アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

果たしてどっちが良いのか 

これまでこのブログで直感について何度か書いて来ましたが、今日はまたこの直感について具体的に書きたいと思います。
これは一体どういうものなのか客観的かつ具体的に説明ができないんですが、やはり確かに実態を伴ってあるものでしょう、そして何らかの人の心を引きつける力を持ったもののようです、ただ誤解されたくないのは僕が言う直感とは透視力とか予知能力を指しているのではない、結果的にそこに通じるものなのかまでは僕自身理解できていないけど、ここで言う直感とは通常の思考回路とは違う感覚回路を指します。
表現では直感で作られたものか、現実的な思考で作られたものかはやはり別物です、いくらそれっぽく感覚風に作っても現実的なアタマで作られたものは何か根本的に違う気がします。
20年くらい前でしょうか大ヒットした映画ですが、モーツアルトを描いた「アマデウス」という映画がありました、そこでサリエリが映画の冒頭で車椅子で口にした言葉です、「私の音楽は長くは続かないだろう、しかし彼の(モーツアルト)音楽は100年、200年、永遠に人々から愛され続けるだろう、、、」この言葉がずーっと僕の心の中に印象に残っていました。
この残る作品が意味するところのその根拠はなんだろう?残る作品と残らない作品の違いはなんだろう、それは完成度の違いなのかと前は漠然と見ていましたが、最近はこれが身近に感じます、つまりアタマで作った作品ではなくもっと別の神経で作られたものを指すんだろうと思います、それは要するにそこに現実的な思考回路とは違う何か別の回路で作られたものじゃないかと思います。
人間が物事を分別する基準は直感思考と現実的思考があります、直感思考は、利害、損得、人間の都合ではなく動物的な感覚に近いもので、それに対して現実的思考はとても現実的です、もちろんこれは日常の生活では、これがなくては困るものですが、表現の場合、この思考で作られたものは残念ですが人の心に浸透しません。
むしろ人が表現物に憧れを感じたり、心が癒されるのは、日常の現実思考から別の感覚を求めているから表現物に触れたくなると思うんです。人間は現実的思考から離れて動物的直感で何か日常の行いをするのは難しいことことです、ところが神様のいたずらで、何百人かに一人くらい動物的な直感を生まれつき持っていてそれで物を作れる人がいます。

話は飛びます、ある知人の写真家のネコの話です、これまで住んでいた家から新しい家に引っ越した時、ネコは新居に馴染めなかったらしく、引っ越してすぐ脱走しました、写真家の奥さんは異常なほどネコに対する思い入れは深い方で、ちょっと半狂乱に近い状態に陥り必死に行方不明のネコを探しましたが、他人ごととは思えないくらい大変でした。
もともと野良だったネコを奥さんが大事に可愛がって育てました、でもどこかにまだ野良の野生が残っているのか人間の思惑通りに懐いてくれなかったようです。でも奥さんのネコへの思いは凄いものであらゆる手を尽くして探し求めました、前住んでいた家の近所さんと情報連絡を取ったり、野良ネコ、行方不明ネコのボランティア情報に目を向けたり、散々手を尽くした末、脱走から3ヶ月経って前の家で無事に保護されました。
その間、一体どうやって生き続けられたんでしょう?さらに不思議なのはネコの移動した距離は直線でも4キロもあります、その途中、大通りもあれば、ちょっとした山もあります、ネコが山を迂回なんかするんでしょうか、どう考えてもまっすぐ元の家まで行けるとは思えず、一体どうやって元の家の方角を見つけ出し、たどり着いたんでしょう、ネコの行動範囲は通常せいぜい半径数百メートルと言われています。
渡り鳥ははるか1000キロ以上の南の島に行き先を間違えることなく正確にたどり着きます、ザトウクジラはアラスカと小笠腹を毎年行き来します、同じ生き物である人間にはその能力はなく文明の利器を使ってたどり着きます、でも人間にもその能力があっても本来は不思議じゃない、むしろどうして人間にないのか不思議です、そんなものに頼らずとも、文明の利器を作れるから退化したんでしょうか。
つまり話をまとめると、本物と言われている作品は完成度が高く上手くできたものを指すのではなく、一般人が持っていない動物的な神秘力を使って表現した作品を言うんじゃないかと僕は推測します、つまり現実的な思考回路ではいくら努力して、それっぽく作ったところで本来の神秘力で作られたものとは意識の波長が違う、根本的に違う、と僕は考えています。
僕は駆け出し時代、二人の写真家から学びました、Aさん、Bさんとしておきます、Aさんは人間的に、社会的に、とても常識的で、現実的で、理性的で、思いやりもあって、人間的に、広告写真家としても、いろんな方から信頼されていました、早い話が、Aさんは危ない橋は渡らない、物事はきちんと確実にこなすとても現実的な方でした、お願いする方は危なげがなく安心して任せられていたと思います。
しかし、Aさんの作品はやはり物足らなさを僕は感じていました、Aさんはそういう自分の生き方を必死に守るように生きていましたが、でも同時に何かもっと別の神秘的な存在、才能に憧れ、自分は今はこんなことをしてるけどいつかはそうなりたい、今自分がしてることに不完全燃焼のような不足感を抱えているもどかしさをいつも持っているように感じました。
さて、もう一方のBさんは世の中的にも有名な場で活躍しビックネームでした、もちろんBさんだって現実的な考えを持っていましたが、これをなんと説明したらいいのか、もう生まれ持った器が普通の人とは別物といったら良いのか、これは努力してなんとかなるものじゃない、もし仮になったとしらそれは元々あったものが表に出ただけとしか言いようがないものを感じて見ていました。
Bさんの心には不思議なメロディーのような何かが流れていて、それが表現の場になればチョロチョロとどこかで流れ込んでいるような、これはスキルでどうにかなる、努力でどうにかなる、そんな浅く薄いものではなくもっと別次元の波長と言えば良いのか、これは持って生まれた才能としか言いようがない、特別な魔法のような神様からのギフトとしか言いようがないものを僕は感じ見ていました。
でもBさんもやはり人間です、弱さも、欲もありますし、往々にしてそういう才能を持った人は、良いことばかりではありません、精神的に何か足枷のようなものを抱えていたように感じました、異常なくらい神経質な不安定さを抱え、時々、本人でもどうにもならないくらい荒れてしまい周囲にいる助手がその標的になりました、こういうことはもらった才能の分だけ負の感情のエネルギーも背負うことになるんだろうな、と思いながら見ていました。
結局晩年Bさんは日本からアメリカに脱出するようにあちらで生活し最期を迎えましたが、果たしてどちらが人生として良かったのかは誰にもなんとも言えるものじゃないけど考えさせられる出会いでした。

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