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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

今年のGWアトリエ開放は中止になりました。 

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すいません、今年は諸々の事情により恒例化したアトリエカフェ開放は行いませんのでよろしくお願いします。

軽佻浮薄な時代 

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https://news.yahoo.co.jp/feature/1293
上のURLはジブリの鈴木プロデューサーのインタビュー記事です、鈴木さんは平成とは軽佻浮薄な時代だったと語っています、とても興味深いインタビューなので興味があれば是非読んでほしいと思います。
いよいよ平成もあとわずかで終わりです、でも今回の年号移行は昭和の終焉と違って天皇崩御がなく空気が暗くなくて気が楽でいいですね、あの時はテレビ番組はストップし国中が黒縁に覆われた感じでなんだか、ジメジメ雨が降るようで気が重かった記憶があります。
さて、この鈴木さんのインタビューを読んで平成について考えると、そこにまつわるいろんなモヤモヤした気持ちとか、不明瞭なことが一気にクリアーになった気がしました、どうして僕が平成が好きになれなかったのか、そこがはっきりしたし不明瞭だったことが一つの言葉でくくれる気がしました。ハッキリ言えば平成は昭和に比べて鈴木さんが言うように軽佻浮薄を助長させた時代だったと思う。
でもだから昭和が良かったとまでは言わない、それが軽かろうが重要なことはたくさんありました、例えば今時代の真っ只中のSNS文化はあらゆる軽薄さを助長し、僕個人的には好きになれないけど僕だってこうしてブログを書いている訳ですし平成の軽薄さがもたらした文化の恩恵と利益はやはり侮れないです、軽薄だと言ってあっさり片付けてしまう、その思考そのものだって軽薄なのかも知れないです。
さてどこから話を進めれば良いのか、、、、昭和の時代をカンタンに例えれば、蒸気機関車のような社会だった気がします、その原理で物事は動いていたような気がします、蒸気機関車がこの世から一斉に消える時、僕はそれを見届けていましたが、どうしてそれが消えるのか理解に苦しんだけど、今思えば消えて当然の動力原理でした。
その動力原理とは石炭で湯を沸かし蒸気圧でピストンを動かしその動力で機関車は走る、今思えば信じられない話です、そもそも非効率な原理で、機関車に石炭と水をいっぱい積んで、それを人がスコップでせっせと汗しながら石炭を釜に放り投げながら走る恐ろしく原始的な機関車で、それは消えて当然な非効率な動力です。
昔は便利でまともなモノがない時代でした、何でもかんでも人の手や動物の力で作業をやっていた時代でした、重たい荷を人が担いだり、木をノコギリで切ったり、車や機械や家電品の修理、これらはみんな職人の熟練作業で賄っていました。
何でもかんでも人の手作業で世の中は動いていました、大人になるとはそんな手仕事が一通りできることを意味する時代感覚だった、それがそれまでの物事の感覚でしたが、平成になって、その生産感覚が退化し、体を使って何かを作る、修理する感覚からどんどん遠ざかってしまった。
修理するより買い替えたほうが手っ取り早く、なんだって買えば済む時代になりました、製品の作り手は町工場から大きな工場で大量生産されたものに変わり、そんな大きな工場で働く人は職人ではなくロボットみたいになった、もはや職人が物を作るんではなくシステムが物を作る様になり、人はシステムを管理して物を作る時代に変わった、それは工場だけの話ではなく社会全体がそうなった。
下町から小さな下町工場が消え、職人たちは職を失い、大工はパーツ部品を組み立てるだけの家作りに変わり、手で物を作ることが世の中から消え、いつしか世の中の大人たちは物作りが出来ない大人社会になってしまった。
物が作れなくなったどころか、重たいものは持てない、固いものは削れない、切れない、土が掘れない、スコップなんか使ったことがない、ノコギリもあまり使ったことがない、カンナなんか使い方すら知らない、そんな物が作れない大人たちばかりの社会になった、そんな親に育てられた子供たちも当然物作りを知らない子供たちばかりになる。

