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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

その度にいつも思うこと 

昨日、親戚に不幸があって葬式に参列してきました。
場所は愛知なので普段滅多に顔を合わす機会もない方々に久しぶりに会ってきました、まして故人も高齢で葬儀特有のあの重苦しい悲壮感はほとんどなくどこかカラッとした寄り合いムードさえありました。
毎回、世の中を斜に構えた目で書いては恐縮ではありますがやはりここは僕が見たもの感じたものを書きます。
僕は小さい頃からこの手の法事、葬儀ごとは嫌で嫌で仕方がありませんでした、もちろん葬儀が好きな人などどこにもいませんが、それとは別にこの手の法要ごとはどこか腑に落ちないようなモヤモヤした気分が子ども心からずーっと横たわっていました、それは今も変わらずそんな目で葬儀を見ています。
母の葬儀の時も連絡係りは嫌でした、「場所だって遠いし無理して来なくてもいいよ」と言ったくらいでしたが、親戚の一人がこんなことを言いました、「こんな時くらいじゃないと親戚と顔を合わすこともないし行くよ、、」なるほど、そう言う目で見れば参列も悪くもないな、、、。
でもそれとは別にやはりあのダラダラと続くお坊さんの気だるいお経、、、、あれが嫌には今も変わりがありません、あれに一体何の意味があるんだろう?子どもの頃からそう思い続けていましたが大人になった今も少しもその気持ちは変わらない、葬儀とい言うものを今も変わらず斜に見ています。
大人になってやっと分かったことは、冠婚葬祭ごと、法事、墓参り、この機会は親戚が集まり絆を確かめ合う場だと言えばなるほど納得ができます、特に昔の日本人は個人としての楽しみごとを知らない人たちには、法事を通して親戚が寄り集まりの大事な機会だったといえば、それはそれで納得ができます。
葬儀の度に、あの祭壇周辺に飾られた献花、毎回感じることですが、あの名札がついた花飾りがズラリと並ぶ光景、、、、、あまり趣味がいいとは言えない、どこか異様な花の飾り付け、そこに「子供一同」とか献花した人の名前が書かれてある。
あってもなくてもどうでも良いようなものに感じますが、やはりあれはたくさんないと見すぼらしく感じるのか、こぞってみんな、その場を埋めるように献花が並びます、故人が生前どれだけ広い付き合いがあったか、知名度のある人の献花がどれだけあるか、それを見せる場なのかは知らないが、とにかく名の通った名札がたくさんあれば故人の人脈の広さを誇示できるわけなんでしょう。
それを葬式に並べることに何か意味があるのかはどうかは知らないが、僕からすればそれはただ単に葬儀業者、花屋を儲けさせる機会に過ぎない、葬儀業者は花を並べさせるように仕向けているでしょう、僕にはそうとしか感じられないわけです。
そもそも世代の古い一般日本人たちの共通思考はこの手の冠婚葬祭ごとは誰だって不慣れです、そこに「常識的習慣」と言う厄介なものが重くのしかかります、自分の判断では何も決められない人が多く、世の中では通常はこうですよ、、、と葬儀業者はあれこれと勧めると思います、常識に反することで後ろ指を指されることを異常に嫌う国民性です、なんとか後ろ指を指されない無難な選択肢を選びたがる国民性です。
それが冠婚葬祭業者にとっては思うツボになってたくさんの花を並べるように仕向けることでしょう、なんせ葬儀とは亡くなったら、数日以内に葬儀をしなくてはならない、悠長に業者を選んでいる余裕などまったくない、また業者と値段交渉をする猶予もない、相手の言われるがまま決めるしかない、そこで相手のペースにはまる、葬儀に支払ったその金額を聞くと笑ってしまうほどバカげた金額を請求されます、そう言う目で見ると、このケッタイな祭壇の周りのたくさんの花も葬儀業者が「花はいっぱいに並べてはいかがでしょうか?」と喪主に勧める光景が目に浮かびます。
お坊さんのお経だって結構な金額を請求されます、さらにアタマ数揃えに小坊主も他所から集めて読経をします、こうなると葬式なんて完全なビジネスとしか見えないです。葬儀の後も彼らは儲け口を手放さない、永代供養はいくらだ、墓石がいくらだ、あれこれお金がかかるように出来ている、、、、こんなもの本当に要るのか?って僕は葬儀の度に思います、お坊さんの読経の時そんなことばかりついつい考えています。
徹底したコストダウンの新しい葬儀屋がもっと日常に登場すれば、旧来のお坊さん、葬儀屋さん、花屋さんも含めて、今までの既存の業者は全て失業するでしょう。

