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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

意味不明な写真と鳥肌が立つ写真 

写真はやっぱり意味不明なものが多いです、撮ってる人も自分が何を撮ってるのかそこがよく分からなくて撮ってる人がたくさんいます、写真はゴマカシがいくらでも利く分だけ、そこが曖昧になりがちです、もしそれが食べ物商売なら美味いか不味いは分かりやすいし、お客さんからダイレクトな結果が出るけど、写真はそうじゃない、だからつまらないことでもみんな見えなくなって、意味不明なことをやってるケースが何かと多い。
それは「写真とはいわゆる芸術活動」だからなのか、、、みんなやっぱりそこに構えるんだろうと思う、そこがタチが悪く、みんな物がそこで見えなくなってる理由じゃないかと思います、それは一旦横において、自分が撮る物は魅力的か、ツマラナイのか、そこはしっかり判断すべきだし、徹底すべきだし、そこはもっと目を向けないとダメだと思います、そこから出発すれば物はもっと明確に見えると思うんですが。
まともに考えたらそんなの当たり前の話です、でもそこがわからなくなっている人が実に多いんです、僕が前に書いた、写真展で「写真を見て欲しい」と言われた時、断ったのはそこです、自分で良いのか悪いのか判断がつかない人の写真は僕は見たいと思わないし、見たところで仕方がないし、見て何を言えばいいのかこっちだって困るし、見せるならそれ相当の態度をはっきりさせて見せるべきだし、、、、。

これは僕が普段から思っていることですが、物語とか、作品とか、音楽とか、人が表現したものには、人の心をいつまでも掴んで離さないものがあります、それが時代の流行り感覚で魅力があるのか、時代を超えて魅力があるものか、魅力のあるモノにはその違いがあります、不思議なもので時代感覚、流行り感覚の魅力は時代が経て見ると一気に古臭く見えてきますがこういう違いって、みなさん理解出来ますか?
クルマのデザインがそうです、大体は時代が経った後で見ると古臭いんですが、かつて「いすず」がよく採用していた工業デザイナー、ジウジアーローがデザインしたピアッツァは今見ても本当にカッコいいです、時代なんか超越しています、ユーミン(荒井由実)の初期作品も今聴いてもジーンと来ます、これは偶然でそうなったのではありません、ユーミンは自身の文に、私は時代のキーワード(流行り言葉)は使わないようにしていた、と語っています、ジウジアーローも時代を超越したデザインを重視していたと僕は思います。
また村上春樹氏の自身の小説の考えを書いた「職業としての小説家」という著作があります、そこに物語に対する考えが書かれてあります、物語には何度読み返しても読み応えのある物語とそうではない物語、つまり中身の詰まった深い話と中身が中身の浅い話はやはりどうしてもあると思います。これについてはまた後日、ゆっくり書きます。
中身のある話は余韻が残ります、心の深い部分に何かメッセージをポンと残します、これは写真にも同じで、自分が何かを撮る時、その被写体は面白いのか、面白くないのか、奥の深い何かがあるのか、そこまで深いメッセージはないのか、自分が何が描きたいのか、それなりの思いを持って撮るなら少しくらいは考えるべきです。そこに撮り手と作品の品位が問われます。
時々思うんですが、それが出来るのか、それが出来ないのか、その差が才能の違いなんだ、、、という考えもできます。
もし、その考えが曖昧ならば作品はどこまで行っても力不足にならざるを得ないし、、、、、ただこういう事が言えます、撮りたい思い描きたい思いは確かにあるが、それが言葉に表せない、具体的な写真表現としてそこが上手く繋げられない、それは確かにあります、でもそこがはっきりさせられず弱ければその作品はどこまで行ってもいつまでも弱いままだと思います。
冒頭に戻りますが、自分が撮るものは面白いのか、魅力的なのか、中身があるのか、どうなのか自分の心をはっきりさせて撮らないとやっぱり写真は曖昧にしかならないです、作業に神経を奪われた写真はどうしても理屈っぽくカタチをなぞっただけのものになります、人の目は適当なものでカタチがきちんと撮れていれば、なんとかゴマカシは効きます、でもイメージが掴まえられていないものはどこまで行ってもダメでしかない。
逆に何かが見えていて撮ったものは撮り方が未熟でも不思議なくらい何かが写っています、こういう写真に出会うと時々鳥肌が立つ思いがします。

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