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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

神様はいるのか? 

ドイツに長年住んでる友人の話でスエーデンでは神様を信じない人が世界一多い国だと聞きました。
神様がいるか、いないか、これは人類が延々に問い続けるテーマなんでしょう、もし、仮にいないとしたなら、どう考えても辻褄が合わないことが僕の中にあります。
じゃあ、生き物はどうやって出てきたのか?こんなに高機能で完成度の高い生き物が自然の成り行きで偶然に出てきたとはどう考えても思えません。
僕は医者ではないけど、例えば眼に関してですが眼の構造とはカメラにとても近いらしくレンズに相当する水晶体が有機物で出来ています、見た画像を映像化する網膜、ピント調整機能、絞り調整機能、これらは眼にすべて揃っています、無神論で人間が自然のなりゆきで偶然に出来上がったと言うことになります。
人間のその他の器官、眼以外にしても専門家からすれば奇跡のような構造だそうです、まともに考えれば不思議を越えたことだらけです、ここまで芸術的で完成度の高い肉体システムを何の目的と意思もなく成り行きで偶然に出来たと主張する方がよほど辻褄が合わないし荒唐無稽な説明な気がします。
また動物、鳥、魚とかも同様、僕は魚が生まれた川に戻る帰巣本能、鳥が季節ごとの渡り鳥習性に興味があります、最近「渡り鳥の神秘」についての本を読みました、鳥たちはどうやってはるか遠い目的地に間違えずに行くことができるのかについて書かれた研究本です、一通り読んだ感想は基本はすべて科学的検証でしたが、やはりどれも説得力に欠ける貧弱な検証に思えました、ルートの記憶説、耳の中にある耳石説、他にもいくつかありましたが、却って人智を超えたナビゲーションシステムに導かれていると主張する方が説得力がある気がしました。
つまり地球のシステムとは成り行き上出来上がった考えをする方が却って不自然な気はします、多分これらの謎は調べるほどほど摩訶不思議で、むしろ創造主を意識せざるを得なくなる気がします。
僕自身が感じることですが、何か越えたところに自分は何かと繋がっている、生活している次元とは別に認識しない自分がいて自分が自分のすべてを把握していない、それが時々ふっと何かの拍子に存在の自分に触れてしまう、それは閃きだったり、予知力だったり、直感だったり、表現の確信だったり、時々そうとしか説明のしようがない体験をします。
今の自分が自分のすべてと捉えるか、認識を越えた自分を意識するか、では物事の捉え方、人生の考え方、その生き方は根本的に変わる気がします。
僕は表現をする時、何かに行き詰まってこの先どうしていいのかが見えない時、答えに出会うだろうと思っています、時にはそう思えない時もあります、もちろん努力なしで答えは出ません、現実的な努力が前提ですが、答えは外にあるというよりは、もう答えは魂の自分は分かっているけど、自分が今見えていないだけなんだと思っています。
この概念はヒンズー教でアートマン(真我)と呼びますが僕は真我の存在を前提に物事を考えます、答えは外から仕入れるのではなく内側から「ハッと閃く瞬間」この感覚を大事にしています。それはなんといえば良いのでしょう、見失っていた感覚を思い起こすような感覚です、つまり僕は直感、降りてくる答えを大事にします。
それは守護霊のような存在が教えるとかではなく、むしろ運命論に近いかもしれないのです。それは始めから僕が答えに出会うことは予定されていた、そんな考えです。
逆に、そういう力を信じていないと表現されるものっていったいどんな表現になるのか理解ができない気がします、もしそうでないとしたら表現は基本的に物質的表現にならざるを得ないだろうし、そこに奥行きは限られるだろうし、そこで何かを表現する方が僕にとってよほど難しい気はします。
そもそも表現するとは潜在的な自分を描写することが表現のような気がします、そして潜在的な自分というのは他者に対し強いシンパシー力、伝達力を持っている、つまり表現自体が宗教的行為なのかも知れない。
でも一言補足したいのは、だからと言って僕は神さまが絶対に存在すると主張する側ではありません、むしろいないと考える方が「むずかしい」というだけの話です。