僕自身も最近まで気が付かなかったけど、モノが作れないこととは、僕らが思っている以上に人間の元々持っている能力をダメにするんだと思った、逆にモノが作れるってことは僕らが想像している以上に人間の能力を培うんだとやっと最近気がついたわけです。
僕は一時期、家具を作る仕事をしていた、プラモデルのように、既成部品をただ組み立てるだけの作業ではなく、木材を始めから自分の目で選んで、それを自分で切り刻んで素材を作ります、つまり素材から作って組み立てて製品に仕上げていく作業です、その過程であらゆる危険な道具を使います、道具を上手く使いこなせないと仕事になりません、時にして電動ノコギリで大きなケガをします、うっかり指を飛ばすのはわりと普通のことです。
昭和の作業とは事故が背中合わせでした、物を作ったり作業をするとは事故の危険と隣り合わせで身の安全を確保し注意力が必須で物を作る、作業をするとはそう言うものだと思っていました、当然それに必要な勘を養うのは必須です、注力がなければ大きな怪我をします、刃物研ぎが悪ければ作業が捗りません、削れない、加工ができない、職人とはモノが作れるだけではなく道具が使いこなせる技能者でもありました、それができてやっとモノが出来たのです。
物を作るとは道具と素材との戦いであり向き合いだったんです、同じ木材でも場所によって使い方は様々でした、腐りやすい、腐りにくい、硬い、柔らかい、それによって考え方と使い方が変わります、職人はそこを読みながら考えながら作業をします。
物を作るとは快適な作業環境をどうしたら作れるのか、そこを考えることから始まります、職人とはカンとアタマを使う仕事です、僕はそんなことは職人として当たり前のことだと思ったけど、その思考力がまるでないのが平成の大人たちです、平成の大人たちは生きていくために最低限必要な能力が欠落してるようにさえ思います。
これがあるか、ないか、その能力の違いは多分、僕らが想像している以上に大きな違いがあります、この能力がないのは狩りができない野生動物のようなものです、都市機能が停止したらどうやって生きて行くんだろうか?と思います。
昔はモノがないから工夫をして自分で作ったり、物を大事に注意して使ったり、修理して使い続けていました、とにかくモノとは大事にしないと壊れる、その前提で物を使ってきました、昔の人たちは物に対し大事に加減して使う感覚が普通にありましたが今の人にはこの加減感覚が分からなくなったように感じます。
今と昔では物を買い換える感覚が違います、昔は壊れたから、劣化したから、買い換えていましたが、今はOSが古くなってまだ十分に使えるんだけど買い換える、賞味期限が切れたから捨てる、感覚が昔とは違います。そう言う人たちの時代感覚ってやはり物事に対して感覚がやはり軽い、物作りを知らない机仕事で生きてる人間って何か実態から欠落してるように思えます。
それについて鈴木さんは語っていたように思えました、つまりジブリ作品とは町工場で産み出された世界だったと思いました。

