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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

直感礼賛(2) 

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今日は昨日の続きとして2つの撮り方があるを書くつもりでしたが、その前にでは直感とはいったい何か?をきちんと書かなければ話が前に進まない気がしまたした。

世に言う直感とは第六感とか予知能力、予言力が大方のイメージですが、ボクの意味する直感とはもっと日常的で当たり前の思考からふっと閃く感覚です。
現実的に生きて行くには世の中と関わって生きて行かざるを得ません、そこで誰も常識に影響を受け染まってしまいます、大阪人は大阪弁を当たり前に話すように、環境に誰も染まって生きて行くのです。
自分の内側の微かな感覚は、外の激しい刺激にくらべれば非力な存在です。その環境で自分の感覚に信頼が出来て堂々と人前で表現が出来るでしょうか?そうカンタンに出来ません。周りの顔色をうかがいます。
多くは自分自身の感覚よりも周囲に歩調を合わせます、それに特に違和感を持たずにいられますが、ボクら表現者はそれだけではオリジナルの表現は成り立たないのです。
でも、この流れの中で自由でいられる人はよほどが生まれつき自分自身の感覚に対し何らかの確信を持っているか、アルプスの少女ハイジのように恵まれた環境で育つことが出来たか、またはブレに対しての強い後悔からか?多分そのどれかにハマるはずです。

ボクにとっての直感とは周囲の流れとは別に自分自身の感覚に信頼があり軸足がきちんと自分に置きそこで感じたものを云います、それがボクの意味する直感です。
多分この直感を表現に上手く自分が使いこなせるようになるには自己表現に対し相当強い切実感を持っていないと現実の力に流され見えなくなって終わる気がします。

その試みを始めたころは、自分の感覚はなかなか掴み取れず何から手をつけて良いのか分からなかったです、ところが続けて行くうちに何かが見えて来ます、それを一定期間繰り返して行くとさらに見えて来ます。もちろん人によって個人差があります。

直感がビンビン働く時と、あまり働かない時があります、気持ちがリラックスした時とか心が軽い時、気分が乗っている時はおもしろいように冴えて来ます、でも心配事とか気持ちが重く沈んだ時は直感はあまり機能しません。
ボクの場合は表現の修業時代は旅に頻繁に出ていました、そこで出会って感じる自分自身に浸って自分の感覚を感じていました、自分自身の内面から来る直感に出会うとは、そう云う体験を何度も出会って育てて行くものかも知れません。
ボクが実感しているのは直感に対して強いリアリティーが感じられるか、または現実的なことにしかリアリティーを感じられず、直感をあまり信用しないか、では多分結果はまったく違います。この感覚を使いこなせる人の絶対条件は強いリアリティーがあるか、ないかです。

そもそも直感的な撮り方をしたいと感じたきっかけもアタマで考えたのではなく、そう云う撮り方をどうしてもこれ以上しないわけには行かないと云う直感でした、もし本当に純度の高い直感で作品が出来たならすごい世界が描けることをボクは感じたのです。
それで実際やって感じたのは、確かに毎回自分の思い通りになるワケではなく、時にはまったく先が見えなくなる事も当然あります、でもそこであっさりブレて現実的な思考にさっさと鞍替えてしまうのではなく、出て来るまで待てるか?です。
でも不思議な事に直感から出て来たものに最初に印象では現実的な根拠がなく意味不明でバラバラに見えたものがそこに繋がり、関連性があるのです、個々で表現するより、組み合わせ統合した時に、メッセージ力が一気にパワーアップしたことがよくありました。
こう云う事は現実的な思考で作って行くと却ってあざとかったりチグハグな感じになりがちです、どこか不自然で辻褄が合わなかったりが多いのです。多分そこになんらかの企みが無意識に入り込むからでしょう。
そこに本人が自覚できない潜在意識が描き出す、摩訶不思議な世界が確かに見えて来るのです。この話を信じようが信じまいが各自の勝手ですが、ボクは少なくともこの感覚に出会ってからもうアタマが作る表現にはまったく興味はなくなりました。
ただ云える事はこの表現法が使える人と使えない人に分かれるのはどうも仕方のないことのようで、これが使える人はごく限られた人なのかも知れません。要は直感に対しどれだけ深い信頼が持てるか、どうかが分かれ道です。それは生き方の価値感の問題でしょう。