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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

散歩の途中でふっと感じたこと、 

村上春樹氏が自身の著作「職業としての小説家」という本でこんなことを書いていた記憶があります。
正確なことばは忘れたけど、そこに書かれた意味は、小説を書いていないけど充実した良い時間が持てたなら、それが一番良い時間です、僕の解釈はつまり執筆活動で大事な時間とはペンを持たないけど、創作にまつわる充実した良い時間を持つこと、執筆を生業にする春樹氏にとってそれは一番大事な時間なんだ、と書いていたように受け止めています。
それについて僕はこれまで何度も考えてきました、でもこれまでいくらそれについて考えてもそれに手応えを感じたことは特にはなかったんですが、やっと少し納得したような気がしています。
これは前にも書いた話ですが植物園の作品についてですがその作品は1点1点を見ると、まあ作品として良いとしても、それが全体に距離を置いて引いた印象となると、なんだか描きたかったものとは違うような、、、、ハッキリ言えばどうしてこんなものしか写っていないんだろう?そんな気持ちになります。
なんだか広告写真家が作ったような、、、、(僕だって広告写真家ですが)見た目はきれいなんだけど、奥から来るスケール感とか遥か遠くから来る日常の概念を壊すようなメッセージが何も感じられず、始めはこの作品は写真集を作ろうと思って始めたんだけど、出来たものを目の当たりにして、これじゃあお金の無駄でしかない、少なくとも大金を投じてまで本を作る気はしない、そんな気持ちになりました。
それはどうしてそうなのか?あれこれ考えますが答えは一向に出てきません、しかし答えが曖昧なまま、あまり長い時間作品に手を出さないで放置し続けていたら、本当に見捨てられた廃墟のような作品になってしまう、、、と思いながら、かと言ってまた同じことの繰り返しをする気になれないし、、、それで作品から離れて1年近く経ちました。

作品作りから離れて、こんな空白な時間ばかりいつまでぶらぶらしても仕方がないし、、、、また新たな作品に着手したいな、と考えるんですが、それもまた勢いで作り始めるのも何だなって思うんですが、考えすぎても仕方がないし、、、と考えながら、時々、1日丸々、延々と歩く長い散歩に出かけては、先々で何かを見て無意味な用もない事をつらつら考えたりしながらか散歩をします。
もちろん散歩にカメラは持ちません、スマフォだけで十分撮れるしわざわざカメラを持つ必要はない、いや持つ気がしないから持たない。
散歩では、、、時々これからまた何を取り掛かろうか、、、と、何となく考えます、これをやろう、あれをやろう、でもそれをやるには今の自分の環境ではそれぞれに問題があってなかなかカンタンに撮れそうにない、とあれこれ考えながらつらつらと散歩しながら考えたりします。
そんなことに手出しするなら中断した植物園作品を全く違う視点で捉え直そうか、、、今ならもっと違う視点で捉えられる気もしないでもないし、、、と今までにはなかった気持ちが湧いてきたりします。それは散歩はがそうさせたのか、時間をおいたからそういう気にさせたのかはよく分からないけど、新しい気持ちが湧いたのは新鮮だった。

散歩の途中でどんな事を思ったのか、それを上手く書き表すのはとても難しい話ですが、多分、少し作品から離れていないと感じられない感覚で、僕の経験では作品を撮ってる真っ最中にはこんな気持ちはあまり感じない。
真っ最中はもっと現実的な思いの支配されるばかりで、こんな夢想的な思いはそんなにあるわけではない、でもこういうのはやっぱり作品を作る上で、この感覚は最も大事な事だと思う、この感覚がきちんと根底にあるかどうかだと思うです。それは何も写真だけに限らず何にでも通じる事じゃないかって思うんですが、、、、。
あらためて言い直すと、何かを始める時、それが成功するか、しないか、その分かれ道は「心から来る正直な動機が全てじゃないか」って気がします。まともな動機がない、動機が曖昧だったりすれば、行き詰まった時に、それは持ち堪えられない、でも動機が根底から来ていれば、人は挫折した時、その壁の謎解きが始まります。その図式がちゃんとしていれば、物事って、才能がある、ないじゃなく、良い結果はわりとスムーズに出るんじゃないかって僕は思います。
今回僕が散歩で感じたことは「これは遠い道のりでも完成されるべき作品」そんな思いがふっとどこからともなくやってきた気がしました。こんな思いになれたのは久しぶりのことです。
春樹氏がペンを持たない良い時間が持てることが一番大事なこと、その意味がやっと少し分かった気がします。