イメージ優先の考え 

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カメラ好き、写真好き達の多くが口にするのはレンズは性能が良いモノを欲しがる、僕だって気がつけばこれまでの写真人生で大判フィルムを使ってきたけど、それは緻密な映像が欲しかったからに他ならない。
良い写真を撮りたければ良い機材を使いたいと思うのは当たり前の感情だろうけどそこは一歩踏み込んで考えなきゃならない、カメラ雑誌を開くと新しいレンズ性能レポートばかり載せるが、結局そう言うネタが一番みんなが飛びつくだけの話で、果たして本当にクリアーなレンズが写真には必要なのか?
良くないレンズ、荒れた画像はイメージに対して明確な確信がないとどうしても撮るのは勇気がいる、撮ってから後悔しても始まらない、良い機材を選ぶのは裏を返せばその方が「安全」だからだ、でも僕はそう言う考えはプロの仕事ならいざ知らず、遊びで撮るならもっと自由で破天荒で思考のフットワークが軽い人の考えがずーっと好きだ、アタマの硬い融通の利かない思考の人とはあまり友達にはなりたくない。
つまりレンズが良いから写真が良くなるわけじゃない、むしろレンズがクリアーすぎて写真がつまらなかった、そんな写真はいくらでも撮ってきたしそんな気持ちは何度も感じた。多分僕の写真体質と方向性が現実離れした幻想的な写真を好むからなんだろう。みんなライカ、ライカと高いお金を払ってまでライカを手に入れたがるが、ライカの一体何がそんなに良いのか?そこはしっかり検証して自分の好みと合わせ見極めていないとアタマの中は単なる高級カメラ好きの融通の利かないジジイになってしまうだろう。
でもこれは強く感じたことだけどライカのデジカメは発色が独特でなんとも言えず好きな色です、それはセンサーがいいからそうなのかと思いきやライカユーザーに言わせればレンズが良いからそうなんだと言って聞かない、色はレンズではなくセンサーだろうと思ってたけど、どうやらそれは笑えない話で、終いにそうかもしれないな、、、と思うようになった。
レンズが画像に影響させるのはクリアーかどうかだけで語れずレンズが醸し出す色彩の風合いとか発色具合も確かにレンズかも知れないと思い始めた、まあ僕がここで言いたかったのはもっと低レベルで髪の毛一本一本クリアーに写るレンズを使えば写真が良くなるとは限らない、そんなのはお札信仰のようなものでただの迷信だって言いたかった。

さて前置きで悪たれを付くのはこれくらいにしてそろそろ話の本題に入らないとね、、、、、長々と時間をかけている僕の制作中の作品「魔法植物園」について話します、始まりは中判サイズのカメラでスタートした、今もそれには変わりないんですが、選んだ理由は画素数より通常カメラにはない中判のレンズボケの美しさが目的だった。
作品を何年も時間をかけて関わり続けているといろんな些細なことが見える、それは制作に長く関わり続けているよりも、考えとは不確かなもので、その時は「これしかない」って思った価値観は数年後も同じ感じ方かと言えば、、、そうではない、時間が経てばまた違う考えになっている、1〜2年で作った世界観が自分自身であるなんてとても言えないと気がついたわけです。
少なくとも5〜6年も時間をかければ、始まりと終わりには考えや感覚に大きなズレが出ます、前に良いと思ったものは、5年後にはまったく通用しなくなることが多く、どうしてもそれくらい時間をかけずには何もできないって気がします。
またそこになかなか自由に捨てられないこだわりとか、常識の縛りとか、自分が描きたかった微かな思いとか、普段なかなか気がつけない潜在的な思い、その憧憬などは時間をかけるとチラホラと多角的に見えてくるから安易に畳み掛けないで時間をじっくりとかけて心の移り変わりを眺めながら、それを楽しんだりして、若いころには思いつかなかった思いを駆使して作っていきます、それくらいでやっと自分にとっての普遍性が見えてきます。
時々、作品を忘れるくらい作品から離れてやっと今まで見えなかった世界がある時にチラッと見えたりします、最近になって気になるのが、今まで撮った画像はキレイすぎる、もっと陰鬱で鬱蒼としてても良かったなって感じ見ています、キレイは大事なんだけど、僕が求めるキレイさとはどこか違っていて、何だろう、、、これではモノの奥行きを浅くしてしまうキレイさじゃないかって感じ、そうじゃなくもっと鬱蒼として、もっと荒れた感じがあっても良いんじゃないかと感じ始めました、作品全体をトータルに振り返ると、これまで何だかキレイにまとまりすぎていたと感じます、もっと大雑把な荒れた感じの方が、目に見えない勢いが増す気がしました。
またそれもいっ時の感傷かも知れないし、一体何が自分なのかが終いに何が何なのか分からなくなります、また前回書いたように通常のカメラ視線だけじゃなく画質なんか犠牲にしてもドローンを使って普段にはないアングルから撮るとか、もっと枠を超えて自由になっても良いんじゃないかと感じソフトフォーカスの特殊なフィルターを付けたら今までのドローンでは見たことがない新たな可能性を感じたりです。
あらためてレンズが良い悪い、この基準から入って出られなくなるとカタチに支配されつまらなくなって思考のフットワークをそこから失うんだな、、、、て思ったりします。

