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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

村上春樹の新作、この冒頭についてあれこれ 

待ちに待った村上春樹の新作「騎士団長殺し」についてです、その前に世の中にはネタバレを嫌う人がいます、ここで僕は冒頭部分に触れますが、僕自身まだ最後まで読み切っていないので、これがネタバレかどうか判断がつかない、それを嫌う人は読まない方が良いかもしれないことを断っておきます。
この話の主人公はこれまで一般的な肖像画で、人気作家と呼ばれそれなりな収入と暮らしをしてきました、ところがこれまで上手くやってきたと思っていた奥さんからある日突然これ以上あなたとは一緒に暮らせないと離婚を通達されます、彼は呆然とし家を出てクルマで北海道、東北を転々と放浪し、彼はこれまでの肖像画の仕事を続ける気がしなくなりエージェントに今後肖像画はしないと通達します。
住む家がなくなったところ、彼の美大時代の友人が小田原の山に親父の別荘が空いているから良かったら住んでくれないかと持ちかけられ、そこで世の中から少し離れた暮らしを始めたところ、突然またエージェントから連絡があり、今後やらないと断った肖像画を描く依頼がまた舞い込んできました、その条件が破格の値段でしかもこれまでのような肖像画は描かなくてもいい、一切は自分の好きに思うように表現して構わない、ただし写真を見て描くのではなく実本人をモデルにして描くことが条件でした。
彼は一旦は断った仕事です、でも少し迷いましたがその話を受けることにし、それを描いたことがきっかけで彼は新しいインスピレーションを獲得し画家としての新境地を踏み出します。また彼が間借りしているその別荘の持ち主、友人の父親は日本画壇で名を馳せた人ですが、今は介護施設に入っています、あるきっかけで屋根裏部屋で未発表の絵を見つけ出します、そこからその絵と彼の肖像画と別荘を舞台に話は展開して行くと思うのですが、僕自身まだそれ以降を読んでいないし、この話についてここでこれ以上書く気は今はまだありません。
今日ここで取り上げたのは小説本題とはちょっと外れた話題です、主人公の画家がこれまで収入のために描いてきた肖像画ですが、特に実本人をモデルに対峙して描いていくのではなく本人写真を基に画家として適当に手を入れ絵として一般の人を上手く納得させる肖像画に仕上げて行く仕事を続けて来ました、それなりに人気作家で収入もあったようです。
それはある意味では芸術家としての画家の仕事と言うよりも生活のための画業でしたが奥さんとの暮らしが破綻をきっかけにこれまでのように肖像画を続ける気がなくなってしまいました、そして突然舞い込んだ肖像画がきっかけで彼は新境地を体験します、僕が今日書きたい話はここです。
彼は依頼された肖像画は何度か依頼主に出会い話をし、まず最初何枚か下書きから始めます、それがどうも彼には薄っぺらい、何かがなかった、そしてもう一度、やり方を換えて描きます、あまり細部まで覚えていませんが、結果的にはこれまで仕事の描き方とはまったく違った描き方で仕上げた時、絵は本人にとってやっと出来たと思った瞬間だったそうです。

さてここから個人的な話になります、僕はまだ駆け出しで絵について写真について表現のイロハを何も知らなかったころ、僕にとって衝撃だったことがあります、それは「上手いんだけど、よく描けているけどつまらない絵」という概念でした。上手いけどつまらない心に響かない、そんなことこの世にあるのか、と思いました、あの当時の僕は上手いから人は感動するんだろう?と信じて疑いませんでした。
また春樹氏は回転木馬のデッドヒートのあとがきにこんな一節を書いていました、人から聞きだした話を文にする時、聞いた話を正確に文に置き換えれば事実を書いたことになるのかといえばそうじゃない、話のトーンを正確に捉えていなかったらそれは嘘の話なる、逆に話の事実関係を少々自分勝手に入れ替えたり付け足したとしても話の重要なトーンを正確に再現したなら、嘘であってもその話は本当になる、とあった部分が印象に残っています、要するにそこで僕が学んだことは「物事のリアリティー」とはこういうことです。
別の言い方をすれば、世の中には嘘のような顔をした本物があったり、その一方、本物のような顔した嘘もあったり、本当の姿とは世の中でいう本当とはなんだかちょっとズレがあって場合によってはそれはもっと直感的な領域のモノなのかも知れないし、ある意味で確かめようのないことなのかもしれないし、、、、、。

