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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

これからの魔法植物園のあり方(2)客観性と歪みのはざま。 

写真とかカタチのない内面の表現をするなら、どうしても必要なのは自分表現に対して客観的な目線を持っている必要があります、これがないと、その先の表現に行けるかにかかってきます。
自分の目が見たものを自分が見たものとしてそれが自分の考えに一致できるには、自分の心の目が自立していないと何もできないと思います、でもそれが自立した人はそんなに多くはいません、大体は権威ある人の評価に飲み込まれます。そこが自立していない心のままではいくら優秀な感性を持っていたとしても表現は限度があります。つまり人は自分が見たものをそのまま自分が見たままの判断ができません。
人間は弱い存在です、常に正しい判断できる目を持っていません、歪んだ目でモノを見てモノがあるがままに見えていません、作品作りとはこの歪みと客観性の葛藤と言っても過言ではないんです。これがある程度、自立できた時点でやっとそこから自分表現ができるようになるわけです。

時々、人の作品を見て、よくまあこんな作品を人前に出せるな、、、そう思うことが多々あります、厳しい意見ですがそれが現実です、それは表現力がある、ない、の問題以前に自分の作品ジャッジが自分の目で正確にできないんです、これは他の分野でも十分通用する基準だと思います。
写真の才能がある、ない、これは大事ですが、自分の表現が、良いのか、良くないのか、判断できる目線がどれくらいあるか、です、結構良い年をした社会的にも地位のある大人ですら、ここが若い子たちの精神年齢とさほど変わらない人って意外に多いです。
思うんですが、現代人は、スマフォ、パソコン、この概念はわりと鍛えられアタマが上手く回るんですが、内面の概念把握力、分析力、整理力、洞察力はまるで訓練ができていない大人が殊の外、多い。
やはり学校教育はそれをまったく教えなかった、まるで分かっていない文部省役人が多く、学校ではそれを教えない、その意識訓練をしていない大人たちが世の中にはあまりにも多いです。

よく聞く話ですが、素敵な恋人に出会います、心はポーっとして相手がよく見えて仕方がない、この人は間違いなく自分を幸せにしてくれる人だと都合よく自分勝手に思い込みます、ところが結婚して初めて現実に気がつきます、こんな相手とは思わなかった、それを相手のせいにします。
結婚前だって、見る気さあれば見えたと思うんですが、それを見ようとはしなかった、そう言う心のあり方がまったくない、結婚してその現実に出会い失望して離婚するケースは意外に多いです。
宗教の洗脳も同じようなものです、宗教の良いとこ、悪いとこ、あらゆる部分を冷静に見ないでしっかり洗脳されてしまいます、でもそれは実は洗脳でもなんでもないと思います、物事に対して自分自身の目が冷静な自己判断力がなく、相手の言うがまま信じ込んだだけの話です。宗教者のいうこと、占い師のいうことを信じて自分の目を信じるすべがない。
作品作りもこれとまったく同じです、作品作りをするということは、どうしても陥ってしまうその手の落とし穴、まやかし、人間の心の弱みに対してどれだけ自分の目でものを見ているか、その心の目が本質をしっかりと見通せます、その心の目の学習をどれだけしっかりやって来たのか、そこが鍵です。
とは言え、冷静な心が絶対良いかと言えば、そうでもなく、冷静な心だけではどうにもならない、のめり込んで自分の作品に対し見えなくなるくらいの感情の強さ、愚かしい心も同時に必要です、強い思い入れで自分の作品世界にのめり込むくらいじゃないと、やはり作品なんて作れません、作品作りとは煩悩がないと作れない、これは宮崎駿さんの言葉ですが、、、。
でも同時にすごく醒めた目線もないと収集がつかずまともに作れません。この意識の激しい乱高下、心の業の弱さを学習し自覚しておかなくてはならないんです。
さて昨日の話題に巻き戻します、正直な話、作品をずらっと醒めた目で見ても心は悲しいほどワクワクした気持ちにはなれません。正直な話今までやって来たことはなんだったのかと思うほどです、これでは高いお金をかけて写真集を作ってもお金の無駄な気がします。そこをどう判断するのかが葛藤です。
じゃあどうして作品は良くないのか、作品はただつまらない作品でしかありません、これはもう作品に対して自分は飽きたのか、そもそもこの作品は始めからその程度だったのか、、、、、今まで見えなかったことが今になってやっと醒めた目で見られるようになったのか、これがあるがままの姿だったのかも知れない、でもこれで写真展をすれば、多分そこそこに人は来てくれるかも知れない、そこそこに良いねと褒めてくれるのかも知れない、、、、、、仮にそうなったとして、それが一体どうした?って気持ちに僕は多分なると思います。
自分はこの作品を通して要は何がしたかったのか?自分に問うしかありません。
村上春樹氏は「職業としての小説家」の中でこんなことを言っていました。書き上げた作品は一度キレイに忘れるまで作品から離れ放置するそうです。
多分春樹さんのことだから、その間、海外作家の小説を見つけて翻訳に没頭するでしょう、作品のことはすっかり徹底して忘れるんでしょう、分かる気がします、村上氏だって作品に対して強い思入れがあって、そこに入り込んで物事は冷静に見られなくなるんだと思います、誰だって心のバイアス(歪んだ見方)がかかるんです、そこから客観性を取り戻すためにいっ時、放置します。
多分僕の場合、それくらい放置させると意識が作品からどんどん離れてしまいどうでも良くなっちゃうか、もう再び同じところに意識は戻れないくらいまでなっちゃいそうです。でもそうなったらそうなったで仕方がないことです、所詮それだけのものだったと捉えるしかないのかなって思ったりします、今後どうすべきか冷静に判断します。でもこの状態では何も進展はしないだろうしやっぱり作品から少し離れるしかなんだろうね、、、、作品作りでこんな気になったのは初めてです。

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