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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

自由な表現 

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ここ数回、自分の作品をフランスに作品を持ち込みについてとか、日本の写真界事情の枠とかボクなりの見解について書いてきました。ここでついでに食べて行く前提で好きな仕事がしたいとかやりたい事がしたいについて書こうと思います。
特にこれは写真だけに限ったことではなく自分が仕事を通して夢を現実に実現させられるのか、それは一部の才能に恵まれた人だけの事なのか?じゃあ、その夢を実現させる才能の実態とはいったい何でしょうか?
夢を実現したいから今就職しないでバイトしているとか、旅をしているとか、写真学校にいるとか、そんな人たちに過去何人か会って来ました。
これまで出会った人たちを見て意外に感じたのは、「好きな事をしたい」はすなわち「就職をしたくない」どうもこれがゴチャゴチャな気がしないわけでもありません。でも自分自身もどこか後者のところもあるので一概にそれが良いとか悪いとかはカンタンに云えないところもあります。
好きな事がしたいと云う人に「自由に好きに目一杯やってご覧」と云ったら、本当に誰もが自由を上手く使いこなし楽しめるかと云えば、それはそう多くいるものではないのが現実なのです、そこにすごく驚きました。
「自由に好き勝手にやる」すごく楽しそうに聞こえますが、実はこれが出来ないのです。だいたいは中途半端でそれは自由ではないのです、ただ束縛されたくないから自由を欲しがっている、そのどっちつかずがほとんどの現実なんだとボクは思いました。
実はボク自身これに本当に自覚出来たのは自分の作品をライフワークとして定期的に始めた50代になってからです、それ以前は広告で表現性のあるような仕事が出来れば、それが表現なんだとどこかで思っていました。
ここで何がまっとうな表現だ、何が表現にもなっていないと厳密なレッテル張りはあまりしたくはないけど、やはり現実問題、大半の広告は「モノを売る告知のグラフィック」であって表現とは呼べないとボクは思います。
この仕事を長くやって行くうちに、もっと自分が好きに勝手に描きたいモノ自分がカッコ良いいと思う物を、自分がゾクゾクする物を、自由に描きたい気持ちが出て来ました、ただお金を稼ぐことに終止し続けるのは、やはり息が詰まりますし、どうもそれだけやっていると、心が持たない気がします。

そこでどうしても行き当たるのが、じゃあ、自分表現をするとはいったい何なのか?
人によって様々でしょう、何も考えなくても次々に泉のように枯れる事なく湧き出る人もいるかも知れません。中には中々動きたがらない思い腰を上げ自分にムチ打って絞り出すようにして作品を作る人もいるかも知れません。
ボクの場合はこういうことです、自分にとってのおもちゃ箱のような夢空間が心の中に一部屋どうやらあります、 そこから自分は自分自身では説明が出来ない自分が望む世界感に繋がっている実感があります。時々表面意識はそこにきれいに繋がると心はとてもゾクゾクします。
そのアクセスの道具としてボクは写真を通してボクは作品を作り、その作品を拡げる、これを繰り返す事で、ボクは結果的にこれまで知らなかった自由を新たに実感し、まだ道が開けないなら、開けたい、さらに深めたいと渇望します。
この循環が収支共に上手く廻れば結果的にそれが自己開放を味わう自由だった気がします。でもその「自由」に気がつくまでに自分は50歳を越えた年齢になっていました。
そしてそれが自分のイメージとして実現できそうな場が海外ではないかと暫定的に感じていますが果たして現実はどうでしょうね?こればかりはフタを開けてみない事には分からない。