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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

自由な人 

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昨日書いた話の中で最後の方に「等身大で物を見る」と云う事を書きました。ボクたちは霞を食べて生きて行くのではなく人間関係の中で社会を渡り歩きお金を稼ぎ出して現実を生きていなければなりません。
動物みたいに生まれた川に戻るとか、水を求めて遥か遠くまで移動するとか、海を越る渡り鳥ではなく人間社会に横たわるルール、常識、知識、情報に依存して現実を生きるしかないのです。
動物と違って水が不足すれば天気予報をアテにし、移動はクルマや飛行機に乗って行きます、それらは大きな恩恵をもたらしもするけど代わりに自分らの心を束縛します。
現実思考感覚が優先されて、直感的な感覚はなりを潜めてしまい、人間社会に適合し、そこに蔓延る人間界のオリみたいな得体の知れない物に束縛されて心を煩って生きています。
このオリの束縛こそがクセものなのです、人はこれにやられて物事をあるがままに見る「等身大に見る」心の眼を失い本質を見失います、でもむしろ本質なんてここではたいして重要な意味をなさないのかも知れません。
ここではそのシステムにいかに順応するかが重要で本質にこだわるのは、ボクらのように特殊な生き方、表現したいとか、現実とは違う感覚で生きている人たちなのかも知れません。

昨日書いたように写真が撮りたいからカメラを買います、でも本質が見えないからカタチから入ります、カメラを買ったけど写真を撮るよりカメラ自体が目的の人がたくさんいます。彼らにとってその事の方が分かりやすく手っ取り早く楽しめるからでしょう。
世界中にライカの熱狂的なファンがいます、今はデジタル時代になって事情が変わったけど、バブル時代は日本は本国ドイツより中古ライカが集まる国だったそうです。
ライカ専門カメラ店で店主に聞いたら客のほとんどはコレクターだそうです。使わないでただ集めて持っているだけとは何だか釈然としない気がしました。「本末転倒」とはこう云う事を云うのだと思いました。
要するに人は分かりやすい事とか知識で生きる習慣が身に付きすぎると直感とか感覚の使い方が見えなくなってしまい、そこに付着したたいして意味のなさそうな尾びれをその物の本体だと信じ込んでしまいます。
尾びれが本体か何が本体だったのかもう見分けがつかないのです、良い例がブランドバッグです、ブランドバックはただのバックであってそれ以外に何物でもないわけです。
iphoneみたいに携帯電話であっても、あれになってこれになって、あれも出来てこれも出来るなら、まだしもそうではなくドラえもんの魔法のバックでもなくどこまで行ってもただの小物入れのバックです。
ところがこれには、ドラえもんとは違う現代の魔法がかかっています、これを持っていると一段ステイタスアップしたような気になれる魔法の尾びれがついたバックです。
これがみんなが群がる、魔法の尾びれの正体です、ボクらはいつの間にかこの魔法の尾びれにやられてしまい物事があるがままに見る事が出来なくなって行きます。
世の中にはこんな物だらけです、何から何までこの「魔法の尾びれ」が付着しています、一体何が元々の姿だったのか?何が実態なのかがもうワケが分からなくなって行きます。
人はもう面倒なのか?その魔法のカラクリを見抜こうとはしません、ボクからすれば良いように掛けられっぱなしです。広告はこの魔法の力を利用しブランドイメージを操作して商品を売るように戦略を考えます。
ここでもう一度、元に戻りたいのは、それに対してそんな魔法にブロックアウトしそれに振り回されない視点が「あるがままを等身大に見る」と云う眼差しです。
世の中のカラクリに対していつも冷静でそのカラクリ魔法を見抜き、あるがままに見てあるがままに感じ、あるがままに生きる事が出来たなら、それはとても自由だと思います。
そこから心が自由なら地球の引力から解放されたがごとく自由な人だと思います。
この世の中は実態のかけ離れた意味のない尾びればかりが氾濫してしまい、一体何が本当で何がインチキなのかほとんどの人は見分けがもうつかない状況です。
尾びれのカラクリにやられている事は薄々感じ、分かってはいるけどそうなっちゃったなら、まだマシな方で本気で尾びれのカラクリにやられている人は世の中には少なくはない。それを上手く利用しているのが宗教ビジネスです。
ボクはこのカラクリから自由に生きられる人が一番カッコ良い生き方だと思う。
でも、逆説に云えばこの世を生き抜く事で、この引力から自由になれるなんてこと自体が、どこかおとぎ話じゃないか?と云う気もします。
ボクらせいぜい出来るの事はカラクリに騙されているのは、何とか自覚はしているけど、やはり毎度毎度、同じように騙されてしまう、これが限界なのかも知れない。