アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

モノを捉えること 

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多摩美大の入試試験にデッサンがあります、特にメディア芸術科はコンピューター中心の講義ばかりで実際にデッサン力を必要とする授業はほとんどないようだけど美大に入学するにはデッサン力を習得して試験に合格しないと入れない。
僕は写真家だからデッサンなんてしたことがないけど、デッサンを積んだ人の話を聞くとデッサンの意味はもちろん絵を描くことの基礎ではあるんだけど、それだけではなくいろいろと深い意味があるらしい。
話は変わって、写真界では「モノが写ってる」という言葉があります、昔まだ僕が駆け出しだったころ、ある写真家と会話した時、「彼の写真はモノが写ってるよな〜」と口にして、「モノは写ってるってどう言う意味ですか?」と僕が聞き返したら、ちょっと困った顔して、「写ってるってことは、モノがモノとしてしっかり写ってることだ」と答えてもらったけど、僕にはその意味するところが今ひとつわからないままその場は終わった。
それから写真を深めて行くうちにその意味がよくわかるようになった、モノが写る、その意味は「写真に撮られたモノはまるで見る側に語りかけてくるくらい強い存在感を持って写っていること」とでも言えばいいのかな?これはきちんと撮られているから写っているけど、モノをまだしっかり撮ることが分からない人ではそれはカンタンにできないことなわけです。
でもモノや人をきちんと外さないで撮れる人は毎回きちんとモノが写真の中でしっかりした存在感を持って写っているわけです。
これはどうしたらそれができるのか、といえばもちろんこのブログを読んだくらいで、できるわけはないけどカンタンにプロセスを話すと、僕の場合はすることは、どうしたらそれが写真の中でしっかり効果的に写るのか、そのためにはどんな設定とどんなスキルが効果的かを考えます。
まず必要になってくるのは光の扱い方と階調表現です、それでまずモノを撮って自分の考えと現実が一致してるか見ます、もし修正すべき点が見つかれば、修正してまた撮りますが、基本的にはまずただのモノからそれを画像として存在感があるモノ、平面世界の画像のモノに置き換えますが、それは僕にとっては「モノを捉える」という行為です。
モノを捉える、これはやはりスキルも必要ですが、メンタルな領域の画力が必要になってきます、そういう概念が意識の中である程度は学習してそれが日常化していないとまず思うようにできないと思います。
うちでワークショップをするとき、この概念がほとんど知らない人に、この概念を軽く説明して撮影に入りますが、どうも考えると、ほとんどの人はこの概念についてさーっと1時間くらい説明を受けたくらいでは分からないみたいです、未体験の人には難しい話かも知れませんが一通り体験してもらって分かる人も中にはいるので、あまり気にしないでやっています。
冒頭のデッサンの話に戻りますが、デッサンをするとは、描いたものを如何にして存在感のあるデッサン画にできるかが 勝負だし、デッサンとは上手に描くことと同時にモノを捉え物体から絵に置き換える概念の行為なので、多分同じ目的を持ったことなんだと思って見ています。
そう考えると、その後の4年間ではデッサンの延長線の講義はしないとしても、その概念はしっかり身につけてから美大に来て欲しい、そんな意図が見えてきます。
まそこまで突っ込んだことはしなくても、

