々とノートに記録したりしなかった、その違いなんか僕にはよく分からなかったし、、、、そんなことより、もっと変なおかしなところばかり真剣に見ていた、例えばモデルのクセとか感情の起伏とか、扱いやすいモデルとそうじゃないモデル、高そうなモデルと安そうなモデル、その違い、それは顔とかスタイルだけではなく、どうやら生まれ持ったオーラだなって思ってそこばかり観察していた。
それともう一つ観察の関心事はカメラマンの観察だった、日々いろんなカメラマンがスタジオに来る、ダサい車の地味なカメラマンもいれば、ポルシェやベンツで颯爽とやって来るオシャレなカメラマンもいるし、ボロくてダサい車だけど先端のカメラマンもいたり、いろんなのが来て面白かった。
それらのカメラマンが撮影をどう展開していくのか、カメラマンの個性次第でそれがどう違うのか、そこにどう上がりに影響が出るのか、そこで撮られたポラを盗み見していた、スタジオではそんなことばかり目が行ってた、往々にしてオシャレでカッコいいカメラマンはオシャレでスマートな撮影をする、そして旬のタレントを起用した有名広告が多かった。
キラッと、オシャレでカッコよく、モデルも高めで、キレイどころを揃えた撮影の雰囲気は豪華になる、そしてカメラマンもグレードに見合ったカメラマンが撮る、誰がそこに線を引いて決めたわけでもないけど、なぜか自然にそうなる、反対に地味でダサそうなカメラマンは地味でダサいブツ撮りを延々と夜中まで撮っていたり、それらのカメラマンがモデル撮影をするにしてもやっぱり地味でパッとしない撮影になる。
その差って一体何からこうなっちゃうのか?僕は考えた、これは始めから決められた身分とかステータスの違いがそうさせるのか?これはもう写真が上手いとか、下手の問題とはちょっと違う気がし始めた、それを論ずる前にカメラマンが醸し出す雰囲気で、行くべきステータスは決るなって思った。その現実を思うとカメラマンの作るライトの違いなんてもうどうでもいいように僕は思えた、だから細かな細部なんかこれ以上見たって仕方がない、、、、と、あのころ思った。
その時に思ったのは自分が誰か助手に付くならば、カメラマンのスキルや写真の考えを学ぶのも大事かもしれないけど、、、、カメラマンのオーラとか雰囲気の方がよっぽど重要で、魅力を感じるカメラマンの横に付いていたいな、、、、って思った。そう言うカメラマンはどんな価値観で、どんな生き方で、どんな経緯でそうなれたのか、そこが一番知りたいなって思った、それさえ知ればスキルなんてもうどうでもいいことに思えた、でも結果的にそう言うカッコいいカメラマンの助手になるのはすごく難関なのは分かっていた、僕ではそれはちょっと難しそうな話だって始めから分かっていた。