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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

内的な域と外的な域のバランス 

写真の話題になれば大半は外的なことが話題の中心になるが、その考えで幸せになれるなら僕は否定はしないけどあまり賛成はできない。外的な思考だけなら多分どこにも行けるはずはないと思う。
上に書いた外的な話題とは、つまり単なる技術的なこと、機材のこと、要するに物質的な方法論とか物の話です。
それに対しメンタルな内的域の話題、その議論考察はどうしても物質的なことに比べたらあまり話は聞こえてこなく一般的には軽視されがちな気がします、まあ考えたら、、、内的な領域は軽視されているのではなく普通の思考感覚では掴みどころがなく一般人では手が出ない話題だからじゃないかな、このメンタル域の世界観を十分に思考し成熟させられること自体、誰にでも出来ることではなく、ごく一部の限られた人の思考域かも知れません、、、、。
しかし作品が良いかどうかの違いはスキルだけではどうにもならない、もちろんスキルは重要だけど所詮スキルはスキルでしかなくスキルで人の心は動かせない、とどのつまり最後は人の心を動かすのは作家としての表現力でしかない、その表現の軸とは人間的な表現力の問題であって、その領域になれば写真も音楽も絵画も映画も、、、その境はないと思う。

少し前に書いたけど、村上春樹氏は「スプートニクの恋人」を書き下ろす時、「すみれは二十歳で激しい恋をした」この一節が思い浮かんだ瞬間、この一節から物語が書けそうだなって直感し、その一節を机の引き出しに1年くらい寝かしたそうです、その間に何をしていたのかは定かではないんですが、その一節から物語がそろそろ書けそうだなって、気分が熟し始め、でも、もうこれ以上我慢ができなくなるまでペンはそう簡単には取らなかったそうです。
それを最初に読んだ時はそれはとても重要な話で興味深く心に留まっていましたが、それが実はどんなことを意味するのか、肝心なポイントは具体的には何も分からなかった、でも最近、それを写真に置き換えそれがどれくらい意味がある重要なことなんだってなんとなく感じ始めた。逆にこれをやらないで奥行きのある良い作品を作ろうってしたところで、それはどんな才能があろうが多分出来るわけがないって感じ始めた。
つまりイメージに対して思考する時間を十分に掛けていない状態、まだ気持ちの圧力のような体温が十分に熟成されないうちに書き始めてしまうと、カタチ的には上手く書けるけど、何か物足らない物になってしまうのを春樹氏はよく熟知した上での話なんだと僕は受け止めた。
写真で言えば安易にカメラを持って撮り歩いてしまうとイメージが曖昧な状態で何かを撮ってしまう、僕には腕があるから完成度のある画像を必ず撮る、それはある程度の説得力を持っているから、それで良いとしてセレクトしてしまう、そんな調子でまた撮りに行く、またまあまあの画像を撮る、それがだんだん貯まって撮った気になる、しかし並べてみるとどうも自分が撮りたいものとは違う、、、、でも何が不足なのか今ひとつよく分からない。時間をおいて冷静に振り返ってみると根本的な命のイメージがしっかり捉えられていないものばかり。でも一見するとまあ撮れているから余計にわけが分からなくなる。

僕ら凡人は村上春樹氏のような人は心の中にいろんなイメージが次々に湧き上がって、それをスラスラと書いていると思い込んでいる人がたくさんいると思うが、、、現実はそうじゃないと思う、春樹氏だって何もしないで、無軌道で、無策で、ただ無意識にお話を書いていたら多分何も肝心な話なんか書けないと思う。
つまり春樹氏は心の奥のイメージを引き出すことがどんなに難しいことか、イメージを引き出すことがどれくらい重要なのかよく知っているが故にイメージの引き出し方には誰よりも慎重になるんだと思う、さらに長編の場合はイメージはもっと重要になる、だから机の引き出しの中でイメージをワインみたいに大事に大事にして1年くらい寝かすんだと思う。
つまり春樹氏はイメージが温泉みたいに次々に湧き上がる作家ではなく、思うように出て来ないイメージを慎重に丁寧に引き出す達人と見た方が正しいと思う、自分と春樹氏を同じ次元で横並びはできないが、ここ数年、植物園テーマで作品を撮っていたけど行き詰まった、今にして思えば作品に対する考え、イメージの重要さ、イメージが作品にどんな影響を与えるのか、それについて何も分かっていなかった、冒頭に書いた通り、表現に必要な内面的な域と外面的な域のバランスがまったく分かっていなかったことを最近強く感じたわけです、それで作品が成り立つと思っていたこと自体が今にして少し情けない気がします。
ここがしっかり分からないと中身と奥行きのある作品は出来ないんじゃないかと僕は強く感じます。