ドローンが見せてくれる新たな視点の数々、 

56352659_1257938181030253_8872867272020983808_n.jpg ドローンを始めてからそろそろ1年くらいになる。
始めはドローンに対する印象も良くなかったし、ラジコンヘリの新種くらいにしか思っていなかったし、もちろん自分がやるなんて考えもしなかった。
それがある時、いつもの広告チームのディレクターから「ワタライさんドローンやる気ない?」って言われた、たしかに僕らがレギュラーでやってる新聞広告は機械がどういう動きをするのか、新聞広告画像だけではなく、稼働風景を新聞広告にQRコードを貼り付け動画も見られるようにしないと広告は今ひとつ説得力が足らない。
そうならばただの動画だけにとどまらずドローンで空から回して撮るとか、そんな柔軟な考えの必要性を感じ、すぐ情報を調べ、講習を受け、ドローンを買って練習をして、さらに国土交通省の認可も取って、何とか仕事で使えるように急いで準備した。
その結果、どうにか自由に扱えるようになって、ドローンについてこれまで感じていた印象がガラッと変わった、逆に印象による表面しか見ていない思い込み、その判断はいかにあやふやで可能性を閉ざしているかを感じた、少なくともドローンに関しては前に感じていた新型ラジコンヘリの進化版、その認識は僕の中で消えた。
カメラマンなら、特に広告写真に従事するならこれを単なる空を飛ぶ高価なオモチャと片付けてはならない、空を飛ぶカメラなんだと思った方がよほど進歩的だし実際カメラは多分想像してるより小型のわりに高画質高機能なものを備えているから広告にも使えるし、実際に大型機種は広告とかテレビ撮影には普通に使われている。
使う場合は必ずしも空高くブンブンと飛ばさなくたって良い、カンタンに考えれば人よりやや高いところでも使える、これまで5〜6mの位置から撮影がしたい場合、ワゴン車の屋根に登るか、イントレと呼ぶ足場を組んで撮るか、もっと高い場合は高所作業車(ハイライダー)から撮るか、、、たしかにそれが準備されれば言う事はない、通常カメラなら画質的に遜色がなく良いがその設定は常に予算がかかるし大げさなジュビが必要だ。
さらに、ちょっと場所を動かす場合もフットワークは楽ではない、その点でドローンは革命的なカメラだ、なんせドローン自体が自由にどこでも飛ぶ、被写体の周りを自動で回ったり、自動でピッタリ並走したり、それらは自動機能で手動操作の必要がない。
ドローンは僕らが思ってる以上にロボット化され高機能であることを忘れてはならない。
この写真にある川は過去に何度も足を運んだ場所だけど、残念なことにこの川にはあまり近寄って撮ることができなかった、良いんだけど、これまで川の横から川を撮るしか出来ない、、、、川の上からこんな感じで撮ろうと願っても川の中に脚立を立てて登って撮りたいとこだけど、、、それは叶わなかった、これまでは、、、、。
それを昨年、まだ緑豊かな風景のころ、ドローンを持って撮ってみたところ狙った通りなかなかのアングルだった、本当はこのままドローンは川に沿ってまっすぐビューンと走らせて動画を撮りたいとこだけど、川には無数の木の枝が突き出ていて下手に無視界飛行をしようものなら、どこかで枝に衝突してドローンは川に墜落して終わる、その確率が高く思い切っては出来ない。
去年はその飛行ルートを確認して飛ばしたけど、やはり機体の衝突の危険が高いことに変わりないからまあり無理はしないようにしてる。
さらに言えば、現状はドローンのカメラの画素数、画質は地上の普通のカメラに比べたら、まだまだ劣る、、、が画質ばかりに拘らず、せっかくこれまでに得られなかった目線がこれを使えば自由にいくらでもカンタンに手に入るんだから、画質なんか横に置いてどんどん好きにやれば良いと思った。じゃあまずフィルターを弄って変わった映像を作ってしまえば良いと思った。
それがこの画像です、この映像の作り方はここではまだ明かせないけど、やり方次第でなんだって出来そう、これを使うと今まで思いもつかなかった視点が撮れそう、これを使って思ったのは、僕らはいかに地べたに縛られていたのか、それを強く感じた。