撮りたいのはビンではなくて光や湿度や質感です、 

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写真を一通りやっていると、イヤでも耳に聞こえるのが、レンズがいい、写りがいい、きれいに撮れるです、これに関して疑う人がいないくらい優れているのが理想の機材です、それが写真には大事なことで一般の常識です。
台湾の侯孝賢監督の画像はお世辞にもきれいな画像とは言い難いものでした、写っていたのは言葉にはい言い表せない色彩と質感でした、なんと言う心にグイグイと突き刺さる映像なんだろう、もういても立っていられない気持ちでした、僕が探していたのはこの質感だ、僕は候監督の映像美に完全にノックアウトされてしまいました。
今日はこれについて話したいと思います、確かに候監督の映画は画像の粗さを狙って表現したのではなく台湾の当時の映像製作技術が低かったからなのかも知れません。でもある部分ではどこかで意図してたこともなんとなく窺えます。
逆に候監督の映像で最新の映像技術を駆使してきれいに撮れたら僕は興味を持つかといえばちょっと疑問です。僕が写真を修行した過程でしたことは、単純なきれいな画像から離れ、その常識から決別し、自分にとってのきれいな絵柄を探すことに結構エネルギーを使いました。アイドルを撮ってるわけではないので世の中の常識的なきれいな絵柄が欲しいんではなく深い質感やトーンがある深みのあるきれいな画像が欲しかったんです。
これが僕が欲しい世界観だったことに侯孝賢監督の映画に出会ってやっと気がつきました。でもたったこんな単純なことですが、今気がついたから言える話なんです、まだそこに気がつく前はこの感覚はもっと霧の向こうのモヤモヤしたもので、常識から離れ自分の美意識を探すことはなかなか勇気と根気のいるものでした。
質感やトーンを描くことに必ずしも描写性能の良い最新レンズが役に立つとは限らないと思います、問題は質感や色彩感覚の表現力です、この概念は文ではうまく説明ができません、ここ挙げたビンですが、普通のガラスビンを普通に撮ればガラスはガラスっぽくつやつやしか写らず、そこに質感やトーンを写さなければ時間とか空気は写らないです。描きたいのは時間の流れ、場の空気、質感です、きれいな鮮明な画像ではそれを損なうばかりで、何も写らないんです。
これはそのために浜で拾ったビンコレクターから借りて撮りました、これくらいツヤツヤ感が磨耗していないとしっとりしたマットな質感は描けません。
どうしたら質感が写るのか、台湾で古いかすれた風景を探し撮って実験しました、やはり新しい今風の建物ではその質感が写らないんです、最近の日本のマンションのような風景は管理されすぎて汚れやシミがない、何から何まできれいすぎ味がなくて陰影が写らないんです。これでは撮る気になれません。
この陰影とか質感が意図したように撮れるようになってから僕の作品はやっと何かを語り始めました、それは人物であろうが、モノであろうが、風景であろうが、光とモノの質感の捉え方のコツが見えてきました。
それは結果的に、茶道の侘び寂びの感性に通じることかもしれません、日本人の美学、陰影礼賛に通じる美学かもしれません。それが何に通じるかは分からないけど、僕はそれが描きたいことはそれです。
台湾で実験した質感表現がその後の僕の表現の中心になりました。

感覚的な世界が撮りたいなら現実的なアタマのスイッチを切れるようになること 

台湾の話 その12(金門島)

