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アトリエ水平線より

渡会審二の写真日記

すべてはこの街で撮ったことから始まった 

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ロンドンの豪邸の下働きはもう少し居たかったけど、僕の適当な働きぶりはマダムの息子には(始めは愛人かって思っていた)評判が良くなかったみたいで結局はある日突然、辞めさせられた、日本人なら何か気に入らなければブツブツ文句からまず始まるだろうけど、、、、そこは何の前触れもなく、いきなり今日から辞めてくれとあっさり言ったことに拍子抜けした。
そんなこと言われたって、まず寝泊まり出来る行き場すらない、どうすべきか迷っていたら当分は友人宅にお世話になったけど所持金やらビザやらを考えてこの辺りが退け時かなって思い僕は帰国した。
さて、次は何の話を書こうか、、、、、、またインドの話になるが今回はイギリス滞在から10年くらい経った時の話、僕の2度目のインドでの話です。
家具職人を終え、カメラマン助手も終えて、、、、さてこれからどうしようか、、、、カメラマンになるにも自分の作品がまだない、これから作品を作らなくては話にならない、小さなプロダクション(撮影を始め写真全般の仕事を受け持ってるところ)の募集を見つけた、そこで暗室プリンターをやりながら休日はスタジオで作品作りができる、当分はそこで腰を落ち着けることにした。
ちょうど結婚したばかりだった、あまりフラフラ出来ない、休みの日は作品を作って早いとこフリーになろうと、連日の残業で疲労は溜まっていたけど、ダラダラしないで自分のケツを叩いてスタジオで作品を撮った、でもそれらの作品は何だか今ひとつしっくり来ない、気持ちが乗らない、思うように撮れない、そのプロダクションに時々出入れしていたカメラマンに撮ったものを見せて意見を聞いた。
カメラマンは僕の顔を見てあっさり言った「オマエは他に撮りたいものがあるんじゃないの?こんなの撮っても仕方がないだろう、、、、こんなことさっさと辞めた方がオマエには合ってるよ」と躊躇なくズバッと言われた。多分合わない場所に居るんだなって思われたんだろうな、、、、、思えば、僕は人生振り返って肝心な分岐点に立って迷っていたら、誰かが必ず躊躇なく、ズバっと「そんなところにいないで次の場所に行け!」って背中を押す人がいた。
そうあっさり言われたら、気持ちが吹っ切れた、辞めようと思った、ちょうど家内も自分の仕事場が連日の残業で精神的に限界だった、これ以上こんな二人揃って生活を続けたところで、、、、これが一体何の意味があるんだろう?と思った、二人で一緒に辞めて気持ちをリセットしたいと、インドに長期の旅に出た。

