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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

写真で必要な考えとムダな考えのお話 

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写真を始めたころの気持ちを思い出し、それについて書きたいことがあります。
僕も、いっ時、写真を撮ることが、気持ちが重たくて、どうしてもアタマで空回りばかりして、何も撮れなくなったことがありました、そう言えば、そんなことが、あったな、、、そんなことをふっと思い出しました。
僕はこのブログで、写真を撮るとは感覚を使って撮る、と散々書いたり、人に話してきましたが、冷静に考えたら、そう言うことは、その壁に出会って壁を越えた経験がない人に、そんなこと、するするとできるかなとあらためて思った、僕だって、いっ時、写真にガンガラ締めになって、撮ることがまったく出来なくなったことがあったな、、、、それを思い出しそれについて書きたくなりました。

プロになる前のアマチュア時代は何を撮っても、あまり考えないで撮ってもだいたいは周りのアマチュアより上手く撮れたから、写真を撮ることは楽しいばかりで苦労はなかった、と言うより僕の場合、世の中では、学校で、人の集まる場で、何をやっても周りとは協調ができないことがくて上手く行かないことが多かった、その苦労に比べたら写真を上手く撮るなんて、個人的行為で完結するから、僕にはすごく楽でカンタンだったし気楽で仕方がなかった。
逆に周りの人たちの写真を見て感じたのは「みんな、下手だな、、、」そう思った、写真にのめり込んでいないし、自分で何をどう撮ろうか考えていないし、写真に夢中になっていない、それが写真にはよく出ていた、写真が自分のモノになっていない、それが伝わって来るのがとにかく多かった。
でも、たまにいる上手い奴の写真を見せてもらったり、彼らの話を聞いて圧倒的に感心した、やっぱり上手い奴には理由があった、自分なりにいろんなことを考えていた、考えたことを実験して答えを出して、写真を楽しんでいた、つまり写真を自分のモノにして撮っていた、上手い奴と下手な奴の明らかな違いは、センスとかどうのこうの以前に、自分のアタマで考えて、それを実行してる奴だな、、、と思った。