25年前に台湾を写真旅行したことを書き始めたら、久しぶりにすっかり忘れていた台湾であれこれ考えたいろんな思いがアタマにフラッシュバックして来たのでついでに台湾の話をさらに書きます。
あの当時は写真を撮るなら旅に出て撮っていました、旅に出ないと写真は思うように楽しんで撮れなかった、それを人に話すと「えっ、どうして?」とよく聞かれたけど、あのころは上手く説明できなかったけど今はどうしてか答えられる。
早い話、最近書いている台湾の旅の体験、それはとても日本では体験できないような濃厚な体験でしたし、そこで見つけたことは計り知れないくらい大きなものでした、逆に自分が住む鎌倉は観光地とは言え僕にとってはただの日常でしかなく、そこで何かを撮るなら、何か面白いことを探すか、何かテーマを決めて仕掛けないと、ただの日常が写るだけで終わることが多いわけです。
実は結構何回も意識して自分の住む環境周辺を撮って歩いたりもしましたが、どう見比べても台湾で撮ったものに比べたら、それらは捨てても構わないような物しか写っていなくて、それは撮るたびに情けないような落胆した思いになったものです。
これは僕だけのことでしょうか?誰しも同じ思いを抱えながら、そうカンタンには旅行に行けないから、身近で撮るしかないからそれをしている、それが実態じゃないのかな?
要するに撮りたくて撮るんではなく、それを言ってたら話が始まらないからそこで撮る、もしそうなら気分が圧倒的に違うから写るものに差が出るのは当然です、もちろんみんなが自由に旅に出られるほど暇じゃないから、休みの日に身近なとこで撮るしかない、でも中には自由なフットワークを持っている人もいて、身近な場所でもちゃんと撮れる人もいるんだから、僕の言い分が必ずしも誰にも当て嵌まる話じゃないのかも知れない、とにかく僕は撮る対象物には融通が利かなかったと思う。
でもこのことは結構自分なりに悩んだし苦しみました。どうして外に出ないと写真が撮れないのか?これは大きな問題意識として心の中に横たわっていましたが、そのおかげでいろんなモヤモヤした不明点が明らかになりました。
はっきりしたことは、いい写真を撮るとは、スキルばかりではどうにもならず、いい写真が撮れる時の心の状態がしっかり把握できていること、そこにどうスキルを加味したらいいのかバランスがしっかりと読めること。
それと同時にこんなこともはっきりしました。それはアタマの中の思考構造として、撮る物を探す時、その思考回路はひとつじゃないことに気がつきました、現実的な思考回路と感覚的な思考回路、この二つの回路の共同作業だったことに気がつきました。
現実的な思考は現実的な判断をしますが、感覚的な役割はまったくできません、むしろ感覚を邪魔をします、現実的な思考は現実的ですから、どうしたらそれがより効果的に有利にことが運ぶか考えるのが得意です、それに対して感覚思考はそんなことはまったく考えられません、ただ何かを感じることしかできないんです。
でも微妙なちょっとしたニュアンスの違いを感じ取ったり、もっとここをこうしたらもっと美しくなるだろうとか、それをイメージすることはできます、完全に役割が違います、その役割の違いを手に取るように掴めないことには、自分の感じてる世界を引き出して表現することができないわけです。
それで話は元に戻ります、台湾を旅しているとやはり旅ですから、勝手に感性がビンビン開いて放っていても、あれこれと目に飛び込んできたり感受性が高まっていますから、感覚と現実思考はいいバランス状態にいます。つまり意識しないでも感覚的になってしまいます。
ところが、これが日本の日常生活に戻ると、もう旅で感じていた官能的な感性はどこかに消えてしまい、何かを撮ろうとしても、無意識に現実思考が感覚の座を奪って主導権を握って撮ろうとします、これには困ったものですが普通にあることです、始めは感覚で撮っていたつもりが、知らないうちに現実思考が主導権を奪って感覚はどこかに隅に追いやってしまい消えていた。
これは笑えない話ですが、実はみんな誰しもこれを無意識に当たり前にやってるんです。このからくりから自由な人なんてそうやたらにいないと思います、つまり感覚と現実思考、同じ意識でありながらこの違いが見分けられないからこうなってしまうんです。
僕らにできることは、まずこの二つの意識を自覚して、いよいよ感覚が出番の時には感覚に集中できるようにすること、 現実思考には出しゃばらせないようにコンセントを抜くしか手はないんです。そのことに気がついて、それは自主的にできるようになってから日本でやっと写真が撮れるようになりました。

そこで初めて色彩を意識し始めた。 

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僕は台湾の写真を撮るまでほとんど作品はモノクロがメインだった、特にカラーをまったく撮らなかったわけではないけど、意識的なカラー表現ではない、やはりカラーで撮るなら色彩に意識が行き届いていない表現はつまらないと思う。
色彩表現に本気で目覚めたのが台湾の作品だった、それまではモノクロが多かったせいもあるけど、カラーをどう撮って表現すればいいのかがよくわからなかった、台湾は日本と違ってそこかしこに色がある、ちょっと歩けば赤とか強い色がよく目に飛び込んでくる、中華文化圏では赤は幸福の色でわりと目につく色。
また台湾は日本より南国なだけ植物にも色がある、そう思うと海外から帰国するたびに日本の風景、街には色がないなと思う、ないというより色彩が淡いのが日本なのかも知れないけど、韓国に行った時も色がないところだなと思った。
せっかく色のある台湾を撮るなら色を意識して撮ってみようと思った、カラーフィルムもリアラという色の強いカラーネガフィルムを使って撮った、色表現するのは新しい試みだった、新しい試みは引き出しを一つ増やすし、作品作りではそういう実験をしておかないと撮影の現場で使い慣れた引き出しがあるのは役に立つ。
僕は基本的に絵画的な写真が撮りたいからモノクロで撮るなら、モノトーン階調がしっかりしたものが撮りたい、そうじゃなければ、それはただの白黒写真でしかない、カラーで撮るなら色彩表現されたものが撮りたい、そうじゃなければただの色が付いた写真でしかないと思うから。
あの当時、僕は日本で写真は撮れなかった、特に撮りたいものが日本では見つけられなかったからどうしてもカメラを向ける気になれなかった、その分、海外に旅に出ると環境も気分も変わるし、目に飛び込んでくる物が刺激的で珍しくて、普段の日常的なものとは違うから感性が敏感になって気楽に撮れた。

