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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

思いとの良い関係 

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昨日書いたコラムはどうも不透明で自分の思いがうまく書き切れていないから、いったん消去しようかと思ったけど、文としてヒドい物だけど、そのうちにやんわりと書きたかった意味が出て来そうな気がしたので気を取り直し、これはこれとしてそのまま置く事にしました。
今回フランスに作品を持ち込み、現場で空振りの忸怩たる悔しさを味合いながら、かつ日本の環境から離れて考えられて新ためて自分がどうしてここにこだわり作品を持ち込みたいのか、その気持ちがわずかながら感じ取れたように思います。

人は自分が思うほど自分の思いを自由に引き出すことが出来ないことを案外知らないいうです、そして人は何かに出会った時に心の奥ですでに無意識に何かを感じ取っています、ところが日常の表面意識がその思いを捉え切れないのです、その感じた思いを即ことばに出来る人が「感覚の鋭い人」と呼ばれているように思います。
もしボクが「感覚の優れた人」ならば、それは生まれつきそうだったよりも自覚的に意識して観察力を高めたからだと思います。
日常生活の中で自分の感じた思い、気になる気持ち、ふっとした思いを見逃さないように思いを読み取れるように意識しています、もしその力が足らないなら自分の気持ちを見逃してしまい、何かに出会っていても何も感じられずに終わった事を過去にたくさん経験して来たから後悔があります。

例えば、ここで何か書きたい事を文にします、そして書いたものをざーっと眺めます、自分が書きたかった事と、書いた文の間に違和感が残りズレを感じたとします。
例え書かれた文章は上手くキレイに書けたとしても書きたかった思いがしっかり書けてないかったら違和感が残ります。さて問題はその違和感です、気にしないで先に進めるのか、手直しするのか、その違和感をどう受け取るかがその作家性の真価が問われるところです。
その違和感をサラサラと自分の思いに書き直す事が出来れば誰でも書き直すでしょう、でも注意して読み返せば何となく気になる、でも良いと云えばそうかも知れない、書き直すにしてもどこがどう違和感なのか?見えて来ない。じゃあ、まあ良いか、誰も気にしないみたいだし。

これを自分の作品に置き換えたらどうなのか?
写真の場合、文と違って、撮り直しはカンタンに出来るものではなく、そう容易くどこをどうすれば良いのかなかなか見えて来ません。しかも何をどう撮って行けば良いのか見えない事が多いのです。
自分の世界観に対し強い思いで把握するとか何度も手直しした経験を積んでいないと自分の世界観なんてそうやたらには見えて来ません。
大切なのは自分自身の世界観と思いの観察力です、自分の思いが何を実現したいのか、世界観をどうカタチにしたいのか?それによってどこに行きたいのか、どう表現すればどう云う気持ちになってどんな世界がそこを現れて来るのか?その謎解きゲームを延々に繰り返します。
写真の場合、道具とか技法に寄るところが多く、機材環境と云うカタチだけでも充分にゴマカシは利きます、むしろそれがすべてと信じ込んでいるカメラマンの方が多いでしょう、そこらの広告ならそれで成立するでしょう、写真はこの外的枠組みの考えからまったく自由な人はほとんどいないのが現状です。
でも所詮、どんなテクニックと最新の高価な機材を使ったところで、機材はどこまで行ったところで命はありません、命がない物がどこまで進化したところで、モノが人の心を打つ事は絶対にあり得ないし、モノが人の心を読み解き明かす事も導く事もあり得ないし、最後の最後は人は心と対峙するしかその表現はあり得ないわけです。

さて話の結論をここで締めるならば、自分がしたいことを躊躇しないで心のフタを開けて中を眺め廻し感じるままに進めて行けばそのうちに行く先は見えて来ます、自分がずーっと気になっていた事、実現させたかった事が徐々に見えて来ます。
どうやら人の思いとは地層のように重なっているように思います、だからそうはカンタンには深みには手が届かないように出来ています。思いに対しどれだけ根気よく向き合えるが、その作家が生み出す作品の深みではないかと感じています、逆に表層の思いで作られた作品は人の心深くまで食い込む力を持っていないと思います。