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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

理解し合うとは? 

昔、まだ人間関係についてよく分かっていなかったころ、人は胸襟を開いてとことん話し合えば、そのうち必ず理解し合えると思っていました、でも今はそんな風には思わない。
それはニヒリズムに陥って、どうせ人は分かってくれない、と思ったのではない。
そうではない、人間と云うものは、育った環境によって考え方、受け止め方、理解、価値感、思考構造が想像していた以上に複雑で厄介なもの、根深いズレが横たわっている、これに気がついたからです。
同じ問題でも立ち位置の違いで見える世界はまったく別だと云うことも大人になってから気がつきました、むしろ話し合えば理解出来るなんて、あのころよくマジメに思っていたな、と思うくらいです。

昔、中国の雲南省の国境に立ち、山の向こうにあるタイ北部を眺めて見えていた感覚と、その数週間後一旦香港に出てフライとしてバンコクまで行き、そこから北部タイまで行き、タイ国境から中国を見て感じるものがここまで違うものかとビックリしたことがあります。
立場が違えば感じることがまったく違う、この違いをどこまで話し合ったところで、せいぜい到達出来るのは暫定的な妥協案くらいが関の山ではないかと思います。
人生60年近く生きて来て感じるのは、人は話し合いによって共有出来ることなんて、本来理解すべきうちのカケラでしかない、と云うことを実感します。
要するに違う人間同士が本当に理解し合うとは、お互い同じ立場で利害を共有し合った関係からやっと理解が始まるのかも知れない、つまり言い換えれば痛みの伴わない、ただの話しだけの理解なんて本当に何か深く理解したとは云えないのかも知れない、そう感じたからだと思います。

でも、ここで思うのは必ずしも理解し合ったから良い、とも云えず、自分のことを振り返ると、案外話し合えば却ってことがおかしくなり、この人とはどこまで行っても深く理解し合えない、と思う人に限ってボクはこれ以上ないくらいのお世話になった気がします。
思うのは話し合って理解出来ることと、話し合いでは平行線だけど、感覚は理解されお世話になったことがあります。
いずれにしても思うのは話し合いで理解すると、生きて初めて理解するとは、違うと云うことの実感です。