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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

もう一人の自分 

最近、写真を教えている友人とやり取りを重ねて行くうちにあることを思い出しました。
彼は40代の男性ですが、写真家になりたい憧れを持っています、しかしこれまでの生き方と写真家は全く畑違いなフィールド生きてきて来ました、彼から見え隠れする彼の生まれ持ったセンスと現状にはギャップがあります。
時々出会う若手の人たちの写真表現がしたい、写真家希望する人たちを見てずーっと感じ続けてきたことですが、それについて上手く言葉にして話すことができないもの、今日はちょっと思い切って文章でそれを説明したいと思います。
人は日常生活を生きています、生まれて大人になって老人になって人生を送ります、これが私たちの認識しているいわゆる私たちの人生です、勤勉な人、怠け者の人、有能な人、無能な人、幸せな人、不幸な人、好かれる人、好かれない人がいます。人は毎日あくせくと通勤電車に乗って会社に行って働きます。
例えばAさんはいい大学を出ていい会社に入って家族がいて郊外に家があって、ここが有能で、ここが苦手で、人付き合いはまあ良くて、飲むとハメを外しますがまあ良しとしたところ、それがみんなの見るAさんの全体像だとします、本人もそれがまあそれが自分じゃないか?と思います、本当にそれ以上確かめようがないしそれが大方のAさんなんです。
一般論ではそれがその人であって、それ以外何ものでもないのかも知れません、またそれ以外の自分についてあれこれホジクリ返すこと自体が野暮かもしれません、でもやはりそれ以外、本人も自覚しない自分がいる気もします。
今現在のこれが自分だと思う自分は後天的に環境の中で暫定的に出来上がった自分であって、それとは別のもう一人の自分がやっぱり別にいる気がします、本人ですらその自分が今ひとつよく分からないのです、どうやってそれに出会ったら良いのか、それを紐解けば良いのかがよく分からないんですが、その紐解きの一つに写真があるんじゃないかと思います。

写真を時々人に教えています、人を夢中にさせる写真ですが、その根拠はやはり自分探しなのかも知れません、でも現状多くは、自分のオリジナルではなくどこかで過去見た写真を真似て撮る、アタマで考えたことを写真に撮る、なかなか心の奥まで踏み込んで写真と思いが上手く結び付けられるわけではなく、あれこれ手を焼くばかりで肝心な域まで表現力は進められない人がやはりほんとんどです。
うちに写真を習いに来る人たちに時々聞きます、「本当はどういうものが撮りたいんですか?」
なかなか多くは即座に答えられません、ことばにならないようです、どこかから写真を持って来て「こんな感じで撮りたいんです」という人もいますが言いたいことはこっちにまで伝わってきません。でも何かすごく撮りたい気持ちは伝わってきます、多分心の奥で渇望する世界を写してみたいんだと思います。それと彼らは必ずしもプロになりたいわけでもないみたいです。
とにかく写真で自分の思いを描いてみたい、そんな情動がひしひしと伝わってきます、それが具体的になんなのか、なにがきっかけかが説明できませんが強い情動が伝わってきます。
ちなみに「情動」を辞書で調べると難解に書かれています、僕が思うに、情動とは言葉にして説明できない行き場のないモヤモヤした感情、これを「情動」って言うんじゃないかな?と思います。とりあえずそれを暫定的に情動と呼びます、写真を純粋にやろうとしている人たちに共通して情動を強く感じます、逆にプロになって食べていける人からはこういう情動はあまり感じません。

人は大人になるつれて、こどものままでいるわけにもいかず、大人社会に適応するため、こどもを自主的に(無意識に)放棄します、あれこれ揉まれるので大人にならざるを得ません、感情とか自分の欲求を心の奥に押さえ込み自分がこどものころ、普通に持っていた心をどこかに置き忘れます、そして人は大人になります。 
ここでトラブルが発生します、中には本来、感覚的だった人が、大人として生き方を変え、感覚を封印し、感覚をどこかに置き忘れ、長年封印した状態で生きます、もちろん自分だって何か違和感を感じてはいてもどうにもなりません、それが生きるって解釈します、食べるために人生を放棄するわけにも行かず自分の感情を押さえ込みます、ところがある日突然、本来の自分の感覚を克明に思い出し、もう言葉にならない思いを感じる人も中にはいます。
僕の知り合いにはそれで長年勤めたエリート銀行員を止めてパン屋さん修行をして見事に転職した人もいます。
それができる人はいいですが、そうじゃない人は葛藤が始まります、その感情たるや、凄まじいもので慟哭っていうのでしょうか?激しいどうにも身動きの取れない感情です、イエスが言ったように「人はパンのみに生きるにあらず」じゃないけど、これを魂と言ったらやや大げさですが、やはりこの感情の出どころはやはり深い心の霊的なものであって、霊的な部分は確かにあると思うんです。
霊的ってオカルト的ですがそれではなく、心の奥深くにある潜在的な意識世界とでも言えばいいのか、その思いが霊的という意味で書いています、僕らは肉体的に生きている部分と霊的に生きている部分が確かにあると思います。
それを表面意識と潜在意識と言えばいいのか、確実に実生活に感じている意識と実生活では感じられない深い部分の意識世界があって、それが魂じゃないかと思います、魂とは何も死んだ人だけのものではなく生きてる人も抱えていると思います。
ちなみに、魂に繋がる表現は実態がある作品、もしくは本物の作品と言われる所以じゃないかな?と思います。