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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

心の世界(上) 

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昨日六本木の国立新美術館でやっているアンドレアスグルフスキー展を見に行きました。
基本的にボクはこう言う写真展は自分から積極的に見に行かないことが多いのですが、今回は友人の勧めで行きました、それと撮影の打ち合わせで上京したついでもありましたことですし。
ボクの表現体質は極めて個人的なスタイルを持っているのでこれらのほとんどはボクにはあまり参考になりません。でももしボクと同じようなことがしている人がいたならちょっと話が違うかもしれませんが。
ボクの場合、個人的な内面世界を撮っていますので誰かが撮った写真からヒント、刺激を得る、自分の新しい作品の参考にする、これは今のボクにはほとんどありません、むしろその人の考えとか感覚を聞いたり読んだりする方がよほど刺激になることが多いです。
特に意固地になって他人を遮断しているのではありません、ボクは生まれつき個人的な人だからですが、人から何かを吸収できることはごく限られた人しかいません、とどのつまりはボクはいろんな人の作品を見たり、読んだり、映画を観たりにはあまり積極的な関心はなく自分を刺激する作品はごく限られた物しかありません。

ボク自身の写真の動機は、心の中にある世界観その情景を捉え作品に置き換えたいのです、でも所詮、心には具体的なカタチはありません、仮にそれをきちんと捉えられたと自分が思っていても人にそれを見せるなんて多分出来ません。
せいぜい見せられるのはその思いの写し絵にすぎないのです。心の中は見る度に見える物は違って来ます、また捉える角度によってもまったく違って見えてしまいます。要は心なんて実態がないのです。

ある宗教家がこんなことを言いました、「世界は自分が深めただけの実相を顕す」これは過去にも書いて来ましたが、意味はこう云うことです、真っ暗な部屋に突然入った時、始めは真っ暗で何も見えなかった物が、そこでじっと見ようとした時、次第に目が慣れ見え始める。
同じように心の世界も始めは見えなかったものが心の視線が深まるにつれて、これまで見えていなかった心の世界が見えて来ます。これは写真を撮っているとよく体験します。以前まったく見えていなかった世界が深めた分だけ見えて来ると云うことです。
これまで曖昧にしか見られなかった自分の内面世界が徐々にハッキリ輪郭を持って姿を現し見えて来ます、そうなった時にまず最初に何をするかと云えば、「見えたからこれを撮る」ではないのです、それよりも自分が撮るにはこれは違和感を感じるから撮らない。これが先になります。
ボクの場合は自分の世界と関係がない物はただの雑音でしかなく、自分の表現を見えなくさせことが多く結果的に自分の周囲から無意味な物は次々に排除します。そして的を絞って行くうちに自分が描きたい世界が見えて来ます。
この排除と同時に自分の世界を直感で捉えて行くのです、その捉え方は方法論ではなく道なき道を行くのです、直感に頼るしか手はなくアタマでいくら考えたところで却って見えなくさせます。
でもこの心の迷路を踏破するおもしろさを知ってしまうと、もう一人の自分に出会えた気になります、つまり見えない世界がかすかに見えるようになったわけですから、これはちょっとした魔法が使える気分です、まさに「世界は自分が深めただけその実相が見えて来る」わけです。