効率性と文化性は真逆な価値観 

ここ最近、新しい時代感覚についてややネガティブな目線で書いていますが今日もそれに関した話です。
こんな書き方をすると年寄りジジイ扱いをされてしまいますが、やはり新しい時代の文化はかつてに比べるとどうも軽いものが多い気がします。
どうしてそんな風になるのか?考えてみました、ここがポイントじゃないかなって思うのは日本は戦後、戦争で失ったものを一気に取り戻そうと新しい国作りをしました。そこで選んだ政策のキーワードは生産性効率性だったと思います。この政策で日本は一気に豊かになったのは誰も否定できません。
日本中の道路という道路はみな舗装され、車がじゃんじゃん走るようになり、高速道路ができたり、新幹線が開通したり、街中に新しいビルが立ち並び、一般家庭に、クルマ、カラーテレビ、エアコンが普及化したりで、生活レベルが一気に上昇しました。しかしその流れの裏に見落としてはならい問題がありました、それは生産性、効率化によるある種の歪ですが、案外、見落とされがちです、この価値観がもたらす弊害は、案外人間の心を蝕みます。
「蝕む」という弊害は結構恐ろしく、ゆっくり、ゆっくりと人の心を蝕むので、それに気がつかない人がたくさんいますが、気がつけば今の日本はかつてに比べたら文化性はどうみても後退した気が僕はします。
なぜそうなってしまうのかといえば、効率化、生産性重視、結果主義、この考えが蔓延すると人の考えは世知辛くなってしまいます。豊かさが十分に享受できれば文化性なんてもうどうだっていいわけです。文化性なんてただの屁理屈になってしまいます。その結果、徐々に無教養な人間が増えていきます。

例えば、広告界についてお話しします、僕らが広告の世界に憧れてカメラマンを志したころは、広告界はもっと元気があった時代で、ハイレベルな広告を従事するクリエーターたちは往往にして文化レベル、教養レベルが高かったと思いますが、今は悲しいかなそうではない、文化レベルが決して高いとは言えない方々が多くなった気がします。
そもそも広告とは物を売るための告知活動であってクリエーターたちの遊び道具、活躍の場ではない、という言い方もできます。でもとは言え、その一方で広告によって企業の品位、イメージを上げる役割もあって、物を売るためだけに広告は存在するのではない、という言い方もできます。要するに広告とはこうなんだと一言では片付けられないグレーゾーン的な存在なんです。
その時代の経済力次第が広告を決めます。要はこれが広告だなんて定義なんてそもそもないんです、お金に余裕があれば、物を売るだけではなく、企業自体を広告する広告予算が組めますが、お金がなければそんな余裕はなく、ただ物を売るためだけの広告しか打てなくなります。
お金があれば遊び性の強い広告が作れますが、お金がなければ広告効果による売り上げ、結果が重視され、遊び性のある広告、グラフィック性の高い広告などは隅に追いやられ、安い予算で高い結果を求められ、予算の安いWeb広告ばかりが重視されます。しかしそこに広告文化は確実に衰退化します。
僕らがまだ駆け出しでまだWebがなかった時代は余裕があったのか、時代感覚が今とは違っていたのか、、、大きな駅貼りポスターを作ったり、新聞全面の見開き(30段)広告を作ったり、グラフィックとして美しい花のある広告がじゃんじゃん作れた時代が確かにあったわけですが、しかし世の中が効率的主導になれば、そんな遊び性の強い広告を作る気分は消え去りました。つまり効率的な考え方と文化的な考え方は完全に対極の考え方であって、それは水と油の相性です。
つまり効率的な考えが世の中を支配すると文化的な気分は隅に追いやられる傾向がどうしても否めません、これは人々の生活気分にも十分に影響を及ぼしますし、教育にもその影響は出ます、とにかくいい企業に就職ができる大学が持て囃されるばかりで、早い話がいい大学に入れるなら教養などなくてもちっとも構わない気分が世の中に蔓延っています。今がそんな時代なんだなって僕は感じます。
でもこれがヨーロッパに行くと感じるのは、まだヨーロッパの文化はそこまで衰退していないのか街の美観を大事にする価値気分がまだ日本より高いらしく、日本のようにな国道沿線によくみられるあの下品な大型のお店の並びはどこにも見当たりません、あれは確かに便利なんですが下品でしかない。
そして思うのは文化性が下がれば、教養レベルも確実に下がります。それが今の日本の流れではないかと僕は感じます。
結論は豊かさを求めて日本は一生懸命に働いて豊かな国になったけれど、どうも世知辛くなったり、街の美観は壊れたり、無知な連中が増えた、そんな結果を感じます。

