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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

120年前の新しい時代感覚が僕は好きだ。 

クリエーティブの仕事をしているといろんなアーチストの作品をたくさん見て、いろんな作品集、写真集、画集をたくさんコレクションしていたり、それらについて知識があったり、ギャラリー巡りをしていないとダメみたいに思われがちだけど、、、、どうなんだろう?僕が思うに必ずしもクリエーターはそれは必須だとは思わない。
僕がまだ若くカメラマンを志し上京して、、、、まだ何も知らなかったころ、最初に助手になったカメラマンの事務所にはまるで図書館のように壁一面の書庫にはたくさんの写真集、美術書がコレクションがあった、初めてそれを見た時、圧倒されたしカメラマンというのはそうじゃなきゃならないものだと思っていた。
たしかに何も知らないのはあまり良いことじゃないだろうし、いっときはいろんな作品集、美術書を片端から見る時期があっても良いし、むしろそれをまったく通過しないでカメラマンになろうとするのは果たしてどうなのかな?って思う、やっぱり良くても悪くても駆け出しのころは頭ごなしで構わないから誰かに就いて安月給でその世界を一部始終見せてもらって下働きに明け暮れる時期はあってもいいと思う。
下働きの意味とはそれを通して仕事も覚えさせてもらえるけど、それだけではなくてもっと違うものを学ばせてもらえる意味がある、そこそこに仕事をしてるカメラマンは一体どんな暮らしをしてるのか、どんなモノを見て勉強しているのか、下積みでは経済力がないから高価なものに触れる機会もないし、時々、値段の高いレストランにも連れて行ってもらえるし、金のない下積み者には何かといい経験をすることだってある。
ただその下積み生活があまりに長過ぎたり下っ端根性が全身に染み付きすぎたりすると自分の考えがないまま大人になるのはどうかと思う、、、、まあ細かいことは自分自身で考えて決めることだけど、それが自分で上手く選択が出来ないヤツはどんなことをしたとしても頭角は表せないし結果は出せないと思う。
僕はスタジオアシスタント、カメラマン助手を経て、小さなプロダクションに入って、カメラマンになろうと試みたけど 結局それまで身を粉にしてやった下積みは、要はただの助手であって言われたことをテキパキとこなすだけの仕事に明け暮れていただけで、自分で考えて自分の感覚で撮る、この単純な訓練については、下積み時代は何もしていないから、さあ今日からカメラマンになろうとしても何も出来ない自分に直面する。
考えたら、そんなごく当たり前のことすら下積み時代はあまり深くじっくりと考えず、その事実を見過ごしてきたわけで、その時、痛感したのは「アタマを使ってこなかった」下積みの意味に対して僕は疑問を感じた。
それで僕は日本を出て長期間の旅をした、旅で写真を撮って、撮ったモノを見て、自分と向き合って、自分の体質について考えたり、自分は何が撮りたいのか、自分は何が撮れるのか、自分は何を撮ることに向いているのか、写真を通して自分はどういう生き方をすべきなのか考えた、こういうことはただ考えればいいってものではない、ただ考えるだけならたいした結論には至らない、と言うか至るはずがないと思う。
写真とか自分の表現媒体があるから、自分についてとことん考えることができる、自分が下手な写真しか撮れなかったら、どうして下手なのか考える、第一線のプロ水準と自分を比べると、自分はどの辺に立っているのかがだいたい分かるし、第一線の水準にたどり着くには、何が足らなくて、何をしなくてはならないのか考えるし、自分の写真が今現在どのレベルにいるのかそんなことをあれこれ考える。またそこをじっくり考えなかったら上になんか絶対に行けない。
そう言う意味で下積み時代に誰かの助手をするのは少しは意味がある、またいろんな作品集を片端から見る時期だって必要だと思う、ある意味でそれは絶対に通過すべきと思うけど、いつまでも人の写真集を熱心に見るのはどうなんだろう?少なくとも僕は人の作品を熱心に見ないし、誰かの作品展だって熱心に通わないし、誰かのFacebookだって熱心に見て「いいね」を入れたりしない、でもカメラマンになって東京に事務所を持って仕事を忙しくしてた時期、いっとき集中してあらゆる写真集を次々に買って見たこともあった、でも今も手元に残っている写真集はわずか1冊しかない。
なんでだろう?なんで自分はそう言う生き方をするんだろう?それは自分は極めて個人的な性格で、誰かの写真を見て自分の参考にできるタイプではなく、そう言うものはむしろ自分を見失うだけが圧倒的に多く、その結果そうなってしまった。
それともう一つは僕はわりと古典思考の持ち主で今風の思考回路、価値観はだいたい自分に合わない、僕が最も自分に合う時代感覚は1800年末から1900年初頭の印象派の時代感覚が好きだ、あの時代、エジソン、ライト兄弟がアタマを捻っていた感覚が自分が最も共感ができる時代感覚だと言うことを自覚している。
多分、僕の感覚は、鉄道が一般化し、人間が初めて空を飛び、家庭に電球が普及し、異国文化がまだ新鮮だった時代感覚が僕にはシンプルで分かりやすいし、実際にその時代の話が好きだ、絵画にしても、アメリカの発明ラッシュ時代も好きな時代です、それ以前の時代感覚は宗教色が強すぎて聖書が主題の大半だし、それ以後の時代になると時代感覚は物質中心になって肌が合わない、、、、。

どうしてそんな話を今日は書いたかと言えば、話はちょっと変わるけど、普段あまり見ないFacebookを今日はあるデザイナーのページを開いて過去を遡って開いてしげしげ見てていたら、彼の興味についてふとある事に気がついた。
それは、僕らクリエーターとかカメラマンは十把一絡げに「クリエーター」として括られているけど、だいたいは今現在の需要として広告か出版かプロダクトデザイン、多くはこれらに属しています、でもそれぞれにみんなそれぞれに自分のルーツとか自分の原点をちゃんと持ってるんだな、、、とFacebookから感じたわけです。
Facebookをじっと見て感じたデザイナーは一昔前のNY(ニューヨーク)のデザイン世界に憧れそれが彼の原点であり基盤でありそれが彼のすべてとして自分を確立してきたんだろうな、、って感じたわけです。そう思うとみんなそれぞれに自分の原点というのがあるんだなって感じたわけです、でも今はこの2018年の日本でそれぞれの場で仕事をして生きている、でも彼のルーツは一昔前のNYから影響を受けて今があるんだと感じたわけです。
そう思った時に自分を振り返った時、僕は先に書いた通り、心は120年前のヨーロッパ(パリであったりロンドンであったり)の工業製品が目新し時代で、それまで中世のキリスト教会に振り回されていた時代から科学が新しい時代感覚を切り開いた時代で、次々に物が発明された時代感覚で、パリにエッフェル塔が建てられた時代、それが僕にとって一番心が踊る時代の感覚なんだな、、、とより深く強く自分のルーツに気がついたわけです。
いきなりこんなことはちょっとバカみたいな話にしか聞こえないかも知れませんが、それが僕のルーツです、、、、、。

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