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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

曖昧なものの中から確かさを見る。 

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昨日は数年前、関西を旅行した帰りの電車の窓からふっと見た桜並木、それが忘れられずわざわざ関西まで桜を撮りに行った話を書きました。
まさかこんな第一級のすごい桜並木を、、、、、年にたった数日しか見られない事実を前にして、そこには誰一人見物する人がいない、世の中にはこんなおかしなこともあるもんだな、、、、、と感心しつつ、同時に呆れ果てながら、僕は桜見物を独り占めができました、おかげで僕はそんな優雅な場のドローン飛行撮影を思う存分誰にもはばからず、絵が決まるまで繰り返し繰り返しフライト撮影が出来ました、しかも歩道を低空飛行撮影ができたんですから本当にラッキーでこれは本当にぜいたくな撮影でした。
もし仮にここに大勢の花見客が酒盛りしていたなら、、、、僕はドローンの低空飛行などはおろか、飛ばすことすら出来なかった、仮に強引に花見客の上を飛ばして万が一ドローンが木に引っ掛かって落下し人のアタマに落ちたなら、(マジに翌日木に引っ掛けた)これは大変な事故になるのは間違いない、ドローンは実に凶器なんです、ドローンのプロペラは高速回転しています、ナイフと同じものが4枚高速で廻っているんです、これが人に当たれば何が起きるのか、、、、は想像はそんなにむずかしくないでしょう。

前置きはこれくらいにして、、、関西に行く前に図書館で見つけたある本、「白洲正子」サブタイトルに「ひたすら確かなものが見たい」その言葉にそそられその本を借りた、図書館で本を借りるなんて久しぶりです、わざわざ返しに行くのが厄介でアマゾンで古本で買った方がまだ良いと思うから。
借りた本と共に青春18キップで関西方面に向けてじっくり読みふける旅に出た、そしてどこか良い場所があったなら、今回みたいにいつか時が来たらカメラを持って行ってみよう、、、各駅停車でビール片手に読書しながら、あれこれ思いに耽る旅は僕にとっては気晴らしです。
白洲正子さんのご主人は白洲次郎さん、この両方の生き方と考え方は僕にはとても興味深くご主人はケンブリッジ卒業の経歴で、日本が敗戦直後の吉田茂首相の懐刀としてマッカーサーと英語で堂々とやり合った話は有名な逸話、その奥方の白洲正子さんは良いものの目利きとして前々から知ってはいたけど、じっくり彼女の著作を読んだことがこれまでなかった。
図書館でふと手にした鋏本佳代さんが書いた「白洲正子」を手にとって見た、立ち読み程度で少し読んでみたら、このまま読み続けたい気になった、サブタイトルの、ひたすら確かなものが見たい、僕はそこに惹かれたんだろうと思った。
内容を大雑把に話すと、白洲正子さんの著作に書かれた幾つか文の抜粋を鋏本さんが説明書きをしているんですが、白洲正子さんの物事の視点はすべては「能」が軸であることが書かれてありました、白洲正子さんご自身が幼い頃から50代まで能を演じられていた方だそうです。
僕が白洲正子さんに好感を持ったのは、白洲正子さんは良家のお金持ち出身の評論家でもなければ裕福な家柄の学者でもないことでした、ご自身、自らが能を演じる、表現者として概念をカタチ化する感性と洞察能力を感じますが、読んでいてスーッと入って来ます、僕は基本的に著名な評論家の書く文はほとんど好きにならないです、理由は自分自身で表現してる感じがなく、そこから何も伝わって来ないからだと思います。
白洲正子さんは古い能面があると聞けば各地どこでも自分で歩き回られたことが本に書かれていましたが、僕が白洲正子さんに共感するのは現場を見ないことには何も始まらない徹底した現場主義だったことと、概念の話ではなく表現者としての好奇心と確かなものが見たい情熱がひしひしと感じます、古い能面に出会った時の白洲さんの話はとても鋭い直感力をお持ちなんだな、、、と僕は感じました。
僕がこれ以上詳細を語っても仕方がないので内容については割愛しますが、僕がこの本から強く感じたことは、そもそも能とは、実態があるような、、、ないような、、、どうやら曖昧な世界のようです、能で演じられる人物はこの世の現身(うつしみ)なのか、霊的な存在なのか、、、本に書かれた内容ではその境界線がとても曖昧です、、、延々に結論がない実態のない能の話ですが、なぜか不思議と話の筋と軸は下手なそこらの話よりよほど確かなものを感じました。
今の時代は物事の大半は余白部分がほとんど残されていない現実的な概念ばかりですが、よくよく考えてみるとそこに確かさなんてほとんど感じられない、どれもどのつまりどうでも良いような、取るに足らないことばかりに感じます。そこに確かさなんて果たしてあるのかとさえ思います。
僕は写真表現を通して毎回考え続けていることは、掴みどころのない感覚世界をどうしたら説得力を持った確かな概念へと置き換えられるのか、それを作品を作る毎回のテーマとして一番苦労し考えます、多分作品を作ることの一番の仕事とクライマックスはそこしかないと思います、、、、。
そこさえしっかりしていれば、写真の撮り方が上手いとか下手だとか、カメラがなんだとか、プリントが上手だとか、色がきれいだとか、そんなのはさほど重要じゃなくなり2の次に感じます、むしろスキルの下手さは作品の凄みにさえなります、要は描くべき物語りと作り手がどこまで一致するのか、つまりカタチのない世界をどこまで上手くカタチ化できているのか、そこに作り手がどこまで迫れるのか。
白洲正子さんはそこに心血を注いでいたのではないかと感じました、つまり曖昧な実態のない空(くう)の概念をどこまで色(しき)の概念に翻訳するのか、ということが問われていると僕はその本から感じました。
ここだけ語るとこれは実にむずかしい話をしているように聞こえるかも知れないけど、ちっとも難しくもなんでもないです、これはカタチのない感覚を如何にカタチ世界に表現ができるか、その方が遥かにむずかしいです、その行為を散々したなら、概念だけの話などカンタンなことです、むずかしいのは語るではなくカタチにできるのかです。
しかし思いますが、今の時代、現実的なことに日々追われていますと、この概念の能力がおそろしく退化してるみたいで、人生何十年も生きた立派な大人たちですら悲しいかな、、、、この概念把握能力は幼子同等の能力しかない現実を僕は感じます。だからあんなに見事な桜よりも猥雑な場ばかりに人はごった返すんです。
先に書いたようにこんな見事な桜を前にして誰一人ここで桜を愛でる人が一人もいない、、、、、この事実にはため息が出ますね、四季の移り変わりをわずか五七五に託して俳句を読んだ日本人の感性は一体どこに消えてしまったのか?日本はどうなってしまうのか憂いを感じます。

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