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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

実は目はモノを見せない 

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写真とは当然目に見えるものを撮るわけですが、この視覚的に見るということについて少し触れます。
写真を撮る一瞬は当然、目が見たものに反応して撮るわけです、多分目が見えない人は写真は撮れません、一般的には、、、、。
ところがです、僕自身長く写真をやって、見えるという視覚的な感覚には少しなりとも疑問を感じています、もちろん目に見えなければ何も撮れませんが、僕らは日常に、目で見える感覚を少しどこか過信しすぎています。
少しズレるかもしれないけど、木を見て森を見ず、という言葉がありますが、森の中にいて、木ばかりに意識は奪われて森が見えていない例えですが、目で見えるけど、実は肝心な物は何も見えていない、目では見えていないんだけど何か肝心な何かが見えている、これは冗談とかおかしな禅問答を言っているんではなく僕は写真を撮る時は、この感覚を軸としてモノを見ています、少なくとも写真で何かを撮ろうとするなら、この違いは少しは認識した方が良いでしょう。
昔、僕がまだ写真では食べていけなかったバイトをしながら生活をしていた時のことです、その時、ある施設の屋上補修の工事のバイトをしていました、毎日二人の初老女性の盲人が施設の前を寄り添って決まった時間にゆっくり通りすぎるのを見ていました。二人は毎日毎日見事なくらい数分狂うことなく決まった時間に前を通ります。ちょうどその時間は休憩時間で、僕は二人が通るのを屋上から毎日毎日じーっと観察していました。
始めは何んの意味もなく見ていました、きっかけは一歩一歩の歩き方が健常人に比べてあまりにもゆっくりだからです、一歩一歩を慎重に慎重に歩きます、多分長年の経験で杖と同じように足でその先に何があるのか確かめるように歩いてきた末に身についた歩き方なんだろうと思って見ていました。
彼女たちはゆっくりではあるけど実に見事に正確に歩いていきます、それはちょっと感心するくらいでした、車が来たときどうやってそれとすれ違うのか、障害物をどうやって避けるのか、角を回る時、どうやって曲がるのか、そのタイミングはどう判断するのか、僕にとって知らないことばかりでした、毎日毎日見続けていると次第に興味は深くなって行きます、毎日繰り返し欠かさず見るようになりました、多分、一ヶ月くらい繰り返し見続けていたと思います。
毎日、見続けた末に意外なことに気が付きました、それは僕が思っていた以上に杖なんかなくても案外自由に歩ける事でした、ほとんどの判断は杖なしで先々の障害物を察知していることに気がつきました、仮にその日車が止まっているとか障害物があった場合も、どういうわけか、何か別のセンサーがあるみたいにきちんと避けてそこを通ります。
そこまで見事なら、ちょっと行く手にダンボール一個くらい置いてみたくなる衝動が湧くくらいです、彼女たちはその先に何があるのか見えている感じで通っていきます。杖は彼女たちにとってモノを感知するためというよりも、私は目が見えていませんと周囲に告知目的で持っているようにすら感じました。
これを見た時、ひょっとしたら普通に目が見えている僕らよりこの人達の方がよほど日々モノを見て生活をしていんじゃないかという気さえしました。下手に目でモノが見ている僕らは、案外モノなんか何も見ないで暮らしているんじゃないかとさえ思いました。
この感覚は写真にとってのヒントがある気がして見ていました、僕はワークショップをする時、口を酸っぱくしてみんなに言うことは、目で見えるモノばかりに頼るんではなくて、もっと心の目でモノと話をするように見るようにと言います、でもそれがなかなかみなさんには伝わらないです。少なくとも口でいくら説明しても写真を見せても伝わらないようです。
あれだけわかりやすく説明したから、もう伝わったと思っても、後日、伝わっていなかったことを耳にします。
何かを撮ろうと判断した瞬間、そこまでは目でモノを見ます、しかしシャターを切る瞬間は、肉眼から心眼にスイッチを切り替えます、その時にどう感じるか、シャッターを切るべきか切らないか判断します。
肉眼で見える世界とは、実は意外に表現世界では肝心なモノを見せなくしています、モノが見えているようで、実はモノを見せなくしています。