アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

写真表現をする最初の壁 

時々、アトリエでワークショップを行い写真のイロハをレッスンします。
先日、ある女性に暗室レッスンしてた時のことです、彼女は写真の入り口から先に進めなくて本人なりに困惑してることを話してくれました、でもこれは彼女だけの問題ではありません、これまで僕がレッスンした方はみなそこに立ち止まって先に進めない方がほとんどです、それはみんなの共通の壁として座礁しています。
これは僕自身も記憶にあります、広告カメラマンになる前の下積み時代に自由にモノ事を受け止め、自分の思考で考えたりが出来なかったことが長くありました、これには結構振り回され続けましたが、ある時、ふっと気が付きました、この思考回路のままでどこにも行けないことに感じました、その思考で何かを考えたとしても何も生まれない、表現なんか出来るわけがない、と気がつき、その思考回路を自主的に決別する判断をしました。
でも実際問題、意識の決別はそうカンタンではありません、意識がそうなるのはなるべくしてなったわけです、それを振り払うにはそれ相当なエネルギーを必要とします、そうするためにまず環境を変えるために日本を出て長い旅に出ました、そしてその決別に便乗して作品を一本作りました、それ以後、自分自身でモノを考え、自分の目でモノを見て、自分で判断する生き方をするようにしました。

さて、彼女の話に戻ります、彼女は少し前、写真学校に通い一通りの手ほどきを受けていたので、ある程度は写真を理解していると感じました、でも彼女の写真からは超えられないもどかしさを感じますし、彼女自身からも写真を捉えるきっかけみたいなモノがよく分からないと話してくれました。
でも高いお金を払って写真学校に通ったんです、写真学校はそこをきちんと教えておくべきと言う気もしましたが、これまで写真学校に行った人には過去何十人に会ったけど、その課題には野放しを感じます、これは学校では手出しできないことなのかな?とも思いました。
暗室をしながらその話を聞き、写真をセレクトし作品をもっとパワーアップするためのプリント法として調色のを指南をしました、その会話を通して感じたことですが、超えられない壁について、今日はそれについて少し突っ込んで書きます。
過去ここで何十人にワークショップとして写真を教えましたが、毎回感じたのは、どういう思いで写真が撮りたいのか、自分自身の思いが見えていない、どう捉えたらいいのか、そこが掴めず座礁してる方が殊の外多い、これは本当に難しい壁のようです。
カメラは何も考えなくても、ただシャッターを切れば取り敢えずモノは何とか映ります、でも実はそこが落とし穴なんです、何もしなくても写るからそれ以上突っ込んで考えなくなるんです、人は基本的に怠惰なのか、必然がなければ、敢えてそれ以上突っ込んで考えようとしない、でも写真を本気でやりたいならそこは超えないと前に進めません。
どうしたらそれが捉えられるか、まずは真剣に考えるしか手はないです、そして次に必要なのは、目に見えないカタチのないものを捉える心の洞察力がどうしても必要になってきます。
そしてここで説明したいこととして、写真を撮るにはまず4段階のステップを普通は通ります、本当はもっと複雑かも知れない、また人によって違いがあるかも知れないが大雑把に書いてみました。
まず1、撮るものをイメージをする、2、カメラで実際に撮る、3、撮ったものを自分の目で見てセレクトし検証する、4、色彩、濃度、コントラストを調整してイメージに近づける。
まず一番目ですが、ここがとても重要です、これをどこまで真剣に突き詰められているかが分かれ道と言えるくらいここは重要です。ここが甘くて本番でスイッチが入って結果が出る、もしそういう人が本当にいたとしたら、それは普段から写真に対して無意識になんらかの強い思いがあるとしか言いようがない、僕にはそう思います。
風景写真、女の子を撮る、テーマ性がシンプルな場合はムキになって事前のイメージは必要ないかも知れないです、今僕がここで書こうとしてるのはそうではなくて、もう少し芸術寄りの写真を指しますが、もしそれが撮りたいなら、やはり事前の意識の助走はとても重要です、ここがしっかり熟成していなければ、何かを撮ったとしてもただカタチを撮っただけで終わルことが多いです。
ただカタチを撮っただけの写真とは一体どんな写真か、また中身が写ってる写真とどういう写真か?
最初のカタチだけの写真とは、写真の撮り方をそこそこに理解していればそれ風に外観だけ撮るなら撮れます、でも中身がない写真は目で見える視覚的な外観は捉えていても、心の奥にまで響くメンタルなバイブレーションがまったく写っていないんです。
これは不思議です、それを上手く説明が出来ませんがそうとしか言いようがないことです、それがあるモノ、それがないモノではパッと見た感じではたいした違いがないように見えますが、作品からじわじわ発するパワーは、モノによって天と地ほどの違いがあります、それが本物と偽物の違いです、それは多分視覚的なレベルの話では語れない、ある種のバイブレーションが写真に刷り込まれている話です。
ジワジワした心を揺さぶるバイブレーションがあるかないか、そこが分かれ道です。
自分の感情表現をするとは、自分の感情を写真に置き換えること、それはどんな意識のキーで撮るべきか、撮る前に十分理解しておくべきことです、まるで宿題みたいな言い方ですが、それは楽しむべきことです、そこが楽しめないなら、その時点でまだ良い写真を撮れる状態じゃないです。
つまり写真表現とは自分と自分とのキャッチボールです、自分が自分に投げたボールを自分が反応し、その次すべきことが見えてくる、その繰り返しが、自分とのコミュニケーションであってインスピレーションを引き出す結果に繋がります、逆にこれらは唐突に出るものではなく意識のキャッチボールを散々繰り返した末の結果です、その入り口として第一段階のウォーミングアップはとても重要です。
ここが十分にキャッチボールしていないけど、いい作品を作ろうともし思うならそれは間違いです。

