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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

鎌倉文学館で出会った萩原朔太郎 

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鎌倉、長谷近くの由比ヶ浜通を少し入ったところに鎌倉文学館という洋館があります。
建物所有は旧加賀藩、前田家鎌倉別邸だったと説明文にありましたが、この時代、鎌倉の真ん中でこんな広い敷地、大きな洋館を所有できるのは、そんな時代背景がないとあり得ない話でしょう。
その敷地は広く、背後に山を背負い、なだらかな斜面にあり、一角にバラ園がありますが見ごろと聞いてバラ園を見に行きました。
入場料を払いトンネルを抜けて建物に着くまで少々坂道を歩きます、表札に前田とあり、そこが今でも加賀藩前田家の末裔が所有していることが伺えます。鎌倉の良さはまだところどころに古い洋館が残っていることですが、そのうちの何軒かは見ることができます。
正直なところバラに関してはあまり期待はしていなかったが時期も遅く予想通り外れでした、でもそれとは別に久しぶりに文学館に来たから建物内装とか展示品を見ました、そこで僕の目を止めたのは「萩原朔太郎」に関する記述でした。
萩原朔太郎は鎌倉にはあまり長く住んではいなかったようですが一時期材木座に居を構えていました、鎌倉には文士、芸術家、旧特権階級、文化人の方々が住んでいます、彼らと知り合いになると平民ではまず触れられない世界、当時の貴重な話が聞けますが、それがなかなか僕にはおもしろい話です。
高校時代の国語の教科書に朔太郎の詩があり萩原朔太郎に初めて出会いました、朔太郎の特徴とか目のつけどころを授業で先生から聞いたことをかすかに覚えています、郵便局の光景の詩でしたが、局員が郵便物を扱う光景、通帳を手にした女工さんが故郷に仕送りするため列に並ぶ光景が描かれていました。
その印象はなんだかあまり幸せな光景ではなく、逃げ道のない鬱屈したような光景でしたが、なぜかその萩原朔太郎の鬱屈した感性は僕には親近感のようなものが不思議と感じ、もっと読んでみたいと高校生ながらに思いました、そんな昔の記憶を思い出しながら文学館で朔太郎の詩の一節を読みました。
やはり高校生の時に感じた印象と少しも変わらず同じ陰鬱な世界でした、多分これに近い感情が僕の中にもあるから共感するんだと思いますが、こんなとき、僕は毎回決まってするのはまずその作家が辿った人生背景を丹念に目を通します、この人はどんな人生を生きた人なのか、そんな疑問が真っ先に来ます、どんな背景がこの作家人生を作ったのか?です。
僕の場合その前提と背景を知らないでその人に触れることはあまりないです、どんな家系に生まれ育ち、学生時代の暮らしぶりどうだったのか?親から支援を受け続けていたのか、自立していたのか、順風満帆な人生だったのか、現実離れした苦難な人生だったのか、その人生が見えればその時に抱えていた苦悩とか思いも重なり合うように浮かび見えてきます、それは良くも悪くも生々しく痛々しく、痛みと感情を伴って迫って来ます。
どんな偉業を残した人であろうが心に痛みを持ちます、生活が思うように上手く行かない、経済的に困窮した、結婚生活は上手く行かず離婚を繰り返し家族はバラバラだった、人生の辛酸は作品にそのまま現れます。僕が見た萩原朔太郎の人生は年譜と重ね合わせだいたいが見えてきました、それは読むまでもない詩に現れている通りの人生でした。
少年期、学生時代は周囲との人間関係は上手くいかず学校は中途半端な結果で中退し妻の稲子とはわずか10年ほどの結婚生活の末、離婚し鎌倉から郷里の前橋に戻たり、東京に戻ったりで、住み処は安定せず、家族分裂で心は荒廃し、資料を読む限りでは、どう贔屓目に見たところで穏やかな人生だったとはとても言えない人生を感じました。
皮肉なことに研ぎ澄まされた感性を持ち、市井の人には触れられない裕福な暮らしを享受し、さらに幸せを追い求めた筈の人生が往々にして幸せではない結末があります、彼らのそんな例は少しも珍しくもありません。
ただそんな経緯であったにも救いだったのは、破綻を味わった筈の長女もその後、作家を選び、孫も同じような人生を選んでいるからなんと言う因果か、ことばには言い表せない運命の重みを感じさせられます、物事とは、何が幸せで、何がそうじゃないか、それらは何が何になるなんて永遠に誰にも分からないとしか言いようがないものを感じます。
それにしても、画家の藤田嗣治も同様に、この時代の趣味人の多くは、医者の家系に生まれで経済的に恵まれた少年期を送った人ばかりです、朔太郎は明治時代に高価なカメラを所有し写真の腕前もなかなかのもので、マンドリン、ギターも趣味だったらしく、あの当時前橋でそんな趣味人はいなかったでしょう。