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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

才能のある人とはスルスルできる人ではなくスランプを自分の意志で越えられる人を言います、 

以前は定期的だったワークショップは最近は気が向かず中断しています、結局のところ表現とは教えるものではなく本人たちの気持ち次第で、できることはせいぜい、そのきっかけを作るくらいしかできない、、、、後は本人の気持ちの問題じゃないかと思います。
早い話が撮 れるヤツは誰かから手取り足取り教えられなくても自分自身で考え、失敗と試行錯誤を繰り返し撮れるようになるし、撮れないヤツはどれだけ教えたところで自分で物事を突っ込んで考えたり試行錯誤をしないから表面的にしかモノは考えられない、これでは何年やっても撮れないままです。
仮に資質を持っている人が壁に行き当ってスランプで動けない、でもその個性は、自分はどうして上手く行かないのか、どうして撮れないのか、何にどう向き合えばいいのか、何が合っているのか考え試行錯誤をします、才能のある人はスランプ知らずに思われていますが、これはとんでもない間違いで、歴史的に大きな結果を出した人は凡人では考えられない大きなスランプを例外なく通過していると聞きます。

とは言え出会いは大事です、僕は写真家を目指すために東京に出ました、故郷の名古屋では魅力ある写真家には出会えない現実を肌で感じ何もできないと判断し師匠と呼べる人に出会いたくて上京しましたが、そこに尽きると思います。やはりそういう生き方を現実にしてる人に出会わないとどうにも先に進まなかった気がします。
でも人は都合が良いもので僕は有田さんに出会い助手にしてもらいましたが、そこにいた時は存在の大きさ、出会いを日々褪せることなく感じ続けられなかった、そこを止めて自分で撮るようになって有田さんのセンスの凄さをあらためて実感しました、センスという言葉はああいう人のためにあると思いますが。
僕は有田さんの横に置いてもらって何を学んだのか、、、、たしかに有田さんの撮影現場とか有田さんが何気に撮った洒落た写真を何度も見せてもらった、でも結局は僕は有田さんに「出会いをいただいた」そんな気がしています、有田さんとの出会いによって僕の埋もれた思いを引き出してもらったけど自分でそれが引き出せたかは今でも疑問です。
この人に出会えたからこれがある、、、、出会いとはそういうものです、でも有田さんは人に何か教えることはほとんど関心がなかった方です、要は自分が有田さんに出会って触発されたわけですが、それが出会いの本質じゃないかと思います、でもそんな出会いは人生で何度あるのか、、、それくらい稀な出会いで多分そんな出会いの体験がない人の方が世の中では多いんじゃないですか?
人生とは皮肉でかつ面白いものです、僕にとっては有田さんは貴重な出会いでしが、当時の僕はそんな風に几帳面に受け取れなかったし、相手にとっても良い出会だったかは疑問です、少なくとも僕が止めてから付き合いが続いたわけではないし、渡米された有田さんにいつか会いに行きたいと思っていたけど、それも叶わず有田さんは数年前アメリカで他界された。

話は戻りますが、人に何かを教えることの限界は、自分が思うこと、感じることは、相手は同じように受け止められないわけです、他人の感じ方は何から何まで違うわけです、人生背景も違う、資質も違う、興味の対象も、描きたいことも、目的地と到着点、感性も違うわけです、受け皿が違う、生き方が違うから、何かを教えたくても教えようがない、これが現実です。
せいぜい出来ることはきっかけとか出会いを作ること、それと根気よく相手に関わることですが、残念なことに僕にはその関わり続ける根気は少しもないしです、そこまで人に何かを教える熱意はない。そんなわけでもし仮に人との出会いで人生が変わったり、何かを学べたなら、、、、それは稀な出会いだったと受け止めるべき確率かも知れない。
友人で陶芸作家がいます、元々その方は医学系の家系で、その方は数学を専攻して今は陶芸をやっています、どうして数学を学んで陶芸に来たのか?と聞くと、その方の言い分は大学に行った意味は「これは(大学で学んだこと)今後の人生の選択肢には絶対にない」それを知るためにわざわざ大学まで行ったようなものだ、、、と言っていますが、なんとももったいない話に聞こえますがどこか妙に納得して聞いていました。
少し難しい言葉で「邂逅(かいこう)」って言葉があります、ネットでは偶然に出会うことの意味に書かれてありますが、僕自身の解釈ではそれはどうも薄っぺらい説明にしか聞こえないです、邂逅とはそんな表面的な出会いを意味するのではなくもっと心の深い埋もれた記憶を呼び出すような根源的な出会い、または先に書いたように、この出会いは出会う前から予定されていた出会いで、出会うべくして出会った運命的な出会い、宗教的境地の出会いを意味してると僕は思っています。
世の中の格言に他にはこんな言葉があります「出会って出会えず」「木を見て森を見ず」それらの意味は出会っているけど心は出会えていない状態、出会っているけど個々の木しか見えておらず森としては見えていない状態、その違いが理解出来ない状態ですが人生なんて多くはそんなことばかりな気がします。
表現とはそんな疑問を解き明かし続ける行為です、それは誰かから手取り足取りで習うものではなく、明解な答えだってそもそもなく、自分で考え続け、表現する行為が表現活動であって、そこを自分で解き明かす熱意のない人には教えたくても何も教えられないのが現実で、それを最近痛感しています。