軍産複合体 

まず最初に断っておきたいのは、今日の内容は今の政治を激しく非難してるのではなく、現実の厳しさに無力な者にはなす術もなくただ途方にくれた気持ちで見守るしかない、それが正直なところです。
昔小学校の時、社会の授業で日本は第二次世界大戦で敗戦しその後悔からもう二度と戦争はしない決意の表れとして憲法9条の戦争放棄ができたと聞いた、その内容は日本から戦争を仕掛けない、戦争による紛争解決は選ばない、紛争問題は武力ではなく話し合いで解決することを今後の日本の指針と学校で聞いた。
それを聞いた時、ひねくれ根性からではなく素朴な疑問として感じたんですが、戦争の手前までこじれた国と国の紛争問題、それはもうにっちもさっちも首が回らないとこまで行った両国の壁が戦争を起こさせる事態に、果たして話し合いなんて悠長なやり方が本当に通用するのだろうか?問答無用に相手が攻めて来たらどうやって話し合いで解決するんだろうか?と子供ですら単純に思った。
そもそもそこまで行った時はもう話し合いではラチが開かないから、結果として戦争になるんじゃないかな?誰だって好きで戦争をしてるわけではないし、そんな考えは説得力に欠ける話だな、、、と僕は思った。
これまでの遠い過去から北朝鮮に対して何度も何度も対話による外交努力をたくさんしてきたはずです、ずいぶん昔に北朝鮮が核開発をし始めたんじゃないかと疑惑が持ち上がった時、元アメリカ大統領のカーターが金日成主席がまだ健在の時に会いに行って経済支援をするから核開発は止めて欲しいと平壌まで話し合いに行って歴史的合意まで行ったはずです。
それを北朝鮮は裏でちゃっかり開発を続け約束をあっさり反故にした国です。
さらに韓国の元大統領金大中さんが敵視政策から太陽政策を掲げました、多分見えないこところで北朝鮮に莫大な金銭援助をしたと思いますが、これらはことごとく恩を仇で返すように核開発資金になっただけで終わった、という説もあります、これを見ると話による対話って一体なんなのか?と思います、トランプさんがこれ以上の話し合いは時間のムダだ、これも一理あります、だからと言って北朝鮮は攻撃すべきとまでも思わないけど、これは本当に水と油の話し合いみたいなものですごく厄介で難しい問題だなと思います。
国際秩序というのは、世界各国からなんらかのルール違反した場合、世界各国から相手にされなくなります、そうなった時では一国だけで自活できなくなるから世界の秩序を守って相互関係を維持し、やりたい放題はしない、それによって世界秩序は維持され世界の均衡はなんとか守れる、とこれまで信じてきました。
でも北朝鮮はそれを無視し、約束を破り、越えてはならない一線を越えて、独自の論理を主張し、ミサイルを飛ばしてるように見えます、こんな野蛮な行為を許していたら世界の秩序は乱れるから、この辺で叩く、というのがトランプさんの言い分ですが、それは一理ある気がします、もちろん北朝鮮にはそれなりの言い分はあるんだろう、という気はしますが。

