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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

プラトンのイデア論はむずかしい話ではない。(2) 

昨日の続きです。
イデア世界が現実世界でどのように関係するのか、役に立つのか、具体的に説明しないとこの話はいったい何のことか意味がまったく不明なので可能な範囲で僕なりに説明を試みます。

私たちは日常生活は、現実的認識で行動します、現実的認識とはカンタンに言えば常識範疇で行動します、しかし写真を撮る場合、常識範疇の思考で物を撮ったとしても、カタログのように現実的写真なら良いとしても、何か表現された物では不十分でおもしろくはないし魅力もないし人の心は捉えません、人の心はとても敏感です。
撮っておもしろいものは、意識世界と無意識の世界の間、意識はできない、実態は掴めないけど何か見過ごせない、意識と無意識の微妙な間が、写真としてはおもしろいんです。人は実は無意識の中にも、実態があることは誰も何とはなく薄々知ってるんです。でも認識ができないから日常生活に必須アイテムとして存在しないだけです。
これは僕の体験ですが、以前、まだそんな無意識に意識を向ける概念が自分の中になかったころ、写真を撮るとは、目で見える物をカチっと撮る、フレーミングをしっかり決め、対象物は歪みなくまっすぐに、どう描きたいかをハッキリと明確に撮っていました、とても現実的でまっ直な写実表現です、でもそんな写真ばかりズラッと並べても少しもおもしろくない、見る者に向かって何か語りかけて来るものがないんです。
どうしておもしろくないんだろうか、、、、?そのわけを考えました、あの当時はそこが解読できない大きな壁でした、 語りかけて来る写真とはいったい何なのか?そのことに一度真剣に向き合いました、少なくとも現状の写真は僕が撮りたいのではないことだけはハッキリしていました。
目で見ただけでは意味不明な存在、パッと見ただけでは見過ごしそうな、特にこれといったおもしろい事象ではないけど、写真に撮ったらおもしろい物として写っていた、そんなことは確かにあることに気がつき始めていました。
自分たちには、目に触れられる物事は実はごく一部に限られた物しか見えていない、聞こえていない、出会えていない、でも実はそこに多くの存在があっても出会えていない、私たちは実は限定された中でしか、ものを見ていないで生きている、それを前提に世界を捉えたら、世界に対する見方の認識は変わりますし、カメラを向ける目線も変わります。
まずそこがイデア世界認識のカギじゃないかと思います。
その世界を直感はわずかながら感知できる能力が私たちにもあると仮説したら世界はどう見えるのか?これは、直感を信じるか、信じないかの話になります、でも僕は写真を撮るとき、五感はあまり頼リ過ぎないようにして撮るようにしています、五感が見せる世界はあまり過信しないスタンスで撮ります、もっと別の感覚で撮るように意識します、目はたしかに視覚的に物を見せますが、情景世界は少しも見せないからです。
私たちが日常生活ではあまり使わない感覚を使って撮ります、あまり使わないその感覚こそが、イデア世界を理解する窓口だと思っています。
その感覚を使った時に見える世界は現実世界が見せる風景とはまったく違います、目が見せる現実世界とイデア世界では見える世界のコンセプトは違うと僕は受け止めています。
それが僕のイデアの一部じゃないかと仮説しています。もちろんこれだけではないんですが、解釈のカケラだろうと仮説しています。
この感覚で何か情景を撮ってズラリと並べたときにもう一歩踏み込んだ意識の深層世界が写真に現れます。それは実在界のイデアかも知れません、そうではないかも知れません、イデアは誰もまだ証明することができないので、あくまでも仮説として考えるしかできないんですが、まったく的外れな解釈だとも思っていません。

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