FC2ブログ

アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

必要とされるのは宗教的感性ではないか。 

235147.jpg

長崎の島々で2週間も毎日、毎日、教会を訪ねて礼拝堂で祈りの日々を送って、日常生活に戻るとやはり行く前にくらべて心境に変化があったように思います。
特に救いを求めたり心境の変化を期待して巡礼の旅に出たわけではない、また何らかの功徳の期待もまったくなかった、ただいつか行こうと思いながらずーっと行かず終いがイヤだから行った。
今までこのブログでは宗教について踏み込んで書きたくなかったけど、今日は少し踏み込んで書きたいと思う。
宗教と一言で言っても、各人それぞれ宗教観はあります、仏教とキリスト教でも宗教観が違うんじゃないかと思う。
そもそも日本の檀家制度とは、あれは純粋な意味で宗教なんだろうか?果たしてあれを宗教と呼べるんだろうか?子供の時からずーっと腑に落ちない思いでいました。
檀家制度とは、江戸時代、幕府がキリスト教禁止を目的に作られた制度だそうです、江戸時代、役所制度がなく「結いの文化」つまり村制度で、お寺が役所の代わりに各檀家の戸籍を管理し、今で言う戸籍課の役割だった、お寺は学校でもあり、地域文化センターでもあり、さらに京都、奈良の名だたる寺院は武士や役人たちの宿泊所の存在だった。
また檀家になることでキリスト教徒ではない証明を寺が行っていた、改めてお寺とは釈迦が開いた仏教とは遠い物になってしまい、檀家に属すればすなわち仏教徒である、これはどうもおかしいんじゃないか?とずーっと感じていたし、歴史上、宗教は時の権力に都合よく利用され、時には迫害を受け、おかしな物に変えられた歴史だったと思う。
こんな話があります、周知の通り長崎の隠れキリシタンは激しい弾圧の目を盗んで信仰を守っていました、見つかれば厳しい拷問が待っています、それに見かねたある寺の住職はキリスト教徒たちを守るため檀家信者さんに偽装させた、住職の心使いに感激したキリシタンの中にはそのまま寺の檀家に転じた人もいたらしい、でも住職は見て見ぬふりはできないが故の行いだった。

今回の長崎教会巡礼の旅では教会に足を運んで礼拝堂をただ見て終わるのではなく、その場で祈りの時間を持ち場の空気に同化するよう心がけた。
心がけていたのは、「変えられないことは受け入れる心を、変えられることは変える勇気と意思を、また受け入れたくないこと、強く嫌悪する思いに支配されるなら、それはあることとして無理に変えようとせず、自分の思いとして受け入れ、その思いに対し祈り続けること。」
特に聖人になりたいとか救いを求めて巡礼をするではなく、身に付けた価値観、習慣に振り回されて生きるだけの人生ではなく、宗教的感性に少しでも近づこうとする行為が、祈りであり、巡礼であり、それが宗教ではないかと思います。
今回の旅で感じたのは宗教とは理解するものではなく、自らが歩み寄るものと思いました、また今のような混迷の時代、最も必要とされる感性は宗教的感性、精神性、じゃないかと、、、、この心を持たずして、大きな意味においては何も為せないのではないかと思ったわけです。

この記事に対するコメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://suiheisenbiz.blog52.fc2.com/tb.php/2382-a1f0cdbf
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)