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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

転がす夢 

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まだ桜は開花していないけど足下にはもう百花撩乱はすでに始まっています。そんなわけで今日は東京都の植物園をカメラを持ってハシゴしてやろうと企んだ。
鎌倉からまず調布の神代植物園に行き、次に小石川植物園と思っていたが新宿辺りで大雨が降って来てこれじゃもう雨は止まないだろうと止めにして鎌倉に帰った。

秋に開く写真展のイメージに最近いよいよ本格的にスイッチが入り始め、思いはどんどん広がり着々と心の中で夢が膨らんでいます。これが実現したらおもしろい事になるぞと作品作りにワクワクしています。

先日書いたように具体的な作品イメージ作りは自分から絞り出したり捻り出したりはしないで心から湧き上がって来る思いを根気よく待つようにしている。
ではアタマで考えイメージを作ることと、湧き上がって来るイメージを拾い取るとは質的にどう違うのか?今日はそこを少し書いてみたいと思う。

思考感覚から離れた直感的な作品作りとはどこか大げさに云えば儀式に近い物で御信託が降りて来るのを待ちます、これは聖域なのであまり人間の浅知恵で手出ししてはならないのです。
やってみると案外笑えない物です、必ずしもピュアーに湧き上がった物ばかりとは云えなく、不純物も混じっていますが、でもこれで撮った作品は不思議な事に何年か後で意味が見えて来ます。
多分時代を経て残った作品とはそう言う物なんだなとボクなりに感じてます。だからボクの作品の真偽はこれから時間が証明して行くでしょう、ただのガラクタだったのか?マジに残る物だったのか?
どう説明して良いのかふっと湧き上がった思いは相手に伝える力が結果的に強く反対にアタマで考えて出た物は現実的ではあるが人の心を捉えなく、時間が経つと消えて終わってしまう物が多いです。
どちらが優れているとかではないと思う、現実的な正確さを要求される生産性の場にいちいち湧き上がって来る思いに頼っていたら物事がまったく進まなくその職場はただ混乱するばかりです。
しかしここでは誤解されたくないのは、いくら湧き上がって来る思いを待つとは云え、ただ待っているだけならイメージは湧き上がって来てはくれない。
それなりに湧き上がるような環境を作って努力し自分をあぶり出さないと何も湧いて来ない。
ボクの場合は、自分のイメージが出るように自分を突いたりはしないけど、ずーっと作品イメージに浸り続けその世界の住人になり切って行きます。その世界の住人になり切れるかどうか?これがカギです。
朝から晩までその夢を心の中で転がし続けます、ずーっと続けているとそのうちにふっと何かが湧いてきます、そしてその湧いて来た思いを見過ごさずにさっと拾い集めるのです。
いつも思うのは「不思議の国のアリス」のルイスキャロルは多分いつもその世界に浸っていた人だと感じます、あれはその世界に浸って書けた物で決してアタマで考えて書いた物ではないと思います。
言い換えれば、心の中の夢に通じる思いとは、アタマの思考ではとても辿り着くことが出来ない、どこか次元の違う世界に通じる不思議な力を持った機能ではないかとボクは感じます。
このやり方でボクが実感した事は、人間の感覚から出て来た物事とは物質的な正確さはないが、ある種の心の均衡感覚の正確さはアタマで考えた事より遥かに正確なものを描き出します。
これは研ぎすまさない手はないとボクは感じています、ここに人間の持っている能力の底知れない神秘を感じます。