侯孝賢監督の「悲情城市」で日本人にも有名になった九份の街からもう少し奥に行ったところに金瓜石と言う街がある、九份と同じかつては金鉱山で働く労働者で賑わった街だった、金瓜石を散策していたら中学校に出くわした、名前は時雨中学という、雨が多いところで多分日本語のしぐれ(時雨)から名前を取ったと思う。
山の斜面に位置する学校で、校庭の向こう側に山斜面があるけど霧で霞んで見えなかったからちょっと不思議な風景に感じた、校庭には赤い体操着の女子たちが校庭に散らばっていた、人がそこにいるというよりただの赤の記号に見え思わず撮った。
霞んだ校庭の女子たちはシュールな存在に見えた、これを撮った時、そこまで何か見えていたわけではない、ただなんとなくカメラを向けたけど、これがおもしろい写真になるまではっきり見えていなかった、ふとなんとなく気になって1枚撮っただけでその場は取りあえず去った。
こういう出会いを撮るのは意外にカンタンなことではない、闇雲に撮ったところで仕方がないし、気持ちの集中力はそう長く続かない、やはり何か明確な動機とか何かきっかけがないと思うように撮れないし、撮ったところで何らかの意図がなければつまらない写真しか撮れないと思う。
今思うとここではちょっともったいことをした気がする、もしデジカメだったら撮ったものは必ず開けてしっかり見るから面白そうなものは見逃さない、女子たちの配置を見て時間をかけ納得するまで何枚も撮ったと思う、でもフィルムカメラなら何が写っているかまで分からないから1枚撮ってその場を出た、果たしてどっちが良いのか?
1枚よりは何枚もあれば良いものが上がるのは当然と思いがちだけどどこかでその考えは写真に写る。さて果たしてどっちが良いのか、たった1枚だったから良かったのかもしれない、たくさん撮れていたならもっといいカットがあったかもしれない、たった1枚の儚さがあるからフィルムはいいと主張する人は多い、でも現実問題たくさんあるに越したことはない。
台湾で初めて色を意識して撮ったからこれが撮れたと思う、もし色を意識していなかったらこの場面は見過ごしただけで撮っていなかったと思う。
まあ何れにしてもこんな光景は日本ではあまり見られない、こんな派手な色彩は滅多に出会えないから日本で色彩を意識した作品はむずかしいかもしれない、でも色彩は重要だと僕は思っているし、効果的に使わない手はない、でも色使いの上手な日本人の写真はあまり見たことがない。

これがきっかけで僕は風景写真が変わった、 

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写真を撮ること、やはりそこに感覚的な世界が写っていることは写真愛好家にとって誰もが憧れる実現したいことです。
最近、僕のワークショプを受けた方から『どうしたらもっと直感的に写せるんですか?」と質問をされました。
最近この話題に関連したことを多く書いていますが、僕がかつて経験したことを思い出したのでそれを書いてみます。
「直感的に撮る」この言い方は話が少しややこしくなるので「感覚的に撮る」という言葉を使います。
撮るとは、物を物体として感情やニュアンスを込めないで免許写真みたいに撮る、絵葉書きみたいにただきれいに撮る、感情を込めないで撮ることと個人的な思いニュアンスを込めて撮るのでは上がるものは明らかに違うし意味も違います。受講者さんが僕に聞いたのはニュアンスのある写真はどうしたら上手く効果的に撮れるのか?という問いかけです。