ネット時代の人間社会 

昔、ネットが登場してまだ日も浅かったころ、アメリカで起きた企業と消費者の間にあったある事件を何かで読んだ、その内容にとても感動したことをよく覚えているのでここで遠い記憶を思い出して紹介します。

アメリカのある主婦が育児用の粉ミルクに対して何らかの不具合を製造会社に突きつけた、しかし会社側はそのクレームに対しまったく耳を貸す態度はなく主婦の訴えをあっさり門前払いするばかりで相手にしなかった、ネットがまだない時代にこんなクレームがあったとしても、それを通すのはカンタンな話ではない、新聞社とかマスコミを説得し味方につけるとかしないと一般人が大企業を相手にケンカを仕掛けても到底、勝ち目はない。
主婦は企業の態度に対して強い憤りを感じ、当時、流行り始めたネットを上手く利用し消費者にとってこの企業態度は如何に理不尽なことかを世の中に広く知らしめようとサイトを立ち上げた、するとその主張は瞬く間に広がって反響がたくさん返ってきた、私も同じ憤りを感じていたが訴えようがないと諦めていた、製造元に私もクレームを付けたが相手にはしてくれないし困り果てていた、と賛同の声が次々に上がった。
その広がり方は製造元の予想をはるかに超えたものとなって、最後は裁判訴訟まで行ったのか、製造元との間で和解が成立したかまでは覚えていないが、消費者側は勝利を勝ち取った、それはネットが見知らぬもの同士に新しいスタイルのコミニュケーションを仲介し、今までにない新らしい民主主義のあり方を可能にさせた、そんな内容の記事を読んで僕はすごく感心したことを覚えている。
多分それを読んだのは今から30年くらい前の話で、まだインターネットすら知らない人がたくさんいた時代の話だったと思う、だからこれから流行るインターネットに対して、とてつもない新時代の可能性を感じていた、しかし同時に今までの概念とか習慣では考えられないようなネガティブな出来事も同時に頻繁に起きるんだろうな、、、、ってイヤな予感も薄々感じていた。

数年前に起きた、東京オリンピックのマークを一般公募でアートディレクターの佐野研二郎氏が選ばれた、しかし海外のデザイナーからこれは私の作品の盗作だとクレームがついて世の中は大騒動になった事件はみんなの記憶にはまだ残ってる事件のはず。
もともと僕は佐野氏とはかつて仕事をいくつか一緒にさせてもらった関係だから事件の成り行きを注意深く見守っていた、でも佐野氏には悪いが彼の行いとその気性を知っていたからいつかは何か地雷を踏みそうな危なげさを感じていた。でも彼の名誉のために言えば、危なげと同時にそこらにはいない高いモチベーション能力を持っていたのも間違いなく感じていた。
その事件についての僕個人的なコメントは何もない、オリンピックのマークが盗作かどうかは僕には分からないし、それに関しては何の意見はなかったが、言えることはサントリーの仕事でも盗作が発覚した、これはもう逃げようのない致命的な失敗だなと思った。これが事実ならば例え彼のスタッフがやったにせよそんなの理由にはならない。
でも、その事件から僕が感じたのは、デザイン盗作疑惑に関しては何とも思っていなかったけど、びっくりしたのはそこではなく、世の中がみんなで一斉に佐野氏を非難しあれだけの事件にまで広がったこと、集団リンチ同然のイジメを彼に浴びせたこと、そのイジメぶり尋常じゃなく、彼とは何の面識もないヤツらまでイジメる側に立っていた、何もアンタらがここまで叩くこともないだろうと呆気にとられ、ちょっと恐ろしさを感じつつその事件を見ていた。
これを何と言えばいいのか、、、、上手い言葉が浮かばないが、明らかに人間が陰湿になったような、、、どこかでかつてはここまでやっただろうか?と常軌を踏み外した人間社会なった出来事だと思った。今の日本人は、僕が知るかつての日本人ではもうなくなったと思った。
これについて藤原新也さんに語ってもらったら、多分示唆にとんだ興味深いことをたくさん語りそうな気がするが、やはりスマフォの登場がその辺について拍車をかけているように思えて仕方がない。
朝のNHKのBS放送を見てると、最近あの大ヒット番組「おしん」を今やっている、それが流行っていた時は全く見ていなかったので、どうしてそんなにヒットしたのか、その訳すらわからなかったけど、今見るととてもしみじみと見る気になれない、時代錯誤な番組に感じたり、時代遅れなネチネチした情念世界がクドクドと描かれている。時々松本清張原作のドラマも今風に変えて番組を放送しているのを見るけど、松本清張の描く世界観の根底も似たようなもので今の時代から見ればどこかピントが合っていない。
明らかに言えるのは、今と昔のズレとは、今はかつてに比べれば人と人の心の距離がかつてとは離れたことを感じる、関わりが薄くなった、素っ気なくなった、以前はもっと人と人の間は密に接していた、当然そこに生まれる人間関係のネチッこさとか、憎悪の感情も濃厚で、それが当時のドラマの根底だったけど、今時そんなドラマは視聴者の心に響かない。