それで今回トランプさんはアジアを訪問しもしもの有事のあり方をいろんな打ち合わせにしに来たと思うんですが、同時に日本と韓国にちゃっかりこんな時じゃないと言えない高額な武器の大量購入の押し付け、日本と韓国からその契約を取ったようなことを朝のニュースで言っていました。
これではアメリカ大統領はまるでアメリカの軍事産業の営業のようです、武器を売ることと車、家電製品を売るのでは取引金額はケタ違いで次元が違います。アメリカは車産業を始めあらゆる生産業はかつてにくらべて空洞化し、その実態はは他国製品に依存してるところがありますが、でもちゃんとアメリカの基幹産業の軍事産業はブレることなく健在です。
聞くとこによれば今アメリカはトランプさんが大統領に就任して以来、軍事産業の株価が勢いよく上昇してるそうです、特に共和党は民主党より軍事産業との関係が強いようです、政治と軍事産業が密になることを「軍産複合体」というそうですが、聞くとこによれば最近の軍事費と言うのは10年前に比べて金額が桁違いに上がってるそうです。これはたまたま北朝鮮問題がそうさせたのか、もしくはトランプさん自体の政策なのか、その実態は分かりませんが、アメリカは軍産複合体の流れを確かに強化してるように感じます。
それに日本もトランプ大統領に追従し大量発注し防衛費を飛躍的に増大化しているようです、敗戦して70年経ったわけですが70年前に掲げた憲法9条、あの憲法の精神とはいったいなんだったのか?と感じます。
それは現実を思えば所詮は紙に書いたたわ事だったのか?と思ってしまいます、かと言ってそうしか選択肢はなかった、むしろこれまでよくやって来たじゃないか?と評価すべきなのか?私たち庶民にはこれをどう受け止めて良いのか分からない。
要するにトランプさんの日本訪問はそんな高邁な政治理念から遠くかけ離れた単なる武器商人としての訪問なのかな?と感じます。そう思うと人間は生きていくためにどこまで愚かな存在にならざるを得ないんだろうか?と思います。

皮のノートと万年筆 

前回も書いたように、今英語学習にハマっています、英語を学ぶことは学習と言えば学習ですが、遊びと言えば遊びです、その境界線は一体なんだろうか?とにかく今の僕には英語学習は単なる遊びです。
やっていて常々思うのは「え、こんなことすら知らなかったのか?」この繰り返し、この歳で(60を超えた)勉強するのは思うようにアタマに入らない、確実に記憶する能力が落ちていることを実感する、若いころはもっとスルスルとアタマに入ってくれていた気がするけど、今は本当にびっくりするくらいアタマに入ってくれない。
でもそんなこと究極を言えばどうだっていいようなこと、やった分の収穫は大事だけど、どうしたら効果的にアタマに入るのか?を難題を攻略するみたいに考えながら勉強するって、これもやってみれば意外におもしろい。

先日、アメリカに行った時、最後の1時間くらいで何か買い物をしようとロスアンゼルス市内のある店に入った、これと言って土産になりそうな買うべきものがなかなか見つからず、結局はステーショナリーコーナー(文具コーナー)に行って皮のノートを何気に2冊、家内と自分用に買った。
海外の文具用品は日本のものとはデザインとか作りがちょっと違ってなかなか素敵で楽しい、それで日本に帰って英語学習用にそのノートを使ったら、、、、ちょっとした異変が起きた。
それはこれまでの人生でちょっと恥ずかしい話だけど、僕はノートを付けるなんて人生でまともにやったことがない、だいたいクチャクチャだった、ノートは最後まで書き潰すより半分も使わないうちにどこかにやってしまう、先生が黒板に何か書くから仕方なく黒板に書かれた内容をノートに書き写すだけだった、後で読み返すとか、自主的に書いたことなんかこれまで一度もない。
ただ自主的にやっていたフランス語学習は文字をフランス語っぽく縦文字風に書くのがカッコいいと思いながら書いていた記憶がある、でもやはりフランス語学習も遊びで自分で勝手にやっていた、やはり語学以外の勉強はマジメにやらなかった。

