アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

写真表現をする最初の壁 

時々、アトリエでワークショップを行い写真のイロハをレッスンします。
先日、ある女性に暗室レッスンしてた時のことです、彼女は写真の入り口から先に進めなくて本人なりに困惑してることを話してくれました、僕も彼女の作品を見て感じていたのは写真は決して悪くないんです、むしろ一つ一つは丁寧にやってるのは良くわかるし、写真に対しての気持ちもあるし、一体何が問題なんだろうか?と思ってしまうくらいなんですが、やはりそこに大きな問題が立ちはだかっているのが分かる。
これではやっていて楽しくないでしょう?と聞いたら、そうなんです、やっていて嫌になっちゃいます、と彼女は答えました、でもこれは彼女だけの問題ではありません、これまで僕がレッスンした方の多くはそこに立ち止まって先に進めない方がほとんどです、それはみんなの共通の壁として座礁しています。
これは僕自身も記憶にあります、広告カメラマンになる前の下積み時代に自由にモノ事を受け止め、自分の思考で考えたりが出来なかったことが長くありました、これには結構振り回され続けましたが、ある時、ふっと気が付きました、この思考回路のままでどこにも行けないことに感じました、その思考で何かを考えたとしても何も生まれない、表現なんか出来るわけがない、と気がつき、その思考回路を自主的に決別する判断をしました。
でも実際問題、心に張り付いた意識、そのパターンの決別を行うことはそうカンタンではありません、意識がそうなるのはなるべくしてなったわけです、それを振り払うにはそれ相当なエネルギーと荒療治を必要とします、そうするためにまず環境を変えるために日本を出て長い旅に出ました、そしてその決別に便乗して作品を一本作りました、それ以後、自分自身でモノを考え、自分の目でモノを見て、自分で判断する生き方をするようにしました。

さて、彼女の話に戻ります、彼女は少し前、写真学校に通い一通りの手ほどきを受けていたので、ある程度は写真を理解していると感じました、でも彼女の写真からは超えられないもどかしさを感じますし、彼女自身からも写真を捉えるきっかけみたいなモノがよく分からないと話してくれました。
でも高いお金を払って写真学校に通ったんです、写真学校はそこをきちんと教えておくべきと言う気もしましたが、これまで写真学校に行った人には過去何十人に会ったけど、その課題には野放しを感じます、これは学校では手出しできないことなのかな?とも思いました。
暗室をしながらその話を聞き、写真をセレクトし作品をもっとパワーアップするためのプリント法として調色のを指南をしました、その会話を通して感じたことですが、超えられない壁について、今日はそれについて少し突っ込んで書きます。
過去ここで何十人にワークショップとして写真を教えましたが、毎回感じたのは、どういう思いで写真が撮りたいのか、自分自身の思いが見えていない、どう捉えたらいいのか、そこが掴めず座礁してる方が殊の外多い、これは本当に難しい壁のようです。
カメラは何も考えなくても、ただシャッターを切れば取り敢えずモノは何とか映ります、でも実はそこが落とし穴なんです、何もしなくても写るからそれ以上突っ込んで考えなくなるんです、人は基本的に怠惰なのか、必然がなければ、敢えてそれ以上突っ込んで考えようとしない、でも写真を本気でやりたいならそこは超えないと前に進めません。
どうしたらそれが捉えられるか、まずは真剣に考えるしか手はないです、そして次に必要なのは、目に見えないカタチのないものを捉える心の洞察力がどうしても必要になってきます。
そしてここで説明したいこととして、写真を撮るにはまず4段階のステップを普通は通ります、本当はもっと複雑かも知れない、また人によって違いがあるかも知れないが大雑把に書いてみました。
まず1、撮るものをイメージをする、2、カメラで実際に撮る、3、撮ったものを自分の目で見てセレクトし検証する、4、色彩、濃度、コントラストを調整してイメージに近づける。
まず一番目ですが、ここがとても重要です、これをどこまで真剣に突き詰められているかが分かれ道と言えるくらいここは重要です。ここが甘くて本番でスイッチが入って結果が出る、もしそういう人が本当にいたとしたら、それは普段から写真に対して無意識になんらかの強い思いがあるとしか言いようがない、僕にはそう思います。
風景写真、女の子を撮る、テーマ性がシンプルな場合はムキになって事前のイメージは必要ないかも知れないです、今僕がここで書こうとしてるのはそうではなくて、もう少し芸術寄りの写真を指しますが、もしそれが撮りたいなら、やはり事前の意識の助走はとても重要です、ここがしっかり熟成していなければ、何かを撮ったとしてもただカタチを撮っただけで終わることが多いです。
ただカタチを撮っただけの写真とは一体どんな写真か、また中身が写ってる写真とどういう写真か?
最初のカタチだけの写真とは、写真の撮り方をそこそこに理解していればそれ風に外観だけ撮るなら撮れます、でも中身がない写真は目で見える視覚的な外観は捉えていても、心の奥にまで響くメンタルなバイブレーションがまったく写っていないんです。
これは不思議です、それを上手く説明が出来ませんがそうとしか言いようがないことです、それがあるモノ、それがないモノではパッと見た感じではたいした違いがないように見えますが、作品からじわじわ発するパワーは、モノによって天と地ほどの違いがあります、それが本物と偽物の違いです、それは多分視覚的なレベルの話では語れない、ある種のバイブレーションが写真に刷り込まれている話です。
ジワジワした心を揺さぶるバイブレーションがあるかないか、そこが分かれ道です。
自分の感情表現をするとは、自分の感情を写真に置き換えること、それはどんな意識のキーで撮るべきか、撮る前に十分理解しておくべきことです、まるで宿題みたいな言い方ですが、それは楽しむべきことです、そこが楽しめないなら、その時点でまだ良い写真を撮れる状態じゃないです。
つまり写真表現とは自分と自分とのキャッチボールです、自分が自分に投げたボールを自分が反応し、その次すべきことが見えてくる、その繰り返しが、自分とのコミュニケーションであってインスピレーションを引き出す結果に繋がります、逆にこれらは唐突に出るものではなく意識のキャッチボールを散々繰り返した末の結果です、その入り口として第一段階のウォーミングアップはとても重要です。
ここが十分にキャッチボールしていないけど、いい作品を作ろうともし思うならそれは間違いです。

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