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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

モノが見えている 

お正月と言うのは子供のころほど嬉しくなくなった気がしていました、多分お年玉をもらう側からあげる側になったからなのか、でも年末年始は普段なかなか会えない友人たちと一気に会えたりで酒も食も増えたりしますが、やはり大人も楽しい時期なんだとつくづく思った。
年始に写真の友人が来てくれ海前のデッキにテーブルを出して酒宴を開き写真について話をしました、そこで上がったのは写真を撮る時にイメージが見えているか、見えていない、の話になった、僕はその時、僕はそんなのは巨匠だって撮らなきゃ、そこに何が写るのかなんて分からないよ、、、、、と始めは思って発言したけど、どうやら話はカンタンには片付けられない、友人の発言の裏にはもっと重要な問いかけが潜んでいたんじゃないかと、彼らが帰った後で考え、過去の出来事を思い出していた。

昔まだ駆け出しで自分は写真で何ができるのかまったく未知だったころ、インドで必死になって無我夢中になって撮っていたことがある、そこでは出会った物事をどう撮るのか、なんてアタマになかった、とにかく集中して撮ったら、カメラに何が写るんだろう?と心を集中して撮っていた、多分あのころの僕の日本の環境ではどうしてもアタマで撮るばかりで官能で撮ることを忘れがちになっていた、でもインドでは官能が刺激される環境だから自然にそうなったんだと今になって思う。
人のことはよく分からないが、僕は日本でそういう官能的な気持ちには修行中ほとんどなれなかった、気がつけば写真を集中して撮ることが分からなくなっていた、それがインドである日突然すごく集中して、何かが撮れそうな場面に出会った、自分でも何が何だかよく分からなかったけど、とにかく理屈抜きに今はそれをするしかない感じがして集中して撮り始めた、そういう気持ちは滅多にあるものじゃない、後になって思えばこれは写真のスイッチがマジに入った状態だった。
それ以前、カメラマンになろうと上京し有名なカメラマンの助手をして一通りの経験をして、さてここから自分は何を撮れるのか考えた時、自分の中身は実はスカスカで肝心な物事はあまり学んでいなかったことをインドで気がつき始めとにかく理屈抜きに体当たりで写真を撮っていた。
その時安宿でなんと偶然に修行中憧れだったカメラマン(半沢克夫氏)にばったり出くわし毎晩安っぽいチャイ屋に行ってはあれこれ写真の雑談相手になってくれた。半沢さんは「モノが見えていね〜な〜とか、あいつはモノが見えてるんだろうな〜」そんなことを盛んに連発していた、インドで必死になって集中してた時、多分モノが見えるってことにやっと気が付き始めたころだったんじゃないのかな〜、そういうのはパッと見ればすぐ分かるから半沢氏は僕を毎晩チャイ屋に誘ってくれたんじゃないかと今になって思う。

写真を撮る上で「モノが見える」これはとても重要なきっかけです、これを感じないでただ理屈で撮り続けることは僕なら正直な話、きつくてやってられないと思う、まるで終わりが見えない苦行を延々に続けるようなものです、モノが見えるとは多分こういうことだと思う、アタマの中に絵柄がくっきり浮かぶ状態ではないと思う、時には何かがはっきり絵柄が見えることもあるけど、それはあまり大して重要じゃないと思う。
モノが見えているというのは目でモノが見えているのではなく心の感覚がはっきりした状態です、そこに迷いはなく、向かうべき方向性、自分が何に集中すべきか、使うべき神経、使わなくてもいい神経、使ってはならない神経、撮るべき物事と撮らなくてもいい物事の微妙な境界線がよく見えていて、自分の感性は何ができる、何すべきで、何はすべきではなくて、何をどうすればカッコ良くて、何が失敗で、何がつまらないか、これらの分別感覚がはっきり見えている状態、描くべき青写真の全体としてのバランス感覚が心の中ではっきりしている状態だと思います。
僕の場合はそれにプラスアルファー、描こうとする絵柄のトーンが見えると一気に始まります、こういう状態にスイッチが入ると出会ったモノがさっさと自分の世界になってしまうような魔法使いにでもなったような気さえします、でも言えることはそれが必ずしも良い結果を出すかといえば、必ずしもそうではないこともあります、でも基本的にこの感覚は突き抜けた時であるには間違いはなく、この感覚状態はとても重要です、ただ残念なことにどうやらこれは誰でも味わえる感覚ではないように思います。
これをなんと言えばいいのか、感覚が抜群に切れている状態です、これはスポーツ選手にも言えるらしく、過去スポーツ選手のドキュメント番組で見たことですが、怪我で長い闘病生活を余儀なくされ長いスランプに苦しんだ選手がある時、意識の中で今までの腫れ物がサ〜ッと落ちるように、突然、壁を越えた自分がス〜ッと見えたそうです。
今僕がここで書いた同じ感覚をその選手も語っていました、繊細な意識を使うべき神経と無駄な神経の境界線がはっきり見えて、今までどうしても越えられなかった技が復帰後、あっさりとできてしまったことをある体操選手のドキュメント番組で語られたことを思い出します。
これは文章だから多少は面白く大げさに書いたのはあるにしても、こういうメンタルな超越した実感をある程度は知っていないと、闇雲にカタチばかりいくら手を変え品を変えひっくり返し続けても、多分それは延々にイタチごっこを繰り返すだけな気がします、このモノが見えない状態で写真を撮り続けるのは結構きついものがある気はします。
僕はこれまでワークショップでカタチで撮るな、と盛んに繰り返してきたけど、今になってこの感覚が実体験できる人は実は限られた人にしか見えないモノなのか?と最近感じ始め人に教えることに、何を教えたら肝心なことが理解してもらえるのか少し迷いと自信を失いつつあります。
ゴーギャンが残した言葉で、さあ、これからモノを見るから目を閉じよう、そんな言葉がありますが、目で見るモノと心の目で見るモノは同じではないことは確かです。

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