英語勉強でノートにメモするのは重要なこと、ネットで勉強はその勉強内容をノートにしっかり書き留めて、外出時、電車に乗った時、どこかで待ち合わせのヒマな時間潰しの時はまずノートを開いて単語を覚える、言い回しを一つでも覚える、とにかく覚えることは山ほどあるけど、なかなかスラスラ覚えないからヒマな時は必ず英語ノートを開いて復習する、しかしこれは楽しみ。
英語学習を楽しみにするにはやり方がある、アタマに叩き込む考えは捨てるべき、話すことをイメージしながら英語で何か構築していく感覚でやる、単語の吸収は必要な素材を調達するようにイメージを持って学んでいくと結構効率が上がる。アタマにただ押し込むのは苦痛で拷問同然、こんなのは僕ならいくらやっても少しも覚えない。
実家の名古屋に用で行く時は新幹線に乗らないで缶ビールと辞書と英語のテキスト持参で各駅停車に乗る、英語のマンガを時間をかけ読みながら名古屋までビール片手に英語で時間を潰す、これは何かに急かされてやってるんではない、自分が楽しいし、充実感を感じるからやってるだけの話、歳を取ったから覚えないって思っていたけど、やり方次第で次々にきちんと確実に吸収することも分かった、でも日常生活で英語は使わないからすぐ忘れる、そしてまた覚える、そこでノートはますます重要になってアメリカで買ったノートを最近使い始めた。
使って実感したのは日本の普通のコクヨのノートとは違って紙質がまったく違うことに気がついた、ツルツルしていなくややザラザラしていて紙がややふわりと厚みがあって文字を書く感触が日本のノートよりいい感じなのが結構気に入った、そんなこと今まで人生で一度も考えたことがなかったけど、いい感じのノートを手にしたから万年筆で書きたくなった。
ペンの書き味を見たいし初心者だし手始めに2本オークションで試しに買った。
パイロットとセイラー、特に予算を気にしたんではない、どうせ今後あれこれ何本も買うだろう、そのうちに1本何万円の万年筆も買いそうなのは分かり切ってる、まず手軽なものから始め1本目は線は中くらいで書き味は滑らか、もう1本は細字で書き味はどこか引っかかる、筆圧をかけないと掠れる感触で書き味は悪い、ペン先は両方とも金ペン、でも案外新品で値段が高い方が書きにくかった、最初に買った安い中古ペンの方が断然書きやすかった。値段よりもペンとの出会いが重要なのがなんとなく分かった。
書きやすいペンを手にして文字を書くことの喜びを感じた、ここ最近パソコンで打ち込むばかりで手で文字を書く習慣から遠ざかっていた、書くにしても万年筆なんか持っていなかった、もっぱらボールペンばかり、もう何十年も万年筆で文字など書いたことがない。でも良い紙質のノートと万年筆があってノートを大事にしながら何かを勉強するのは結構幸せな気分、こんな気持ちはやはり若いころじゃなく歳を取ったから味わえる気持ちなのか?と思う。
とにかく、何かを勉強するってことは文化を嗜むことなんだ、、、、と一人で悦に入ってる。

その先の英語学習とは 

その先の英語学習について。
語学習得というのは英語環境の中にいれば誰だって話せるようになります、しかし日本語環境で英語を学習するなら強い意志が頼りです、やはり日常を自覚的に英語漬けにするしかないでしょう。
日本だろうが学ぶ気さえあって、特に急がなければお金なんかかけなくともネット教材だけでもある程度は学べるはずで、実際ここ2年くらいずーっとネット環境で英語学習をしました。そこでいくつか発見があったので報告がてら参考に書きたいと思います。
まず僕はイギリス生活経験が少しあるので英語は最低限の意思を伝えるくらいならあまり問題なく話せます、しかし映画、テレビの会話はほとんど分からないし、文字の英語もよく分からないです。でも生活体験があるので、英語をどう扱うかは体験を通してなんとなく知ってるし、会話経験があるのは本当に助かります。
でも基本的には英語のボキャブラリー量が多くなくて最低意思は伝えられるのは何か辻褄が合わないかも知れないけど本当にだいたい困らず伝えられます、でも聞き取れないことは多い、つまり日常の意思を伝える程度ならそんなに高度な語学力がなくてもだいたいの事は足りるということなのかも知れません。
裏を返せば、わずかな語学力でだいたいことが足りる、それは「なんとか通じれば良い」という雑な考えで今日まで来ました、でもそれではやはり限界を感じるし、相手の話しがよく分からないまま終わることが多く、そこに問題意識を感じ、再び始めましたが、でももう少し早くから始めておけばよかったな、、、、、と言う思いもあります。
”英語が話せる”とは、これは話せない人にはピンと来ない想像がつかないくらい幅がとても広いです、まるきり話せない人からすれば、カンタンな会話ができる、それがわずかであろうが立派に話せる人になってしまうけど、英語を普通に話せる人からすれば、それは”ほとんど話せない人”も同然です、やはりある程度、話せるとはネイティブの人と普通にやり取りがきちんとできるレベルを指すのかなと思います。

