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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

モノが見えている(2) 

モノが見えている状態について書き出したらまだ書き足らず、もう少し突っ込んで書きたくなりました、微妙な感覚について書くことはいつでも思うがまま書けるものではなく、何気に書いたらスラスラ書けたりします、書けるときに書こうと思います。
モノが見えている状態は、撮りたい絵柄がアタマの中ではっきりと見えることもありますが、本当に見えている時はそんな状態よりも意識は日常感覚とは少し違う感覚世界です、現実的な感覚ではなくもっと意識の世界観がはっきり見えている状態でその結果として絵柄が出ます。この感覚を味わうと写真表現は相当変わる気がします。
これは特に大きな体験例ですが、少数民族撮影で中国の辺境にいた時のことです、日本で考えていたようには事がまったく進まず、相当苦しいスランプに陥っていた時です、ある日、偶然にすごいカッコいい民族に出会って、今まで感じた事がない全身が感電したような強烈な思いになり、これだ、これを撮るしかない、と感じました。
この感覚は日常生活では感じたことがない感覚でした、多分長いスランプが余計にそう感じさせたんでしょう、不思議ですが埋れた記憶が一気に甦るような魂次元まで遡ったような、日々の雑事では触れられない深層意識に触れたような、とても官能的な感覚でした、アタマで考えていたことがすごくバカらしく感じられ、次元の違う意識世界を見た感じでした。
モノが見えてるなんて、もうどうでも良いような、なんの迷いがなくただ撮るしかない、そんな感じです、小手先の方法論はもうどうでも良く取るに足らないことで、そんなことより今この魂の震えみたいな感じはどうしたら写真に撮れるのか、そのことでアタマがいっぱいで、1枚1枚の絵柄なんかよりも、見えている心の世界観はどうしたらカタチにできるか、そのことの方がはるかに重要に感じた体験でした。

これはかなり特殊な体験例で人生で何度もあることではないと思うんですが、通常のモノが見えていることはもっと静かで全体的に何かを感じてる状態です、どうもみんなの撮り方を見てるとある部分をルーペで拡大して見てる気がするんですが、そうじゃなく直感的な感性を含めもっとトータルな感覚でモノが感じていないと見えてこない気はします。
なんと言えば良いのでしょうか、腹が減って無性に食べたい時、胃ばかりが食を要求するのではなく、口とかもう体全体が食べたくて仕方がない状態になり写真も同じような感じ何かが見えてきます、まだ具体的に何もかも手探りで曖昧な状態でも必ず目的にたどり着ける確信と手応えを感じる状態です、そういう時の撮影は不思議と理屈を超えたパワーがかなりの確率で写ります。
写ったモノは逆に現実的な思考でどうやったらそれが撮るのか、説明を求められてもやはり困ります、返って現実的に追求すればするほど物事は遠のく気はします、「写った」としか言いようがないんです、意識と写真は繋がっているとしか言いようがないんです、でもこれは何も写真だけに限らず意識を使うこと全般に言えることじゃないでしょうか?
将棋の棋士たちはモノが見えている時は先の先まで次の手が見えてる気がします、また魚が戻るべき生まれた川に迷わず戻る、渡鳥も行くべき目的地にナビゲーションなしに行ける帰巣本能、これがなんとなく分かる気がします、今回ちょっと大げさに書きすぎたかも知れませんが、やはりこれはある種のアルカナ(秘儀)なんでしょうかね?やっぱり、、、、。
いずれにしても、この感覚は現実的な思考をいくら駆使しても延々に答えは出ないと思います。

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