アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

ズラして撮る 

ここ連続して写真の捉え方、メンタルな入り口の壁について書いています、僕の浅い経験から言えば、ここが超えられるかどうか、ここが切実な問題として受け止められるのか、どうかで、その後のその人と写真の関係は決まると言っていいくらい重要に思います。
本当に才能がある人とは、単に表現の器用な人を指すのではなく、むしろ誰よりも不器用でありながら表現に対する強い必然を持った人、そこを避けては通れない、誰よりも深い部分に立ち入らざるを得ない必然を持った人、ある意味でしんどい宿命を背負わされてしまった人生だったかもしれません。
ここ最近ずーっと表現について書いてきましたが、これは僕にとってもとても大切な話です、今ここで書いてることはとても大切なところなのでしつこいけどもう書けないと思うまでこのまま書きたいと思います、そこから何が出るのか、どこに行くのかは、書く自分ですら先が読めずちょっと楽しみです。

昔、まだプロの写真家になる前、まだ名古屋のころ、印刷物の表紙を毎月撮っていたことがありました、それがきっかけでプロを志したんですが、その時、毎月、毎月、ノーギャラで写真を表紙用に撮らせてもらう縁に出会いました。
いくら予算のないつまらないものであろうが、多くの人目に触れる印刷物の表紙をプロでもない僕が毎月担当する機会をもらったんです、その出会いは僕の人生を変えた出会いでした、でもそれを何回か撮り続けるうちに僕の中である疑問に突き当たりました。
僕にとっていい写真とは何なんだろう?僕が撮りたい写真とは何だろう?しかし僕がそこでやっていることは普通の目で上手く撮れている写真であれば合格でした、でも毎月繰り返すうちに次第にそれが物足らなくなりました、ずーっとこのままで良いのか、見応えのある心に残る写真が撮りたい、そんな気になり始めました。
それについて書かれた本はどこかないものか探し始めました、図書館にも行ったり、あれこれ探したけど、そんな本はどこを探したところでありません、もちろんカメラ雑誌にも僕の知りたいことは書かれていません、今になって当時を振り返るとあれはとても重要な分岐点でした、もしあのまま満足していたら僕はそこで終わっていたと思う。
そんな気持ちの中である本に出会いました、本の名は「カメラマンになるために」だったと思う、カメラマンになるためにすべきこと、心得、実際にカメラマンになった人の経緯と考え方を何人か紹介されていたが、その中で須田一政さんの話が僕の心を強く刺激した。
須田さんの写真家としての経緯も興味深かったが僕の心を捉えたのは著者が説明した須田さんの写真の話が僕の心を釘付けにした、「須田の写真は普通の目線からズラして撮っているが、須田のズラしは誰にもマネができないほど絶妙だった。」それを読んだ時、そのズラしの意味するところが不明だったが、しかしどうしてか心は完全に射止められてしまった。
その本に須田さんが撮った、鄙びた布が被せられた一面鏡の写真が載せられていた、それまでそんな写真は多分目にも止まらなかったが、その説明文を読んだ後、なぜか気になって仕方がなかった、これのどこにズラしがあるんだろう?僕にはただ一面鏡を撮っただけの写真でしかなかった、ズラすとは一体どう言う意味なんだろう?その意味が解けないままずーっと気になっていた。
その後、多分数年後だと思う、やっと自分なりに分かったこと、つまり何かを撮るとは、対象物をただまっすぐにきれいに上手く撮るんではなく、そこに撮る人の心のフィルターを通して撮ること、その見せ方、表現スタイル、それ自体が表現であって、ただ上手く写真が撮れたら合格ではなく、ズレとはその表現を言うんだと後でやっと分かった。
つまりこう言うことを指すと思います、例えば花を撮ろうとする、ただ花をきれいに上手に撮ってそれを良しと考えるか、私は花をこう撮りたい、と考えるかの違いだと思います、ただズラシ事自体が目的になったならそれはつまらないと思う、でもそのズレがその人の写真になったらそれは表現された写真になる、その違いは大きい。

この記事に対するコメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://suiheisenbiz.blog52.fc2.com/tb.php/2014-1bf774e7
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)