それでプロを目指して上京した、あのころ26歳にもなって写真学校に行っていない奴がプロを目指すのは条件が悪かった、助手、スタジオアシスタントは雇ってくれる場所は少なく、なんとか苦労して入り込んで感じたのは、自分がほんとうにちっぽけに感じた、写真は何年もやっていても、学校に行っていない分、スタジオの知識はほとんどなかった、現場について行くことに必死で、自分の考えなんか一瞬でどこかに飛んで消えてしまった。
スタジオでは連日最前線で活躍するカメラマンがやって来て、その撮影現場に入ってカメラマンの助手のヘルプをするのが僕らの仕事だった、でも撮影のテンポはあまりにも早く、それについて行くのが必死だった、雲の上の存在だったカメラマンが目の前にいたり、有名なタレントさんが連日来たりで、昨日まで名古屋の田舎者だった者には自分の考えどころか、そこは圧倒的にすごいところで毎日めまぐるしい場だった。
そんな修行時代を経て大御所カメラマンの助手に雇ってもらい業界頂点の空気を一通り吸わせてもらった、名古屋にいた頃を思うと上出来なくらいいい場で経験をさせてもらって僕の修行は終わった、さてそろそろ僕もこれからカメラマンの準備をしよう、まず自分の写真(作品)を撮らないと、、、、、。
さて、いよいよ自分の作品を作ろうとするが、、、そこで何を撮っていいのか何も浮かばない、モデルさんを撮るにしてもどんな風に撮ったらいいのかピンと来ない、何かするにしても明らかなモノマネはする気になれず、さりとて自分が撮りたいイメージはほとんどない、アタマがフリーズして何も考えられなかった、これではまるで話にならないと自覚した。
これまでは助手だけに専念してたから自分が撮る立場で考えたりしなかった、それがこれからは自分で撮って人に認めてもらう立場にならないと行けない、後で気がついたんだけど、そう言う立場にならないと人って感心するくらい何も考えていないんだな、、、思った。やはり人間って、物事を1から10まで自力で考えるのは、追い詰められないとなかなかしないな、、、、、思った。
助手時代にヒマ見て撮っていた作品は、工場地帯とか、無機質な倉庫街とか、そんな人里離れた非日常の風景ばかり撮っていた、今ならアリかと思うけど、当時はそんな作品だけで営業するのは話にならない、もっと現実的な作品を撮らないとダメだと、、、気持ちは焦っていた、もっと広告っぽいものを少しは撮らないと、、、と危機感を感じた。
でも振り返って見ると、そう言う行いが後にコマツの広告を担当して役に立つんだけど、、、その頃はそんなこと考えたこともない、そのころ僕は家内に出会って結婚した、カメラマンになるにも、まだ時間がかかりそうだ、まずどこかで働かないことにはどうにもならない、自社スタジオを持ってる小さなプロダクションで暗室マンの募集を見つけ雇ってもらった。
休みの日にスタジオで作品作り出来るからそこに入った。日曜日に出てきて作品撮りを何回かしたけどしっくり来ない、撮っても撮ってもダメ、先が見えない、それに連日遅くまで残業が多く体も持たないし、その環境にストレスや限界を感じた。
果たしてこんな生活がこのままずーっと続けられるのか、物事の流れが上手く行っていないのを実感した、こんなことこれ以上続けたところで何にもならないと感じ、さてこれからどうしようか考えた。
あのころは、先が何も見えない、自分の写真の能力にも自信がない、自分が果たして本当に業界で通用するのか、何の当てもない、 やっぱり仕事がどんなにつまらなくても、収入保証がちゃんとある生き方がしたい、安定した人と結婚したい女性の気持ちは痛いほどわかる気がした、若いころは自分になんの実績もないし、自信もないし、考えて見たら、かなり不安定な時期だなって思う、世の中では若いってことを美化するけど、僕から見たらこんなに自信がなくて不安定で、こんな残酷な時期はないと思う。
そういう先の読めない壁はみんなが体験する共通の壁だと思う、それを自分のアタマで考え、上手く越えられるか、そんな環境にいて自分の作品がちゃんと作れるか、作れないで終るか、神様から試される時期だと思う、超えられるか、越えられないで終わるかの分かれ道だな、、、と思う。
僕の印象は、そういう環境にいると、それは何か呪文にかけられたみたいに身動きが取れなくなる、写真は撮れなくなる、撮ったとしても誰かのモノマネになる、そんなフォリオを作って、営業に行ったところで仕方がないと思っていた、でもずうずうしい奴はそんな作品でも堂々と営業に行って仕事を取って来るから世の中は所詮はやったもの勝ちなんだと思った。
それで僕は、家内と一緒に旅に出る決心をした、旅で作品を撮る、自分に向き合い自分を取り戻す、そういう道を選んだ、今思えば、これはなかなかの冒険で、それは結果を出せないでダメになって終わる奴の方が圧倒的に多い、何も知らないことも、時には役に立つ、これが下手に先読みに長けていたら、確実に物事を考えられる人なら、まず絶対に選べない道だって今になって感じる。
要するに広告界とか写真界に足を突っ込んで業界通になると、変に利口になったり、あれこれ考えすぎたり、物事を難しく考えたり、業界の常識に押しつぶされたり、おかしな考えに洗脳されたり、そういう奴が案外多い、自分の考えで生きられなくなって、結果的に潰されたり、自信を失って自滅したり、そんなケースが多い。
かと言って、何も知らないまま、自分の考えでやって行く、それもそんなにカンタンではないしそれなりの図太さが必要です、それは写真界だけに限った話ではなく、世の中全体に言えることかも知れない。
旅に出て結果を出す、結果を出せない、9割は上手く行かなくたって、数字なんか関係ない、要はその人がどれだけ本気で、どれだけ質の高い作品が撮れるかが決め手だと思う、良い作品さえ撮ったら、見せて歩けば、そのうちにビックチャンスにどこかで出会うし、作品が悪ければどんなに確率が高くたって、ダメなものはダメだ、

さて、それでインドに真っ先に向かった、僕はインドは2度目の旅だった、その当時藤原新也さんが流行っていた時代で、助手経験者がインドにカメラを持って行くってことは、だいたいは藤原さんがアタマにちらほらしてたと思う。そう書く僕も相当影響を受けた一人で、インドの旅の最初の一ヶ月くらいはカメラを持ったらいつも藤原氏にアタマを支配されていた、我ながらバカらしく感じたくらい自分を見失い、何かを影響されていた自分に驚いた、でもどうにもならない。
それくらい日本の下積みで染み付いた垢はしつこい、それがある日、ボンベイの街で決定的な出会いをした、そしてその街を撮り始めた、撮りたい感情より、集中して撮ったら何が撮れるんだろう?撮りたいよりも撮るしかないと言う感情が先だった、街は日本では絶対に出会えないすごい街だった、そんな街に出会って、撮りたい、撮りたくないなんかもうどうだっていい、撮らないで素通りする方がバカだと思った、どうせ毎日することなんてない、時間なんてたっぷりある、、、それが旅の良いところ。
要は日本で染み付いた垢をここで振り払いたかった。ここでそれをやらなかったら、この旅に来た意味がない、それくらい決定的な出会いをそこで感じた。