それで僕らプロカメラマンは普段広告とか出版とかから仕事をもらって撮影してギャラをもらって生活しています。もちろんそれ以外のジャンルのプロカメラマンだって当然存在しますが、、、、。
こういう仕事は純粋な意味において芸術作品かといえば、どう贔屓目に見てそうではないと僕は思います、広告ですから広告目的のためにあれこれ手直しします、撮影後の合成も当然あります、タレントをスタジオで撮って海外のリゾートで撮ったように背景と合成する場合もあります、決められた予算と条件範囲で広告目標に沿って上がりを作らなくてはならないから不確定な表現法は通常は採用されません。
広告とはインスピレーションが伴う偶発的なファンタジーも通常は採用しません、確実に結果が出るファンタジーを求めます、これがしっかり認識していないアーティストは使ってもらえません、早い話これらはデーターのしっかりしたストックの出し入れ作業です、でもこればかり毎日やっていたらもはや芸術家ではありません、「上手いけど心に響かない」そんなことしかできないアーティストになります。
決められたスキルの出し入ればかりでは、直感的なインスピレーションはまったく使えなくなります、使えなくなるというより最初からそんな神秘的ワザが使えないからその世界のアーティストになるんだと思いますが。
個人的な話になりますが、僕は数年前、鎌倉の十文字さんのギャラリーでトータル4回個展をしました、始めた当初はあんな広く立派な空間を場に負けず充実した展示をするとは、なんと敷居の高いことと思って緊張感を持っていました、しかし回数を重ねるうちに高かった敷居の場を隙間のない充実した空間として作品を埋めるくらい、僕にとって容易いことになりました、またプリント販売目標に個展、作品制作することにも徐々に疑問を感じ始めました、もちろんそれだけではないのですが、少なくとも感じたのは、この場で発表することを前提に作品を作ることにも回を重ねるうちに疑問を感じ始めました。
そこにあった気持ちは、自分はもっと上に行ける潜在力をもっているはずなのにまだ全力を出し切っていない、と思いました。でもだからと言って自分が何を具体的にどうすればいいのかはさっぱり先が見えません、でももっと奥の深いものに挑戦しても良い気がし始めました。そして取り敢えず選んだのはデジタルカメラで魔法植物園を撮り始めました。
魔法植物園を始めるにあたって、そこで決め事は、これまでのモノクロ作品を一旦置くこと、独特なモノクロ手法でポイントを稼いできたやり方から一旦すべて決別すること、同じようにカラーフィルム表現もプリント手法に寄るんではなくあえてデジタルカメラを使用した表現をしてみたい、ついでにデジカメを使いこなすこと、デジタル画像処理をここで学習する。
さらに作品は額装してプリント販売が目的ではなく本として見せたいのが目標でした、個展と本では作品の作り方は変わってきます、(少なくとも僕はそうでした)さらに作品には背景に物語があって、物語に沿って写真は展開して行きます。逆にこれまでは背景に物語がなかったワケではないけど、今ほどハッキリはしていなかった。

それでいざ作ってひしひしと感じるのは、これは注文を受けて撮っている作品ではありません、どこに辿り着くかは 自分の内面世界次第です、それは個人的な世界です、そこが葛藤なんですが自分の個人的自己満足な世界をわざわざ作品にして人に見せたところで仕方がないと言う考えも確かにあります、でもそれがある域を超えられたモノにまでなれたらそれは人と価値観が共有できる領域、普遍になれるのかも知れません。
それは単なる個人的な愚かな挑戦で終わるのか、高尚な挑戦になれるのか、そこはやって結果を出してみないとなんとも言えません。
それで今日の最も重要な問題点は、もっと上に行けるはずだと感じた、この上とは何を指すのか、作品はある域を超え深めたい場合、どうしてもそこで問われる曖昧にしてはならないカギは意識界のリアリティーです、目には見えない意識の世界に対してどこまでリアリティーを持って心の目でそれが見えているのか?そこがカギです。
ここで文で上手くそれが説明ができなくとも作品で展開できればいい話です、今回の僕の魔法植物園はいよいよそのリアリティーをどこまで踏み込めるか、、、、、それが今の僕の課題であり葛藤です、でもそこに間違いなく踏み込んで行ける確信があります。
今のことろ、新作を読んだ限りでは春樹氏の今回の作品はそこに触れた作品と僕は解釈していますが、さてこれからどうなるのか、まさか今後まったく期待した方向とは違ったところに行くのか、やっぱりそうなのか、不安も混じりでもありますがちょっと楽しみです。