世の中には、この英会話教材を毎日聞き流すだけで会話が流暢に話せるようになる、を売り文句で販売してる教材があります、時どき人から”あれどう思う?”と聞かれることがあります、それについては先に書いた通り、話せるの定義が幅がとても広く、どこから話せることで、話せないとはどこまでを言うのか、そこが大きな分岐点かと思います。
まったく話せない人にとってシンプルな初級レベル習得が目的なら、どんな教材であろうが毎日聞き流せば必ず流暢に話せるようになります、でもそれは本当に単純な会話レベルだと思います。例えば、私はハラが減った、いま何時ですか?ここにカップは何個ありますか?あなたはペンを持っていますか?これはいくらですか?私は嬉しい、私は公園に行きます、そこから少し踏み込んで、私は彼女を愛してるが彼女は私に興味がない、私は来週アメリカに1週間行きます、そして帰りハワイのビーチで休養を取ります。私は彼と結婚したいけど彼は他の女性が好きです。
この程度なら聞き流しで覚えるのはそう難しいことじゃない、義務教育の基礎もありますから、単純に聞き流しでも覚えられるんじゃないかと思います、やる気次第でシンプルな文法の習得でも聞き流しでもなんとか身に付くんじゃないかと思います、でも英語学習の壁は次からが本当の壁です、そこをどう乗り越えられるのかが本当の英語学習じゃないかと思います。
例えば、受動態、関係代名詞、過去、経験、完了、過去進行、これらは基本文法を理解しないで聞き流しに頼る方が法則は曖昧なままで返って難しくさせる気がします、やはりきちんと法則と原理を理解して、動詞の現在、過去、過去分詞、をきちんと覚えないとスムーズに使いこなせません。もちろん少々の間違いなら通じそうですが、なんとか通じるからそれでいいわけじゃない。
また大まかに英単語には二つの種類あります、一つは意味が単純な単語です、例えば固有名詞がそうです、そしてもう一つは状況によって複雑に意味が変わる単語です、例えばasとかeven、これは単語単体には意味がほとんどなく組み合わせ方で中身が変わります、副詞としてのas 前置詞としてのas 接続詞としてのas,代名詞としてのasでは意味が変わります、中級に進むならそこは理解していないと前には進まない。
またwould should must may might , これも勉強しないと聞き流しでは歯が立たない単語でしょう。丸暗記ならその場は使えますが応用は利きません。また、次に厄介なのは句動詞です、例えばmakeこれはいろんな顔を持っています、make up make out make away make overで意味が変わります、基本は”作る”ですが、〜を決める、〜させる、間に合う、進む、稼ぐ、後の単語次第で意味は変わります、put passは特に変わりが激しく個々の単語に向き合って覚えるしかない。
また英語には”多分”に当たる単語はいくつかあります、maybe probably perhaps presumablyなど色々あります、これをどう使い分けられるか、意味はほぼ同じなのか、違うのか、使い方によってニュアンスが変わるのか、使い方次第ではおかしな言葉になるのか、これは会話を数こなすしか道はないです。
要するに初級段階の勉強と中級では勉強法も覚えるべき単語の意味の密度も変わります、耳で聞き流すだけの勉強は初歩レベルでは有効だけど、ある程度、進めばどうしても複雑な意味を持つ単語をきちんと向き合わない限り先に進めないと思います。