日本人は裏取引がどうも不得意だ、 

ヤフオクで不要になったドローンが想像してた以上に高値で売れた、もう時代遅れのドローンだと思っていただけにビックリしたと同時になんとか売れてホッとした。
ヤフオクについてのついで話、一昔前まで日本には大きな中古品売買市場はほんとんど存在しなかった、あったとしても中古車か古本か中古住宅くらいで中古品はどこか裏取引みたいで、あまり良くないイメージが日本人の考えに染み付いていた。日本に長く住んでるアメリカ人もビックリしてたが日本人は中古品をすごく嫌う国民だよね、、、と驚いていた。
これは僕は前から痛感していたことだった、海外から日本に帰国するたびに、そういう日本的で閉鎖的な習慣にはいつも辟易としていた、インドでは、僕らが持ってる物に目を付けてあっちから「それ売らないか?いくらなら売る?」って勝手に話を先に進めたがる奴がいっぱいの国から日本に帰ると、なんだかここは活気のない国だなっていつも思っていた。
それが30年くらい前からフリマーが出現し始め、20年くらい前からヤフオクが登場して、いよいよ嬉しい時代が来たなって思いヤフオクの登場を心底喜んだ。
とにかく良いのは家に居ながらにして日本中からいろんな不用品が探せるし、家で眠っているだけで使わなくなったモノは気軽に出品できて、それがお金に換えられる本当に便利なシステムだと思っている、例えば今の時代、フィルムが衰退して暗室用品はもう生産中止になった品は数えきれずある、欲しくてももう自由に買えない、その一方かつては暗室をやっていたけど今はやらない人もたくさんいる、家で眠っている使われていない暗室用品は日本中、実は山のようにある、そんな品が欲しい場合、ヤフオクを根気よく見続けるといろんな出物に出会う、気に入ればさっと買える。
ヤフオクでの写真用品は下手な中古カメラ屋よりはるかにストック量が多い、連日いろんな品が出品され、使い勝手がとても良い、そして一般カメラ店より安く買える、僕にとって日本一の中古写真用品店だと思っている。
使わなくなったカメラはカメラ店で下取りするより、ヤフオクの方が中間業者がいない分、高く売れる、安く買える、新しくカメラを買う場合も、不要カメラをヤフオクで売ったマージンで新しいカメラが買いやすくする、実際に何度もそうしてきた。
暗室の引き伸ばし機もそうだった、お目当の引き伸ばし機が出るまでずーっと待っていた、そして遂に格安で見つけてさっと落札させた、これをカメラ屋で買ったら何倍も高かっただろうけど、僕の場合、リサイクルショップから出品されたものを見つけた、彼らは扱い方を知らずジャンク出品していたが(なんの問題なかった)良いものを格安で買った、僕はヤフオクを誰よりも上手く活用し、ヤフオク取引の上級者だと自負している、、、。
何を根拠にそんな自信を持ってるのかここで説明しましょう。
この手のブラックマーケット(闇取引)をするにはそれなりの取引カンが必要になってくる、取引カン、つまり相手を見る目だけど、これはインドで散々鍛えた、早い話がペテン師まがいなヤツ相手にブラックマーケット(レートの高い闇両替とか)を散々やって来たわけです、ヤバい相手、ヤバイ取引、マトモな取引、これらをだいたい見抜ける自信がある、だから僕にとって日本でのヤフオク取引なら相手がなんであろうが、あのインドを思えば、ちっとも心配のないただの遊び感覚です。
時々、人と雑談で、かつてハマったコレクションが家にたくさん眠っている、処分したいけどどうすれば良いのか?そんな話を聞く度に、「ヤフオクに出せば良いじゃないの?」みんなが決まって口にするのは「あれ大丈夫?本当に売れる?お金払ってもらえるの?品がちゃんと届く?」とにかくそれが多い、要はこういうジャンクなブラックマーケットに日本人は慣れていないからそう言う心配が絶えない。
日本ではこの手のブラックマーケットはちょっと前までは表社会には存在しなかった、(昔はたくさんあったけどね)本当にこの感覚に不慣れな国民性だと思う、今はどうか知らないけど、僕らがアジアを旅してたころ、現地では定価という概念がなく相手を見て値段が跳ね上がったり、ボッタクリしたり、そんなブラックマーケットは普通だった、そんな奴らとどう渡り合えるのか?そこがアジアをうまく旅をするテクニックとなる。
あの当時のインドではタクシーは一般にメーターはなく事前に交渉して乗るのが普通、でも目的地に着いたら、最初の交渉価格がなんだかんだと何癖を付けて目的地で跳ね上がる、これはインドでは当たり前の話、日本人はこれにやられ、だいたいは相手の言いなりに払う、西洋人たちはそれを不思議そうに言う。「え?なんで払っちゃうの?そんなの払うべきじゃないよ、」と彼らからバカにしたように言われる。
こればかりはどうしようもない、日本人のビギナー旅行者は大半は相手の言いなりの被害に遭う、だから日本人は彼らの間でいいカモになる、それでインドが嫌いになる人が結構多い、文化の違いか西洋人はそれにすごく慣れている、そんなインド人なんかまったく相手にしない、あっさり最初に決めた値段だけ置いてその場を去る。
インド人との戦いに明け暮れた旅を何ヶ月も続けると、そのうち彼らの手口は慣れてくる、何か魂胆、企みを持ってるヤツはだいたい分かる、その企みをどうかわすか、かわし方もだいたい分るようになる、そのテクニックは日本社会でそのまま使うとすごく嫌われる、実際に自分の家を建てる時、相手との交渉でそれがすごく役に立った、200万くらいは多分無駄金を払わずに済んだ気がする、でも相手からすごく嫌われたハズだ。

