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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

夢をカタチに置き換える 

若手の写真を勉強している人に写真を教えることが時々あります、でも写真なんてそもそも人に教えることなんて限られていると思っているから具体的な写真論よりも、もっと目の付けどころです、カタチのない概念を如何にして自分のモノにするか、それをどう育てて行くかです。

この手の意識訓練がされていない人たちがよくする質問は「どうしたら、それが出来るようになるのか方法を教えて下さい。」とにかく方法論獲得にばかり意識は行っています。
たしかに、冷静に探せばいくつか重要なチェックポイントは教えられるけど、どうも方法論だけで片付けられたくはない気はします、それをやるとどうにも薄く軽くなってしまいます、そうではなくて心深くに叩き込む感覚とか、思うにならない痛みを感じつつ熟成されて行くものとボクは思っていますが、若い世代にそれを期待するのはやはり酷と云う物でしょう。
つまり目に見えないカタチのない概念を習得することは、それなりの強い思いを伴い、苦しんで自分自身に教え込んだり気がついたり、この繰り返ししか方法なんてないと思うけど、そこをマニュアルさえ手に入れればなんとかなると思い込んでいるなんとも軽い発想の人が笑えないくらい多いのが現実です。

先日、旅で出会った人から連絡が来て嬉しく感じ、久しぶりの再会でいろいろ話をしましたが、話しているうちに彼とは世代があまりにも違い、立っている位地、物事に対する切実感、問題意識、そこに温度差がありすぎることをひしひしと実感しました。
彼にとってはボクは自分のしたい事を実現させ結果を出してやっているわけだから、彼の周りにはいないタイプとして映ったと思います、彼からこれからしたい事とか、あれやこれやを聞いているうちに、あまりにも多くの知らなすぎる事の多さ、現実感の欠如、その根拠と裏付け、動機など曖昧な点に少しでも質問すると、彼はあっさりと「いえ、ただ何となく云っただけです」と答えます。
彼の口から出た「ただ何となく云っただけです」のあまりにあっさり平然と答える彼のそのあやふな人生観にはボクはあまりにも呆れてモノが云えなくなってしまいました。
正直云って、心に伝わって来るモノがなにもなく、これをどうしても実現させたいと云う切実感とか現実性が欠けた話には、先に書いたような「ただ何とくなく云っただけです」の思いしか感じられず、何ともその実体のなさに呆れてモノが云えず埋めがたい意識のギャップを感じてしまった。

冒頭に書いたように、写真を教える時にしても、なんとなく方法論を聞く姿勢には何か描く行為に最も重要な部分が欠落しているようにボクには思えて仕方がないのです。
目に見えない概念を描く、目に見えない感覚を掴む、これはアタマで考えた理屈をこね回したところで仕方がない、まして方法論で何とかなるモノでもない、まったく別のもっと神聖な感覚、畏敬にも似た感覚とでも云えば良いのでしょうか?これを引き出すくらいの感覚が必要だと思います。
スポーツとか楽器習得のように、何度も繰り返し痛みと伴に自分に教え込むしか方法はないと思います。

その感覚を育むとは、つまり日常生活で使う感覚とはちょっと違った心の奥に埋もれた感覚を発掘することです、それを掘り出してまず自分に適合させるようチューニングし直して使える機能にします、さらにそれに自分のすべてが掛けられるまでの信頼できる関係にまで育て築くことが感覚を鍛えることの現実です。
そこに達するまでに何度も何度も迷います、その迷いを繰り返した挙げ句にその志が確かならば、やがて自分の感覚を信頼して生きることに腹を括る選択の時が来ます、そこで神様から厳しい試練を与えられ試されます。
他に選べるような選択肢なんかないから、もう一か八かでそこに掛けるしかないことをボクの場合は自覚しました、それをなんとか無事にクリアーした時に神様から試された感覚は自分自身の一部になって自分の味方になってくれるのです。
試された試練を通過してやっと人の心を打つ表現の入り口に立った時です、それがボクの体験です。