さて、インドに行ったけど、そこで具体的にどうすれば良いのか、、、、写真を撮るにしても、何にカメラを向けたら良いのかが分からない、どうしたらもっともらしい作品が撮れるのか分からない、カメラマンの助手を何年かやった、撮影周辺の雑務は一通り覚えた、例えばプロのモノクロプリント技術を覚えた、スタジオライトの組み方も一通り覚えた、何をどうすればどうなるのかもまあ大体覚えた、これらは知らないより大きな進歩だ、また広告カメラマンはどう言うステップを踏んで、物事をカタチにするのか、そのやり方も大体分かった。
確かに自分は最先端のカメラマンの撮影現場のいた、助手ではあったけどその場の一人として関わらせてもらった、でもだからそれが一体何なのか、、、、有名カメラマンの助手だったら写真が上手く撮れるわけではない、それらは自分で考えたのではなく所詮は助手であって、それはお手伝いに過ぎない、さてこれから自分は何をするのか?ここで放り出されても自分は何一つ撮れない、何の人脈もコネもない。
インドで何かカメラを向けるにしても、気がつくとインドで名をなした有名写真家の物真似に過ぎない自分を見た、インドで自分は何を見て、何を感じ、何を考え、そこから何を描くのか、、、そこがさっぱり分からなかった、僕らがインドでやっていたのは、ただガイドブックに書かれた観光地を一つ一つ回る旅にすぎなかった、要するにそこらのバックパッカーと何も変わらなかった。
正直な話、そんな僕は自分に焦っていた、日本の生活に愛想を尽かして出たはずなのに、、、、、インドに来ても、ただガイドブックの旅をしている自分を見て、果たしてこんなことしていて良いんだろうか、、、?言葉にならない葛藤が僕にはあった。
確かにインドの現実は日本の退屈な日々からすれば凄まじかった、凄まじいインドを見ても、、、それが一体何なのか、、、それで僕は何を考え、どう反応すべきか、僕はちっとも分からず答えが出せなかった、気持ちはひどく焦った、長い旅に出たけどちっとも楽しくも何ともなかったし、むしろ自分は苛立っていた。
そんな気持ちを抱えたままインドの大都市ムンバイに着いた、たまたま街中をバスに乗っていた時、家内が街の風景を見て、「ここ写真にしたら絵になりそうだね、、」と何気に呟いた、僕はそれを聞いてハッとした。自分の目は自由にモノが見えていない、そんな自分をハッキリ気がついた。
そうか、、、、自分の心は完全に呪縛されているんだなって思った。
と言うか、、、自分はまだまだ表現の訓練なんか何もしていないんじゃないかと思った。
今までこんなスラム街みたいなグチャグチャな街を撮りたい、そんな気持ちはまったくなかった、でももうそんなことを言ってる場合じゃない、今は撮りたいとか、撮りたくないとか、じゃなくて、どうせ今まで何も撮れなかったんだし、今は理屈抜きにこれを撮ってみようじゃないか、、、と思った。

豪邸マダムの趣味 

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写真上は何十年ぶりにウインブルドンに行ったが自分がどの家にいたのかがまったく思い出せなかった。
写真下はすぐ近くのウインブルドンの大きな公園、園内には馬散歩コースがあった。

豪邸で働き始めて、奥さんのことを「マダム」と僕は呼んだ、几帳面ではない、掃除はどこか適当、手早く出来ない、僕がそれらの仕事が明らかに不向きだったのは数日でマダムは気がついた、このままこの子を雇い続けようか、、、、どうか迷ったそうだ、ただ救われたのは「おかしな一致点」で、なんとか置いてもらえた。
そもそもどうして日本人の男の子を募集したのか?
仕事内容は部屋掃除だけに限らず庭仕事も多かった、庭仕事の場合、他に黒人下働きがいた、時には穴を掘らなくてはならない、時には屋根に登って雨樋(あまとい)の掃除、修理もやらなくてはならない、それらは男子じゃないと無理だった。
前の日本人は几帳面できちんとムラなくよく働いたそうだ、しかも日本人に限ったのは、物を盗む心配がない、英語さえ教えたら安かろうが文句も言わず働いた、当時はまだアパルトヘイトが南アフリカで残っていたから有色人種に対する偏見が残っていた時代、でも日本人だけが被差別の壁を超えた人種だった。
先に上げた「おかしな一致点」とはマダムはティーパーティーが趣味な方で頻繁に開いていた、パーティーに使用するテーブルクロスやティーカップは凝っていた、もちろんテーブルクロスとティーカップは毎回違う物を使用し、前回使用したものを次回には一切出さなかった、そのコレクション数は半端じゃなく多かった、それを僕は興味深く見ていたのがマダムには気に入られた。
時々それを引っ張り出してはあれこれ話をするのがマダムは好きだった、前に居た日本人にはその認識は皆無だったそうだ、、、僕は彼とは違ってそれに対する好奇心があった、特にカップには知識と好みと意見が僕なりにあったがそれがマダムとうまく一致し相手を喜ばせたらしい、そして僕を信頼したのかパーティーのカップ選びを僕に任せたことすらあった。
パーティー前日にはマダムは特に念入りにカップやテーブルクロスを引っ張り出して机に並べてあれこれ始まる、これとこれをここに並べたら美しいでしょう?花これが良いかしら、、、、、とブツブツ言いながら庭に行って花を選ぶ、そしてその度に必ず「シンジ、あんたなら何を選ぶ?」と僕にマジに意見を聞いた。
花柄のカップに関して自由に好き勝手に意見が言えたけどギリシャ神話の絵柄カップはもうお手上げだった、その手のカップはマダムに拠ればパーティーの席で神話のうんちく話を一通り披露するようなことを話してくれたが英語説明が今ひとつ分からなかった。
マダムから意見を聞かれた時、躊躇しないで気の利いた意見がサラっと言えたらマダムは機嫌が良かった、もし万が一につまらない意見を言ったら機嫌はあまり良くなかった、理不尽で単純だけどそうだった、僕はマダムの機嫌や顔色を見ながら意見したことはほとんどなかった、わりと思ったことを意見して機嫌を損ねたことはなかったけど、前に居た男子はそうじゃなかった、マダムの顔色を見ながら意見するのがマダムにはそれが非常に気に食わなかったそうだ。
時にはもう少し踏み込んで、マダムの選んだテーブルクロスとカップの組み合わせは良くないと思った時、他のテーブルクロスと違うカップを組み合わせをテーブルの上に並べた、それでマダムを悦ばせ上機嫌にさせたことがあった、その日のマダムは鼻歌を歌いルンルン気分だった、その手のおばさんは日本人にはあまり見たことがなくそれだけでも良い経験だった。
マダムは時々リバティープリントやティーカップの買い物に僕を連れて行ってくれた、部屋で掃除するよりずーっと楽しかった、また昼はどこかでご飯を食べさせてくれたり、今思えばロンドンの貴重な思い出だった。
ついでに書けば、僕はそれまでにカップ知識はたいしてなかったけど自分の好みをそのまま意見にして言えたし、強いて言えばコーヒー店でバイト経験してきちんと手解きを受けていたから、まったく認識ゼロではなかったが、それが役に少しは立ってクビにならず済んだ、でもそこでカップメーカーとかメーカー傾向などカップ知識は一気に広がった。

