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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

才能とは魔法のようにたった一振りで何でもかなうわけではない。 

昨日で8日間の「儚い夢」が終わりました、今回の個展である出会いからこんなことを考えてしまいました。
それは作品を作ること全般についてです。
今回の個展で16才の時に撮った作品がありますが、まさか16の時に撮ったにしては、被写体を意図して構図を決めてしっかり狙って撮っています。
プロとして写真を始めておよそ30年近く経ちました、その過程で新聞広告のグランプリをいくつか関りました、でも16の時の集中力は今とさほど変わらないことに気がつきました。
写真とは練習して上手くなるのではなく、撮る人は最初から撮るのではないか?
逆に何年やってある域に上達しなければ、いくらあがいてもずーっとそのままなのではないかと思います。
要するに、夢中になって撮るものに出会えるか、出会えないかそこが別れ目で、撮れる人は始めから集中して撮れる、上達しない人はしない、集中する対象に出会えないからいつまでも撮れないのではないか、です。

作品作りとはある域を越えられる人と越えられない人がいるのではないか、です。
ある程度の領域は経験だけで行けます、でもそれ以上の何かが写った作品は、ごく限られた人にしか出来ない、多分それはいくらどうあがいても、行けない人には、小手先だけでどうにもならないと思います。
何かが撮れるとは、写真と心が同時シンクロしないと写らない、ただ単に写真が好きだからではどうにもならないことで、写真と心が一致する動機、それはどうしても撮らないわけには行かない切実な動機が心と写真はシンクロさせるんです。
切実な思いと写真が一体ならば、それは敢えて撮ろうとしなくても押すだけで自然に写ってしまう実感でした。
そして最後にもう一つ、ボクが写真をやっていることは傍から見れば、ずいぶん上手くやっているように思う人がたくさんいる気がします。
撮るモノ撮るモノが上手く撮れる、稲村ガ崎の海の真ん前にアトリエと家がある、手掛けている仕事は人が羨むような仕事を持っている。
そのような才能があったから順風満帆にやっている、時々そのような事を云われることがあります、でも正直に告白すればそれはノーです。たしかに人より恵まれていたこともあったかもしれないけど、そうではない。
これしか他にやれることがないから、必死に止めないで愚直に続けて来ただけです、そのうちに能力が開いて来たと云う方が正しい気はします。もしもっと世渡り上手だったなら、ボクは写真はもっと表現力はなかったとハッキリ思います。
他に選択肢がないくらい追い込まれていたからです、ちょうど目が見えない人から音楽の飛び抜けた才能が生まれることに近いと思います。
何度も何度も挫折したくなりました、足を引っ張られるようなマイナスな思い、心底イヤになってしまう思いに苛まれて来ました、そんな時、自分の心の状態に向き合い、どうしたらその思いに引き込まれないか、考えました。
業績を残した人たちは苦境をどう乗り切ったか、その記述を読んだりして考えました、そこで見えて来たのは彼らは優秀だったから業績が残せたのではなく、むしろスランプを上手く乗り切った苦境の達人だったことに気がつき、そこから学んだと云った方が話が早い気がします。 結論を云えば、人は生まれ持った運命の中でどう生きるか、それしかないと思います。