昔、少数民族の作品が世の中になんとか認められ仕事をもらえるようになりました、でも同時に課題も山ほどあって特に風景写真にもっと感覚的な捉え方ができないものかと模索していた時のことです、台湾の映画監督(候孝賢)を雑誌で撮影することになり事前資料として 候監督の映画作品「恋恋風塵」のビデオを何本か見ました。
正直言って見る前は台湾映画なんてナメていました、でも見ていくうちにその映像美に完全にノックアウトされました、一言で言えばすごく叙情的な映像でした、描かれたメンタリティーが非常に日本人に通じる世界観です、どこか小津安二郎を思いこさせるような、こんな叙情的映像世界がこの世にあることが僕にはびっくりしたくらいでした。
でも映画自体は難解でどちらかと言えば退屈な映画でストーリーは掴みづらく、決して喉越しが良い映画とは思わないんですが、映像がとにかく素晴らしく鳥肌が立ちました。
多分、僕がうっすら探していた世界観がそのままそこにあったから僕には衝撃的だったと思います、それから僕は少し時を置いて台湾に渡って候孝賢監督が映画に描いた世界観を僕なりにカメラで探す旅をしました。
やはりその旅は僕の写真にとっては大変に意味のある旅行でした、確かに映画のような叙情的な風景なんてもうそこらで見つけることはできませんでした、台湾全土を歩き回りましたが探しても探しても、自分が思うようにはありませんでした、でもまったくないわけでもなく探せばまだなんとかギリギリ見つかった時代でもありました、それは今から25年くらい前の話です。
探していた風景、例えばこの線路の風景、これは偶然に映画のワンシーンのロケ地でしたが、決してロケ地巡りをする気はありませんでしたが、ここに偶然出会った時の気持ちは、何と書けばいいのでしょう?風景と心の風景がピタッと一致したような、探していたのはこのしっとりした湿気の風景だった、しかもいい感じに雨が降っていてそのしっとりした感じが絶妙な邂逅でした。雨の中、傘をさしながらでしたが、人生で忘れられない至福なひと時でした。
その時、僕は感覚的に撮るということをやっとその場で深く理解したような瞬間でした、撮るということは、いくらもがいたところで心の中に強いイメージが存在しないまま撮るなら、何をしたところでカタチしか写らない、これが写真の絶対法則であることを深く実感した旅でした。
その後も何度も台湾に足を運びましたが10年分くらい密度のある学びだった気がします、もちろん、ただ勢いとかイメージだけで旅をしていたわけではなく、いろんな情報を隈なく探したり雨が多い時期を調べその時期をわざわざ選んで行たりしていましたがその狙いがほぼ狙い通りに当たりました。
その台湾旅行をきっかけに僕は写真を感覚的に自覚的にニュアンス表現する撮り方のタイミングをはっきり知りました、心の中の風景があって撮ればニュアンスが写ります、もし心にニュアンスがなければ探すようにします、そうじゃなければシャッターはあまり押さないと思います、ニュアンスがなければ、被写体はただの物としか見えず、結果はただの物としか写らない。それがはっきり分かった瞬間でした。
もちろん、心のイメ−ジだけで写真すべてが片付く問題でもなくいろんな現実的手法も模索実験もしました、例えば台湾は日本の風景より色があるので色を自覚的に取り込んだ実験もしました、また出会った風景はあまり意図的に整理しすぎない自然な感じで撮る、言うならば、あまり手出しはしないで写り方は風景に任せるみたいな心境でした。
ただ、そういう台湾で出会ったような出会いを撮影の度、期待しても仕方がありません、そんな体験は人生で何度もある話じゃないんです、じゃあそこで何ができるかと言えば、僕がその後にしていることは自分の中に物語を描いています、撮る時はその物語になり切るよう撮るようにします。その物語が自分に対して強い影響力を持っているかです。その物語がどこまで心の中で描けるかは各自の能力次第としか言いようがないです。
別の例で話します、例えば、ワークショップでする題材ですが、テーブルの上にグラスを置いて光を効果的に取り入れて撮ります、グラスを見てさてそれをどう感じるられるかです、ただグラスがテーブルにあるとしか見えなければ、そうしか写らないんです、いくら光を上手く取り込んだところでマジックは生まれません。
しかしそこで光を上手く取り入れて、グラスの中に物語が少しでも見えたとしたら、撮る側はより効果的になるように撮り方が変わるはずです、グラスに水滴がギラギラ滴るようにしたいのか、微かな湿気にしたいのか、強い光にしたいのか、微かな光にしたいのか、自分の中にイメージが出てきます。
人間とは不思議な存在です、心の中であろうが見えたものはやはり写るんです、でも何かが見えなかったらどんなにあがいたところで写らないのです、手法で片がつく問題ではありません、そこが大きな分かれ道です、どんなに光を演出したところでただのグラスとしか見えなければ写るのはただの物体でしかないわけです、夢想家が夢いっぱいの目線でグラスを見たなら、そこに何らかの夢が写るわけです。
つまり、同じ風景、同じ物を見たとしても、ただの物としか見えない人と、何かが見える人では描ける世界が違うわけです、先日書いたモネのウォータールー橋の風景はモネにとっていろんな世界が限りなく見えていたから、わざわざ遠いロンドンまで何度も足を運んだんでしょう。でも一般人にはただの霞んだ河と橋にしか見えないんです。