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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

魔法植物園(10)雑草と云う名の花 



植物とは不思議なものです、それを、活かすも、殺すも、どう扱うか、その人の感性が現れます。
傲慢だったり、無力さを感じたり、儚さを味わったり、人間として年を重ね、人生の辛酸を舐め尽くして初めて描いたり扱えるものなのかも知れません。

これは昭和天皇のお人柄が感じられる有名なお話の一節です。当時の侍従のメモから拝借しました。
昭和天皇が留守中に、お住まいの庭の草を刈った侍従の入江相政に天皇は尋ねられた。
「どうして草を刈ったのかね?」
入江は、ほめられると思って、「雑草が生い茂って参りましたので、一部お刈りしました。」と答えた。
すると天皇は、「雑草という草はない。どんな植物でもみな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる、人間の一方的な考え方で、これを雑草として決め付けてしまうのはいけない。注意するように。」と諭された。 

でも、日々天皇の身の回りの現実的なお世話、事務的な雑事に追われる方にとって、これはたいへんむずかしいご注文です、特に植物博士であられる昭和天皇の御用邸の庭の雑草の扱いはとりわけむずかしい、当時の侍従の方々の苦労はいかほどだったか。
たしかに天皇の仰せの通り、「この世に雑草なんてないんだ」稀な草花もあれば、その一方生い茂るばかりでそのまま放置できない雑草もあります、そこをどうするか、その判断はむずかしく、荒れたところ、汚れたところ、壊れたもの、雑草が生い茂ったところは、整理整頓したり、取り替えたり、刈り取るのは、やはり日々のお世話係としては当たり前の職務だったと思います。

ただ植物園に通う度に痛感するのは、あまりゴージャスな花よりも、名もない草花のような花ばかりに目が向く、そんな花ばかりの赤塚植物園には何度も足が向く。
それは花を撮ることだけが目的ではなく、花が咲くその場の気配が撮りたいからどうしても、ひっそり咲く野花にばかり意識が向いてしまう。
そのうちに思うのは、そこらの道ばたで咲く花と植物園の花とではどう違うのかその境が本当に分からなくなります。巷では目を凝らせばいくらでももともと日本にはなかった帰化植物で溢れています、特に鎌倉とか葉山ではちょっと歩けばそこらにいろんな草花野花が雑草同然に溢れるように咲いています、いったい何が雑草で、何が雑草ではないのか、それについて考えざるを得なくなって来ます。
こうなって来ると、それは欠けた茶碗に美意識を見つけ出す茶道の境地です。
日本人はもともとそんな雑草とか苔とか朽ち果てたものから儚さを美として捉えた感性を持った民族です。そこにモネたち印象派の画家たちはそれまでの美意識を根本的に叩き壊されました。彼らはあの時代に茶道に通じる心が理解していたのです。
今でも鎌倉の粋な婦人たちは庭の片隅に咲く季節の雑草草花を上手く切り取り生け花に活して楽しんでいます。雑草か、雑草ではないか、その区分けはその人の人生の境地次第でなんとでもなってしまうと思います。
ちなみに画像は雑草です。