前回の続き 

裁判所から大げさで仰々しく書類、そこに20万円をいつまでに支払いなさい、と書かれた督促状が僕のところに来た。
それを見た一瞬、「僕、そんな20万円も支払わなきゃダメな悪いことした覚えはない」そんな気分になった、訴訟に縁のない一般人がそんなものを見ると、それだけで気が滅入る、ワナワナする、なんだか自分がひどく悪いことをした気分になって、ある種の暗示にかけられたような、強い喪失感にも似た無気力な状態になる。
相手はそういう心理的圧力は絶対に計算の内だと思う、、、、でもそこは冷静になって、自分がそんな風に呑み込まれたらもう相手の思うツボだ、、、、、それだけは絶対になるわけには行かないって思った。
そこに書れた内容をもう一度冷静になってよ〜く見ようと書類を手にするが、それを手にするだけで吐き気を催す気分になったり、何のことだか、わけがわからなくなったり、気が遠くなった。
まあ冷静に考えたら、ことの流れはこうだ、、、、。
撮影した、納品した、相手は納得しなくこんな風に修正してくれと言った、それは修正ではなく特殊加工だ、僕にはできない時間をくれと言った、話がギクシャクした、もういいアンタに頼まない、お金返せと言った、無視した、弁護士を通してお金返せと再び言った、無視した、裁判所から督促状が来た、、、、、異議申し立てを裁判所に送った、訴訟になった、、、
それで相手弁護人が主張する内容を読むと、よくまあ有りもしない事とか、いろんな難グセをあれこれつけてよくまあこんなアホなことが言えるな、、、、と呆然とした。
それでこちらも弁護人に相談して、これをどう受け止め戦えば良いんでしょうか?と相談した、弁護人はあれこれ言い分を並べ立てても話がぐちゃぐちゃしてくるだけだから、、、まずは要点を一本に絞って主張はシンプルに裁判所に訴える方が良いんじゃないですか?とアドバイスを受けた、弁護人はまずこの事件は渡会さんとSさんとの契約は委任契約であることをまずしっかりさせた方がいいです。そもそもこの事件は相手側は相当無理な言い分を押し通そうとしてるんです、分は渡会さんにあるんです、と言った。
委任契約とは結果は「やってみないことにはなんとも言えない」そんな契約です、例えば医者がガン患者を手術したが助けられなくても、罪に問われることはない、行なった治療費はもらう権利がある、そんな契約を委任契約と呼ぶそうです。
それに撮影は総数1000枚を超える撮影であることと、ここまできちんとしっかりした撮影内容であることも裁判所に出力した画像を揃えて提出してください、また過去のメールで特にそんな約束はしていない、相手側の矛盾点がいくつかを証拠資料からきちんと整理して、重要な部分にアンダーラインを蛍光ペンで印をして裁判所に提出してください、あとは委任契約で押し切ってください。
弁護士の助言で冷静さを取り戻し、僕は膨大な証拠資料を作った、最悪、負けたところで20万円だから大したことではない、と気が楽なもの、裁判官だって人間だ、どんな裁定が出るかは神様しか分からないけど、、、、。
始め、、、裁判所からの資料を見るだけで近寄るだけで、吐き気がしたけど、ここは逃げ腰にならないで冷静に向き合うしかないし、徹底して証拠資料を作るしかないとハラを決めた。すると逃げ腰だった気分は主張すべき点は弁護人に頼るんではなく自分自身がしっかりした考えを持って主張しなきゃダメだ、、、、と感じ始め、その流れは明らかに変わった。
これは撮影でも、なんだって同じだけど、何かをする時、結果を出すコツは主体性をしっかり持つこと、誰かに依存するのではなく自分自身が、それをどうしたいのか、その意識をしっかり持つこと、いくら法廷に関しては無知でも、所詮は主張と主張のせめぎ合いです、弁護士に100%依存するんではなく、弁護人はアドバイスをもらう程度にすべきで主体は自分で考えたことを主張すべきだと思う。
証拠資料を整理するうちに、だんだん事件が冷静に見え始めた、そもそもこの事件はすごくアホらしい事件であることが見えてきた、こんなアホな訴訟に絶対に負けるわけには行かない気持ちが湧いてきた。
話をまとめると、時代がこんな感じで無軌道になると自分の身の安全は自分で守る知力と気力が必要になってきます、今回の事件はいい勉強になった気がします。