話は長くなるから、結果だけ書くと、何かに向かって体で撮る、アタマではなく官能的に撮る、それをそこで初めて味わったし、そこにある凄いものをカメラで向かって行く、そう言う感覚は日本で感じたことがない、そんな感情をそこでたくさん味わった、日本で写真を撮るとは、それが皆無とまでは言わないけど、そう言う感情ではほとんどない、撮ることは官能的ではない、もっと理性的で、決めたことをきっちり、ソツなく、高い完成度で仕上げ、高いギャラをもらう。だからどうしても物事はアタマですること、官能的にすることの区別、その見分けが付かなくなる。
どっちがいい、どうかは、さておき、まず旅でしたかったのは、感覚で撮る、自分の考えを取り戻す、アタマではなく体で撮ること、旅で作品を作ること、これらの課題はすべてが満足ではないにしても、予想以上に達成したと思う、ただそれを日本に持ち帰って必要としてくれる人に上手く出会えるかどうかは別問題だったけど、結果的に旅を繰り返して、中国の少数民族テーマに出会って、それを発表して、悲願のカメラマンデビューは果たせた。

でも旅の後遺症もやはりあった、旅では絵になる素材がたくさんある、もちろん旅ですぐ撮れるわけではないけど、探せば日本よりはいっぱい見つかる、あくまでも僕の話として、日本は熱中して撮りたい被写体を探すのが苦労する、特に自然以外の人工物は、ほとんど物足らない、生ぬるくてつまらない、街は日本中どこに行ってもだいたいつまらない、目を奪われる被写体が日本にはほんとんどなくなっている、物事はほとんど人の管理によってフタをされてつまらなくなっている。
あの当時の中国の山奥ならまだ観光化されていないところは、人の手垢がまだ付いていないおもろいワイルドなものがまだあった、可笑しな格好をした少数民族がまだ探せばパラパラいた、なんせ、彼らは正真正銘の田舎者たちだから、写真に撮られるのが初めての人なんて何人も撮った、そう言う人たちの民族衣装姿をずらっと並べて撮るのは面白かった、でも日本に帰ってくると、何もかも気落ちした、、、、見るものすべて鮮度が落ちた魚みたいで、覇気がなくてどうしようもなかった。
これじゃあ、ムリもない、撮れなくなったわけだ、、、、と思った、でもそんな日本でカメラマンでやって行くには、それを上手く撮るしかない、みんなには撮れない何かを撮るしかない。あのころは日本を出たら撮れたけど、国内でこれを撮ってくださいと仕事をもらっても、個人的に撮ろうとしても、どうもにもこうにも上手くかっこよく撮れない時期がずーっとあった、結構これには苦労した。
結局そこを抜けた大きなきっかけは、、、、上手く書けないけど、撮る照準を徹底してメンタル表現に絞った、それを光とか、色彩とか、モノクロの場合なら、階調表現とか、古いモノクロ表現を再現したり、それなりにズラして撮らないと面白くない、先日植物を撮るなら、自分の世界観にズラして撮らないとつまらないもしかならないと書いたのはそういうことです、
あるものをそのまま、見たまま撮っただけでは、そこに何の面白みがない、自分なりに視点を持って、それに合わせてズラして撮って、そのズレの面白さとか、不思議さを表現して撮らないと面白くないと思った。例えばここにあげたヒツジ草のカットもそうです、白をほんのり光らせるように意識して撮らないと、ただの普通のヒツジ草の写真でしかない。

それで、話をそろそろマトメると、写真を撮るってことは、やはり撮り方とか見せ方とか仕上げ方をイメージし考えていない人の写真はつまらない、誰かが過去にやったことをそのままモノマネし、お決まりのパターンを、如何に上手に撮っ多としても、そんなに見慣れたものでしかなく、心はそれに惹かれない、ほとんど見飽きたモノで終わる。
かと言ってアタマで考えただけのことを写真にしただけのもの、これもマジにつまらない、そう言うのは少しも心に響いてこない。逆にまだ写真を始めたばかりだけど、不思議と直観的で撮れる人が世の中には稀にいる、そう言う人の写真は下手だけどゾクって来てすごいと思うしやられた気分になる、そういう直観は間違いなく写真に写る。
やっぱり写真が良い人はいっぱいいろんな方面で考えている、いろんな写真も見てるし、何をしたらカッコよくて、どう表現をすれば人の心を捉えるのか知ってる、何をすべきで、何をすべきじゃないか、写真の見せ方、作品の組み立て方、広告界の大御所はそう言うことをよく知ってる、要は写真に対していろいろ考えているな、、、と思わせる。
僕もこれまでいろいろと写真について考えて来た、でも最後に、これは僕の経験だけど感覚を表現するって、ここではアタマでものを絶対に考えてはいけない時が一瞬ある、シャッターを切る時はアタマのスイッチを切る、アタマで考えるだけ写真をダメにする、感覚がすることはアタマにさせてはならない、残念だけどそこが分からない人がとにかく多い。
僕はあの時、日本を飛び出して旅で知った一番重要なことは、アタマで考えるべきことと、アタマで考えてはならないこと、そこは感覚に任せるしかない、感覚がうまく働いてくれない時は、働くのをじっと待つしかない、そんなことも旅で知った。