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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

心の世界(中)喪失感 



心を表現する話題になったのでここで、ついでに表現と心の関係に触れたいと思います。
この心の微妙な襞の部分を文字で正確に上手く書き表すとは専門家ですらむずかしい課題だと思いますが、でもそこを触れなかったらここに書いた意味がないと思うので敢えて今日はそこに挑みます。

神様は人間に絶妙な仕組みを与えました、それは何かを得るなら、同時にそれに伴った痛みを必ず味わうように仕組んでいます。これは何も表現ではなく、得るために痛みを伴う、すべてはこの均衡は成り立っているように思います。
どこかギリシャ神話のパンドラの箱の話に通じます、プロメテウスは神ゼウスの言いつけを破って人間に便利な道具、火を与えてしまい人間には手に追えない災いが次々起きると云う話です。
要するに火とはあらゆる可能性を持っているが同時に手に追えない災いを引き起こす物です、そしてその裏返しとして、表現世界の美意識はほとんどは心の痛みとは無縁ではないのです、この痛みの感情が昇華した時に甘美な表現世界になって行くのです。
ボクが感じていることは、美と痛みは別のものではなくコインの裏表のようなものです、実はそれらは同じ物の裏と表なのです。つまりはどちらかを良い方を取ることなんて出来ないのです、美と痛みを両方セットで取るしかないのです。
つまり物語から美しいと感じる背景には必ず哀しみが潜んでいます、哀しみの裏返しが哀愁と云う美意識に通じて行くわけです。それを別の言い方に置き換えるなら、ほとんど文学的表現の基は単純な幸福感から表現されるのではなく喪失感、欠落感、空洞感、寂寥感、虚無感、これらの感情に対し埋め合わせの感情がその動機だと思います。
それらの喪失感とは、満たされなかった思い、コンプレックスとか、傷ついた思いとか、寂しさとか、多感な時期に味わい続けた心の空洞感が表現の動機となって行く場合が多いようです。

つまり心を表現するなら寂寥感、喪失感、空洞感、欠落感、これらを知ることが求められます。でもそれらは自分自身が幼少の頃から長い年月に傷ついて来た生々しい感情なので何らかの必然性がないとそうカンタンに歩み寄れない意識の迷路です。
でもこれらの欠落感と恍惚感、この一見相反する意識に関連性が見えた瞬間、それは何にも代えられない表裏一体の事実を発見します、そこに神様のカラクリを発見し甘い蜜の味を味わうでしょう、ボクはこのカラクリにこそ内面を描く文学の旨味のエッセンスが詰め込まれていると感じています。
心に大きなコンプレックを抱えた人はこのパンドラの箱を開けて解き明かさな限りコンプレックスに自分はいつまでもやられ続けます、そのコンプレックスの謎解きが明かされればそれはオセロゲームのように心の地図は黒から真っ白に替わると思います。