正直言えば僕はパソコンやスマフォを攻略するより、この手のペテン師を相手に手玉に取る方がはるかにアタマが働く、さて、ヤフオクに話を戻そう、ヤフオクで物を買う、売る、特に高価な取引の場合、相手の過去評価をしっかり見て取引は慎重になる、悪いが多くても必ずしも悪いわけではない、どうして悪い評価なのか?そこをしっかり評価歴をじっくり見るとだいたい見える、この人はどんな人なのか、その人のやり方、クセ、人となりがだいたい見えてくる。
詐欺クセがはないがドタキャンがすごく多い、出品説明と実物とのギャップが激しい、取引がルーズでなかなか入金しない、約束を守らない、逆に評価の悪い人で、みんなが敬遠するけど、この手のタイプは問題ないと判断すると安く買える場合もある。
アジアを長く旅したおかげで、この手のブラックマーケットに必要な取引カンが旅の経験で育まれた、その結果、何でもカンでも安全で管理された買い物ってスリルがなくて退屈でツマラナイ、物を買うにも交渉して相手と戦ったり、安く買える、高く売れる、そんなジャンクな交渉取引の方が僕は楽しいしスリルを感じる。
仮に取引き相手からひどい目に遭っても僕は腹は立たない、仮に被害があっても、そんなの遊びだと思ってる、時々厄介な取引相手に出会うこともある、でも今まで安く買えたことは数え切れないほどあっていい思いをした分、たまにはこう言うことだってないとね、、、、って思って終わる、だから僕はヤフオクで今後も上手く売って、上手く買い物ができる自信があるし、ヤフオク上級者をこれからも自負する、アマゾンでさっと買いものするより好きだ、、、、。
どうしてこの手のブラックマーケットが僕は好きなんだろう?多分、決められた代金をさっと払ってさっと品物をもらって終わるより、買うためにあれこれ駆け引きしたり、ハラハラしたり、騙されるか、きちんと払ってくれるか心配したり、上手く勝ち取ったり、叩かれたり、こう言う売買の方が人間の欲得、狡猾さ、人間の裏表が露骨に肌で感じ、スリルがあって僕には楽しいんじゃないのかな?