とりあえず絵でも掛けておこう 

先日、アメリカに仕事で行ってきました。
アメリカに限らず欧米の宿に泊まるたびに感じる事です、海外の宿は日本の宿に比べて部屋、通路、ロビー、いろんな場所に絵が掛けてあります、その頻度は日本とは比べものにならないくらい多く、逆に日本のホテルでさりげなく絵をそこらに掛けている光景はあまり見ないです。
それは絵に対する文化の違いなのかなと思ってこれまでは見ていました、しかし掛けられている絵をよく見るとあまり褒められないレベルの絵ばかり目にします、そしてどこもだいたい似たようなレベルです、まるでホテル御用達の絵画があるのかな?と思うくらいどこか共通したものを感じます。
でもそれは素人目には十分洒落たインテリアに映るんだろうけど、ちょっとマジな目で突っ込んで絵画鑑賞として見るにはなんとも言えない見るに耐えないようなつまらない作品ばかりです、まるでこの手の絵はここが落とし所を示し合わせたかのように世界観が妙に一致しています、しかし日本ではその手の絵をホテルやオフィスであまり見かけない。
日本では絵とは高貴な芸術品という考えがあるのか?安っぽい絵をホテルに掛ける習慣は欧米にくらべてない、もし掛けてあるなら、安っぽいと言うより、もっと趣味の悪い物が圧倒的に多い気がします。
日本でわりとよく見かけるのは絵より陶器素材のモザイク壁画を壁いっぱいに張り詰めたものが多く見かけますが、どこもあまり趣味が良いとは言えない作品ばかりな気がしますが、でも趣味が悪かろうが作家の気迫は伝わってきます、でも海外のその手の絵はどこか中身がスカスカ、作家の気持ちがまるで見えて来ない、そんなものが多い気がします。
前にこんな話を聞いたことがあります、それを聞いて日本にもそんなことがあったのかと思いました、風景画家が街の風景画を描く時に忘れずにしっかり目立つように街の医院の看板とかお金を持っていそうな家を忘れずに描き、後でそこに買ってもう話を聞きました。
絵描きがそういう小賢しい考えをすることにはあまり好感が持てず釈然としません、理想を言えば絵とはそんな考えではなくもっと自己の表現の場であってその考えは芸術家ではなくただの商売人じゃないか、と僕は思って聞いていましたが現実食べて行くにはそうするしか選択肢はない、理想だけでは食べていけませんし。
話を戻しますと、海外のホテルの絵は、パッと見た目には巧妙にそれ風にしっかり描かれていてちょっとした現代美術作品のような空気を醸し出し小洒落ています、それに対し日本でよく見る悪趣味の作品は始めから小洒落てなんかいませんし、どう転んでも現代美術には見えないバタ臭いものが多い。
ホテルの絵はよく見ると、、、気持ちが入っていないことを感じます、1枚1枚に愛着とか拘りを感じません、適当に手抜きしながら次々に量産してるのがなんとなく想像できます。つまりやや洗練されたフェイクとでも言えば良いのでしょうか?
それはつまり始めから作品ではなく、どこかで見た絵から著作権に引っかからない程度にコピーして量産して描いているのかも知れません、それは始めからそういう意図で作られています、作家はそれを何枚も何枚も量産して契約画商にまとめて引き取ってもらっている、そんなやり取りまで薄々浮かんできます。
僕の考えは、古くさいかも知れませんが、やはり絵とは神聖なものであるべきという考えです、作家の価値観とか生き方とか芸術家の視線が感じられるもの、突き抜けた気持ち、晴れ晴れした気持ち、広がる夢、作家の苦しみや葛藤までも伝わってくる、現実世界からどこか違う世界に連れて行ってくれる力を持った物であるべき、見えない世界を見せてくれるもの、それを表現したい意欲が描かれているもの、それが作品だとこれまで思ってきました。
ホテルでそれらの絵を見た時、そういう気持ちはまったくないただ空白の壁を埋めたものでしかない作品に感じました、そこで感じた気持ちを帰国後にブログに書こうと絵を写真に撮ろうと思いましたが、やはり思いとどまりました、人の人生を写真に撮ってまで見世物にする行為、自分はそこまでなりたくないと思い踏みとどまりました。
ただここで書きたいのは作品を貶したいんではなく海外ではそういう絵でもきちんと居場所と役割文化があることを感じました、逆にこれは日本にはない文化なんでしょうか、日本は壁に絵を掛ける習慣がないのではなく「とりあえず絵でも掛けておこう」この感覚が欧米に比べて無いのかも知れません、逆に彼らは空白な場所は質の良し悪しとは別に絵でもかけて埋めておきたい考えなんだなと思いました。