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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

美意識と内面探索性 

絵とか写真とかモノを作るにあたって必要な資質とはとどのつまり「美意識」これに尽きるのかな、、、、、、って思います、この美意識が潜在的に高いか、どうか、ではそこには大変な差が出ます、何か壁とかスランプに行き当たった時、たしかな美意識があるか、ないか、では、壁を乗り越える意欲は違うし、その先を切り開く力もまったく違ったものになる、結局はどんなに理屈を語ったとしても話はここに尽きる気がします。
美意識なんて以前はあって当たり前と思っていたから今まで真剣に考えたこともなかったけど、やはりこれ以外はないって思います、今日はその美意識について話したいと思います。
パリに行くと「ここは美意識の高い街だな、、、、、」って思います、ロンドンからパリに行くと、なおさら感じるんですがところどころに他にはない美意識の高さを感じます。
テムズ川なんてどう贔屓目で見たとしてもセーヌ川に比べたら川周辺の街並みはあまり美しくない、かつてテムズ川沿線はそこに大きな船が入ったからかつて工業地帯だったことを感じさせられ川沿線には工業建造物がいくつか見られます、隅田川周辺も同じでお世辞にも美しい川とはとてもじゃないけど言えない、ロンドンはパリとはまた違った美しさがありますがパリはやはり理屈抜きに美意識の高い橋とか建造物がたくさんありフランス人はパリを本気で美しい街に仕上げたかった意思が感じられます、もちろんロンドンにだってタワーブリッジという世界的な橋がありますがあれは美しいと言うより建造物的な価値な気がします。
つまりその違いは何かと言えば「美意識」の違いに尽きると思います、写真にしても同じでとどのつまり撮った人の美意識がそのままダイレクトに出ます、上手いとか下手ではない、悲しいかなそれはどんなに逆立ちしたところで、美意識のない人の作品はそれまでです、美意識の高い人の写真はうっとりします、その違いはどんな理屈を並べたところでどうにもならないのかな、、、、?って思います。

パリのシャンゼリゼ通りは1616年ごろに作られた大通りですがベルサイユ宮殿の庭を作ったルノートルが設計しました、1600年とは関ヶ原合戦の時です、あんな頃には自動車はまだ走っていないし当時ははまだ馬車しかなかった時代に果たして戦闘機が着陸できそうな無駄な広い通りがどうして必要なのか?と思います。
あの当時、民衆は飢えていたけど、貴族はそんなことはお構いないしに無駄な散財を繰り返していた、その行き着いた先がフランス革命だった、そこに必要だとかの理屈なんか超えてただ街を美しくしたいから莫大なお金をかけて美しい宮殿や美しい通りや美しい橋を作った、それがあの当時のフランス人貴族の無駄な「美意識」だったと思います。
要するに美意識とは食べて行くためだけなら「無駄なものでしかないこと」であって、それは優雅な暇人の考えることだったと思います。
皮肉にもフランス革命を経て無駄な貴族を排除したフランスはその無駄な文化遺産のおかげで今のフランスの栄光があるのは間違いないです、もしフランスがもっと堅実で質素で常識的なフランス貴族だったならば、果たして今のフランスはあるのか?どう考えても答えはNOです、イギリスみたいに質素で地味な貴族ではロンドンを世界で最も美しい街には作れないし世界中に侵略して植民地を作るしかすべきことはなかったわけです。そのおかげで英語は世界の言葉になったわけですがどっちがいいのかは分からないです。
こうなると、無駄な美意識と役に立つ現実性、この無駄な浪費と有益な侵略の違い、その境目って一体何なのか?一体どっちがどうか?ってマジに考えてしまいます、写真をマジに撮りたい方はその辺りの概念哲学について一度くらい真剣に考え向き合ってもいいのかな、、、と思います、美学とはとどのつまりは無駄な思考とその積み重ねが自分の内面の探索力を養い、結果それが美学に醸造されることだと僕は思っています。逆にこれをやらなければどんなに足掻こうが美大に行ったところで本物の美意識なんてウソだと僕は思います。

世界をいろいろ旅した目で京都を見ると、そこはとんでもない美意識の街だったことに気がつきます、歴史の宝庫の中国だって見ましたが京都に匹敵する街なんか中国にはないです、北京の紫禁城はただ広大なだけですし、あの長安ですら京都の足元にも及ばない、京都はまさにイタリアの遺産と同様です、日本は世界的にも大変な文化遺産を持った国であることを意外にも日本人自身が分かっていないのが現実です。
特に日本の美意識はヨーロッパの美意識に比べてとても内向的で禅に通じる精神的な美学だと思いますが日本は世界でも稀に見る突出した精神文化では知的な美意識文化を持った国民性だと思います。
これは学んで養うことが可能なのか、、、、?
僕はそうは思わない、きっかけは学べても最後は学校で学べるものではなく物心がつく頃から生活の一部で自然に吸収するのが理想だと思います。ある程度、年を取って美大で学ぶものは往往にして嘘くさく頭デッカチでタチが悪いことがやたら多い。
京都のお寺は修羅場の現世に対し極楽浄土の美意識を感じます、庭造りからは言葉を超えた美学を感じます、言うならば、闇と光の美学と言えばいいのか、物事とは、美学だけでは成り立たず、闇があって美学が成立する、その光と闇の理(ことわり)を少しは理解しないと、精神世界の美意識は深まらないと思います、それが日本の美学、日本通だったモネは禅、陰翳礼讃の美意識を直感的に理解していたと僕は思います。
つまりここで一つの結論に結ぶと科学とか医学の学問は外から吸収して学ぶものですが美意識はそうではない、アタマで蓄積しただけでは何の役にも立たず、それを一度自分の心に重ね合わせ、人生体験の中での様々な喜怒哀楽に絡め合わせ出た概念じゃなければまだ美意識になっていないものです。
成熟した美意識というのは埋れた記憶を紐解きの意識作業をしないと作品として説得力のある美意識にはならない、、、それが僕の実感です。ところが、現代人の思考パターンは情報の仕入ればかりに終始し多くのエネルギーはそこで消費し疲弊し右往左往するばかりでとても美意識とか物事の真か偽を自分の目で看破できるそんな悠長な意識を持ち合わせていない人が殊の外多いのが現状です。
これは若者層だけに限らず50代や60代の成熟した年齢層ですら若者たちと変わらない幼い精神性が多く、自分の世界観とか美意識をまったく持たない大人がとにかく多い。
僕の場合、これは多分誰だって往往にして同じだと思うんですが作品を作るステップは始めから物事がクリアーに見えているわけではない(見える時もありますが)撮りながら少しづつ手探りで輪郭を探しながらイメージを積み重ねます、案外多いのは撮った作品からインスピレーションを引き出されその先が見える場合はよくあります、かすかにしか見えなかったモノが撮り進むうちにはっきりします、逆に撮った作品が悪かったり、当初に感じていた世界とは違うところに行ってしまうとモノがまったく見えなくなります。
そういう時に振り出しになんとか戻れるか、そこで終わってしまうか、その違いは内面世界がどこまで冷静に見えるかにかかっています。とどのつまりの結論は内面世界の探索力と美意識の発掘力は同じもので、それは内面世界に対してのリアリティーをどこまで感じているか?です。

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