アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

あんな時代に自分の世界を持っていたヒデとの出会いで学んだもの 

昔、まだ自分は何者で自分に何ができるかまったく分からなかったころ、自分に影響を与えた人について最近思い出しては書いていますが、その一人で、彼も絶対に忘れてはいけない存在、ヒデについて今日は書きます。
ヒデがこの世にいなくなってもう何年になるだろうか?20年くらい経つんじゃないかな?僕が上京して、めったに会わなくなったヒデは交通事故で死んだと聞いた、でも噂では自分から車に突っ込んだ自殺だったという話もある、本当のところは僕らには分からない、でも死ぬ前にもう一回くらい彼に会いたかったな、、、、ヒデはもうこの世にいないと思うと悲しくなる。
ヒデの話を書く前に少し触れたいのは1980年代初頭の名古屋で僕らのような仕事、物を表現する仕事でやっているちゃんとしたプロなんていないに等しかったと思う、もしいたなら活動は東京で生活が名古屋くらいだろう、そんな時代に自分がカメラマンにマジになろうと志す、これはよっぽど現実を見られない、ウヌボレかマジにすごいヤツか、特殊な環境にいたヤツ、そのどれかだろう、あの時代それくらいそれで食べて行くなんて非現実的な選択に等しい時代だった。
確かにこの仕事はなんとかやって行けるなら会社員より絶対におもしろい、、、けどやはり現実を考えれば金銭面ではしんどい、収入が安定しないし、浮き沈みは激しいし、、、、僕の周りのカメラマンで離婚しないで無事なヤツはほとんどいない、それくらい家庭に縁がなくなる、人はなんだかんだと言っても生きていくにはやっぱり収入が一番重要と言っても過言じゃない、僕らのような仕事は夢はあるけど、一寸先は保障されない、これが現実なんです。
よほど何んらかの、環境、背景、事情、縁を持っていないとこの仕事を選ぶのは普通の神経ならやはり選べないのが当たり前だと思う、例えば親がそうだったなら、小さい頃から親の生き方を見て来たからそれなりにやり方が見える、またはそういう仲間、友人たちに出会え、若い頃から着々とその準備していたとか、または僕みたいに能力が不安定、あれはできるけどこれはできない、これで生きていくしかない、他の選択肢がなかったからとか。
逆に秀でた才能を生まれ持ってもそう言う縁がなかったがゆえにそれを選べなかったヤツもたくさん見た、その反対に才能なんかなくても縁があったがゆえになったヤツも見た、、、僕にとっては親は早死にしたけどそう言う生き方の親だったからなった、また友人関係に恵まれたことも大きい、間違いなくその影響を与えた一人はヒデだった。
ヒデはあの当時の名古屋の狭いもの創り家たちの間ではかなり知られたスター的存在だった、僕はまだ20代初めのころ、銀アクセサリーの仕事をしていた、僕は人生あれこれ一通りやって来た、銀の指輪ならバーナーを使って一から作ることはできる、それでいっ時、当時の名古屋の前衛カリスマ存在の原智彦氏が主宰する先進的集団、キャンディーにいっ時、僕も席を置いたことがあってヒデとはそこで出会った。
最初ヒデと出会ったころキャンディーのアクセサリーのデザイン、発案、企画を彼が一手に担当していた、彼のデザインはちょっと奇抜すぎたから、スタッフがやや俗っぽく手直しさせてキャンディー商品は成立してた、それを横で見ていた時はヒデにはそんなに興味はなかった、でもだんだん彼に何かを感じ、彼に徐々に接近し、彼と話すようになって、彼の創作の背景、イメージの宝箱の中身を見て彼がどんなヤツかマジに知ったとき、僕は度肝を抜かれた。

ぶっちゃけ言えば、僕なんかあのころなんてイメージと呼べる実態なんか悲しいけど何もなかった、せいぜいアンアンをペラペラめくって何かを思いつき、そこで何かを作る、それが関の山でそれがあの頃の自分だった、たまには雑誌に載ったものをこの目で見たくて東京、大阪、神戸までアンアン片手に見に行って刺激をもらって帰って来た、でもそんなの所詮は雑誌の影響でしかなく、それが僕とか当時の名古屋のモノ創りの実態だった。
そんなヤツらばかりの中でヒデだけは異質だった、もちろんヒデだって少しくらいはそうだったけど、彼は自分の創作はやはりオリジナルの世界観をちゃんと持っていた、感心したのは声高にそうだったんではなく、自分一人さりげなく自然にそうしてた彼の生き方自体に感心した、彼は頻繁に植物園に行ったり、東京の馬喰町とか名古屋の駄菓子屋問屋街に行ってブリキおもちゃを探したり、まだ他にもいろんな引き出しはあったと思うけど人に話さないから未知数だった。
とにかくヒデは自分のオリジナル世界を持っていたのは確かだった、でもヒデがすごかったのは自分のオリジナルがありながら、雑誌の影響も否定しない、活用する物はちゃんとしてた、その引き出しの広さ、確かな中身を持っている彼のあり方に僕は感心した。
それと彼はファッショナブルだった、彼はやることなすことがおしゃれで、当然彼が着る服もファッショナブルだった、多分彼に密かにお熱をあげてた女子はたくさんいたと思う、特に記憶にあるのが、冬のシックなスタイルに鮮やかな色彩のマフラーを巻いて中国の人民自転車に乗って走る姿が素敵だった、たまに彼女を後ろに乗せて走ったりしてたけど、またその彼女もおしゃれで、二人乗りして走る様はなんだかパリっぽかったな、、、、。.
彼は世界があったんだ、、、と今になって思う、あのころはまだ時代がダサく物や情報もなかった分、ちょっとしたことに存在感があって目立った時代だったけど、今にして思えば良かった時代だったなと思う、あの時代にああ言うヤツに出会って夢をもらったから今こうやって僕は写真家になれたんだと時々彼を偲ぶ、、、。
冒頭に書いたように、自分がこう言う職業を選んでなれたのは自分の努力もあるけど、普通に考えたらやはりこう言う職業は怖くて選べなかった、よくまあ覚悟を決めて選んだと思う、でも僕が現実の仕事をやったところでうまく行くはずがないのも分かっていたし、ヒデのようなヤツらに出会ってパワーをもらってこの道を進む元気をもらったんだと思う、つまり出会いがあったから何とかなれたんだな、、、と思う。

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