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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

絵画的写真の構築 

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前回の続きです。
椿のシーズン、また大島までフラッと足を伸ばしました。1年のわずかなチャンスの椿をテーマに作品を撮りたいと大島まで行きました。
さて今回何を撮るか考えました、新しい場所を探して、今までと違うものが撮りたいと思っていたけど、やはり見回すと3年前に撮った場所で撮り直す事にした、3年前撮った作品に特に不満があったわけではないけど、これは撮り方次第ではもっと良くなると感じたし、他に何か新たなものを模索したけど、やはりこれしか考えが浮かばなかった。
とは言え過去の繰り返し、過去の考えのまま踏襲することだけはしたくなかった、今は今の考えで過去を越えたかったし今は過去より高い集中力があると思うしそれを写真に写し込みたかった。
今回の絵柄は前回よりもっと引き気味で撮りたい、もっと高めから地面を見る感じでやや広い空間にしたいと思いながら絵作りしていた。さらにそこにあった椿の花びらだけでは色彩としてモノ足らないので周囲から拾い集めてばら撒いた、今回は地面をもっと圧倒的な椿の赤を敷き詰めた絵柄にしたかった。
昔はそう「やらせ」の考え方は好きじゃなかったけど、今は広告写真をやってるせいか、絵とは構築して作る考えが慣れてきたせいか、それはそれで真っ当な撮り方だと思えるようになった。
僕には写真を撮ることは二つの撮り方、考え方があります、一つは出会ったシーンをパッと閃きでさっと撮る撮り方、もう一つはないところにキャンバスに絵の具を乗せて行くように周到に構築して絵を作って行く方法、具体的には色彩バランス、階調バランス、絵柄密度、緊張感、それらのバランスを確認しながら丹念に時間をかけて絵を仕上げて行く考え方です、これは写真というより絵画的考え方です。
前回、モネの絵の構築、考えについて少し触れたのでもう少し突っ込んでみたい。
僕自身も最初にモネを知った時、あの睡蓮がどうして世界的な名作なのかそのわけが理解ができなかった。
それで何度も何度も見て行くうちに徐々に発見があったり、いろんなことに気がついて行った、その集積なわけですが、僕の写真は色彩と光と階調を軸に写真を成立させる考えに傾いて行くうちに、モネの絵がまさに自分の教科書だってことがやっと分かった。
まず間違いなく言えるのは、モネの睡蓮の絵をよく見れば分かる通り池に睡蓮がびっしり画面を埋め尽くしていない、これはいろんな睡蓮の池を見れば分かるだろうけど、だいたいの池は睡蓮で埋め尽くされ水面が見えないのが普通ですが、これをカメラに撮ってもちっとも良くない、なんと言えば良いのか、とにかく良くない、その目で今度はモネの作品を見ると、これがまた実にきれいに睡蓮が池の中にポツリ、ポツリと実に上手く配置されている、観賞用の睡蓮の池としては非常に完成度が高いことがよく分かる。
それでさらに水面の部分に空、雲、周囲の木々これが水面に上手く写り込むように仕掛けてある、作品は睡蓮と空の色彩、雲の色彩、夕方の色彩が絡み合うように考えられていて、そこに睡蓮がポツポツと数える程度に咲いているだけで、空間と色彩のバランスで絵を仕上げているのが手に取るように分かる。
この構築法なら時間帯によって空の色彩、その印象もガラッと違う、また季節によって周囲の木々も違うし、描き方は無限にあるわけです。だから正確には睡蓮の絵というより睡蓮と空とでも言うべき作品です。
物事を描くときは、まだ初歩の段階では主の部分しか神経は集中できない、主と従の関係性、そのバランスを描くことは初心者ではなかなか出来ないですが、そこから抜け出ると従をどう描くか、むしろ従ににこそより神経を注ぐべきが見えてくる、そのバランスをどう取るかがカギになる。モネの絵で言えば主は睡蓮で従は水面に写った風景ですが、その従の部分が実によく気を配られていて、美しい空と雲と睡蓮の絡み、仮に睡蓮だけなら絶対にこんな世界観は描けないと思う、これはまさに極楽世界だなって思ったわけです、原田マハさんは「モネの睡蓮は鏡景を見るべきなんです」とテレビで話してたけど本当にそう思う。
これらは理屈で説明すればややこしい話になったけど、絵を構築する時には、いちいちそんなこと考えてそうするのではなく気がついたらそうなっていた、これは直感的な感覚だけでそれが成立しなかったら絵として成立はしない。