もやは呆れてものが言えない事件 

前回から少し間が空きました、続きは少し書いた、でも書いた内容がややネガティブで出すのはためらいそれは出さずにお蔵入りにした。
でもこれも前回の内容の続きですが、世の中は時代が進むにつれて昔は、そんなことはあり得なかったことが、今ではそこらで普通に起きる時代になった、確かにシステムは進化し時代は便利になった、その反面、いろんな物事もそこらで崩壊した、かつては素朴で静かな田舎が時代がガラッと変わりその面影もカケラもなくなった場所をいくつか知ってる。
日本は本当に僕らが子供だった頃、田舎の川には魚がたくさん泳いでいたけど今はその気配すら感じないことろが増えた、その代わりに街に流れていた川は汚くて遊ぶ気にもなれなかった川が今ではコイを放流したりで子供たちが遊んでいるのを見るが、どこか人工的でなんだか好感が持てない、かつてを思えば、あらゆる意味で世の中は変わり、生産性は著しく成長し、時代が過ぎるってこと、こう言う事なんだなってその変遷ぶりを痛感します。
今日の話は今僕自身が今その問題を本当に抱えているおかしな話です。
最近、僕はネット仲介の撮影をパラパラとやり始めています、今までやってきたことに比べたら、仕事の質は悪く、客質も撮影料も仕事の内容も当然良くない、受け入れるまでの心の準備期間も必要だった、それにはなかなか踏み込めなかったけど、でも条件の良い広告の仕事はもう年で徐々に少なくなるのは明白です、今のうちに次の仕事を模索する必要があります。
始めは冷やかし半分で始めたネット仲介の仕事は始めてみれば徐々に数も増え気がつけばその撮影収入はバカにならないまで来た。
昨年11月にある40代半ばの女性から撮影の依頼を受けた、そのサイト相場からすればまあ撮影料は高めの設定だった、金額よりその依頼人の強い思いを感じ、これは久しぶりにやりがいのある撮影だなって、意気込んで応募し、その話はさっと決まった。
依頼人をSさんとします、Sさんは昨年から半年かけてダイエットをして体を絞って、さらにエステに通い、自分を磨いて契約から撮影は約半年後の翌年4月半ばにしてほしいとお願いされこちらはそれを承諾し、いよいよ今年の4月に撮影は実施した。
ヘアーさんはこちらで紹介しそのギャラを5万円にしてもらい、それを含めて20万円で約束をした、その間何度もメール連絡をしあったが、撮影に必要な具体的なやり取りはほとんどなく大半はどうでも良いやり取りだった、それで撮影1週間前にヘアーさん、Sさんと3者で渋谷のレストランで飲食の打ち合わせをして、撮影本番を僕のアトリエで迎えた。
撮影総数は1000カットを超える撮影だった、そして納品後に相手からもらったメールには、これまで半年もかけてダイエットしてエステにも通って挑んだ撮影だけど、写ったものは期待したものではなくがっかりした自分が写し出されていた、これをなんとか修正はできないかとプリクラ写真みたいなものが送られてきた。
早い話が女優さんじゃあるまいし、、、やはり40後半の女性はいくら手入れとダイエットをしたところで写るのは40代の女性でしかない、でも普通に見たら40代にしたらまだ十分にキレイだと思うが、、、。
本人にとってはこれまで半年間、掛けたお金と努力からすれば「魔法にかかったような美魔女」が写ると期待していたが、現実は納得が行かず、僕に払った20万円全額返金してほしいと弁護士を通して通達してきた。
こっちもそれに対して、そんな荒唐無稽なバカな言い分など通用するものかと、こちらも弁護士に相談した、まずヘアーさんまで包括契約はした覚えもないし、事前のレストランの会合4万円飲食代も僕が20万円から支払った、ヘアーさんの代金もある、そんな話は通用するものかとガンとして相手にしなかった。
この時代、振り込め詐欺とか煽り運転とかカスタマーハラスメントとかが横行する時代ではあるが、こんなヤツがそこらで当たり前な時代になったんだと痛感した。
そのまま放置していたら、いよいよ簡易裁判所から支払督促がついに来た、それに対してこっちは異議申し立て書類を裁判所に提出しその争いはついに法廷で争うことになった。
続きは次回。