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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

発達障害について(2) 

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前回は発達障害について書きました、今日もその続きを書きます。
前も書いた通り障害として呼ばれるのはちょっと抵抗を感じます、変わった個性くらいにして欲しいものです。
僕自身の感じるところでは、発達障害と言う概念が世の中に登場する前から、この感覚は僕にとって日常問題として感じていたし、その問題に振り回されて大人になったくらいありふれた感覚です、興味のない物事にはいくら足掻いても集中できない、学校の授業学習能力が並以下であること、でもそれが知能が低いこととは別問題だという感覚もだいたい高校生のころからすでに認識していました。
しかし、それがアスペルガー症候群、ADHD、発達障害、高機能自閉症、ディスレクシアという先天的疾患が影響してること、そういう障害があることまでは知らなかった、でもそういう人は多分世の中で表に出ないだけで潜在数は想像以上に多いこともうすうす感じていました、それがある時テレビ番組でアスペルガー症候群についての番組を見た時に、ハッとし、これはまさに自分と同じような問題だと思いました。

写真的にはこの傾向は才能をもらえたと実感します、例えて言えば、世の中によくいると思うんですがあまりそれに夢中になりすぎて他ごとがまったく心から消えてしまう人、そればかり夢中になって持っていた物すべてどこかに置き忘れてしまうこととかです、カンタンに言えばそういうことです。
これから話すことがみなさんに理解してもらえるか分かりませんが、僕は中学生の時に蒸気機関車を撮ることをきっかけに写真にかなり夢中になりました、世の中では鉄道マニア、撮りテツと言う概念で片付けられがちですが、彼らは同じ鉄道写真でもどちらかといえば写真は鉄道車両記録コレクションが主な目的で撮っているようで写真を美しく撮ることとは別問題です、例えばで300系車両を撮る、200系はレアーなのでどこまででも撮りに行く、そんな感じが興味の大半です。
僕自身もその傾向は多少はありましたが、それより写真として良いものが撮りたい、鉄道を撮ること以前に写真として成熟した表現を探し求め写真に向き合っていました、当時の写真を見てもヘタとか未熟だったとかまったく思わないです、よくまあこんな写真をあのころに撮っていた、今と比較してもなんの遜色もないのに驚きます。
撮ろうとする世界に心が入り込んで撮ることをもう既に知っていた、確かに今の方が技術的に、経験的に達者にはなりましたが、撮るものにまっすぐ向き合って、それをどう撮ったらカッコよく写るのか、それだけを純粋に深く考えていました、物体としてどうかよりも、その存在感が何を語りかけて来るのか、それはある意味で芸術の根本的な視点だと思うんですが、僕はそれはすでに中学高校生のころにはそれを問い続けていたと過去の自分の写真から感じました。これはちょっと驚きな気もしますが、言い換えればそんなことはもう中学生になればあっても不思議じゃない気もします。
これは年齢はあまり関係はないし、経験でもないし、生まれ持った直感的なものだと思います、それを今、表現のプロたちから、高校生ですでにこんな写真を撮っていたことは驚きだと言われますが、、、、撮る人は始めから撮るし、何年やったから という問題じゃない気がします。
高校生だからまっすぐに行けるのを感じます、、、、確かに高校生ではまだそこまで執着心と集中力が養われていないのかも知れないけど、、、、言えることは、何かに夢中になると、普通では入れない領域に入れる能力を僕は持っているのはどうやら確かです。
それをどう説明すれば上手く伝わるのか、、、、、?写真を通して何かを捉え表現する、その原理原則みたいな物が自分の意識の中で、もう重要度がすでに高い位置に意識が持っていたと説明すれば良いのか?これは生まれ持った感覚なので、誰かから教えられて身につく物ではない気がします。逆に始めから持っていれば才能があるし、それがあれば自然に開花するし、それがなければいくら学んでも身にならないだろうし。
でもそれは必ずしも日常生活にはプラスばかりではないです、そのために苦労すること、失う物は多々あります、言い換えればそれが意識の高い良い位置にあるとは、みんなが普通に持っている感覚がないことを意味します、普通の感覚が低いとも言えます、授業中に先生の話が面白くなければじっと先生の話が聞けないし、前の女子の髪に止めたシュシュが気になって授業に集中できないとか、教室の片隅のポスターが気になったり、注意力散漫を引き出しますし、常識では扱いにくいタイプ、社会不適合な人格になりやすい条件が揃っています。
その因果関係は多分普通の人には分からないと思います、それについて書き出せば、延々にキリがないくらいに書けます、でも一つ一つ文にして説明がつけにくいのでこの辺にしますが、どうやら神様は人間というものに対して、ある種の才能、能力はその反動も同時に与えます、プラスがあるがゆえのマイナス面も引き受けざるを得ないようになっていて、この世には一方的なプラスなんてありませんし、一方的なマイナスだってないのかも知れません。
それと前にも少し触れましたが、この障害がどうであるかよりも、もっとも厄介に感じることは「普通なら〜だけどあなたはどうして〜なんですか?」と言われることとか、この障害を抱えると世の中とはズレたとこで物を感じたりするので知らぬ間に世の中で斜に見るクセがついてしまいます、つまり二次障害ですが、そちらの問題の方がよほど厄介で深刻です。
この時代もし子供がこれを抱えていたら親がそれに対してどこまで受け入れられるのか、それをどう見守れるか、そこが能力に変えられるか、ただの障害か、それがその子の運命の決め手になる気がします。