ロンドンに戻ってもっとここにいたいなって思った、 

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画像は2012年ロンドンオリンピック直前、オックスフォードの交差点とアールスコート地下鉄駅。
コロナで人通りが減ったことを思うとちょっと懐かしい風景。

さて時代は1977年、40年ちょっと前に遡って、イギリス1周の旅を終えてロンドンに帰って来た、来た時はまだ何も分からなかったけど、イギリスを一回りしてイギリスという国が前よりぐっと見えてきたと同時に言葉が前より分かるようになった、ちょっとしたやり取りはもう困らなくなってイギリスの居心地は前よりかなり変わり良くなった。
せっかく慣れて来た、外国生活に余裕が出始め、、、このまま帰国するにはもったいない、もっとこの国に居たいなって思うようになった。
まず部屋探しを始めすぐに見つかった、知り合いの日本人からバイト情報が入った、「英語学校でこんな情報を見つけたよ、「Wanted Japanese boy.」まずメモに書かれた電話番号に電話しアポイントを取って訪ねた、正直な話、前なら電話でアポを取ることなど出来なかったが、それがもう出来るようになっただけでも進歩した。
住所頼りに訪ねた所はウインブルドンの高級住宅街だった、ロンドンでは当時A5サイズくらいの本でAtoZ Mapは誰もが持っていた地図がある、(ネット時代にまだあるのかは不明だけど)住所をアルファベット検索すればロンドンのどんな場所でもさっと場所がわかる。
それを頼りに行った先がウインブルドンだった、あの当時はウインブルドンなんてまったく認識がなかった、今なら世界的なテニスの試合が行われるから誰もが知る場所だけど、、、、
それまでの行動範囲はテムズ川を越えてどこかに行く目的がなかったが、それを機に初めて川向こうの街を訪ねた、自転車でも案外時間はかからず20分ちょっとでウインブルドンに着いた、そしてそこで見た風景はこれまでに見たことがない高級住宅街だった、目に入った住宅それぞれが大きな庭付き、、、建物前の玄関先ですら2〜30坪くらいはありそうな広さだった。
ロンドンの中心の住宅街にはこんな街並みは全く見られない、やはり中心住宅街の多くは、、、、当時はまだ認識が低い見方しか出来なかった、、、その気分をどう描けば良いのやら、、、、パッと見た印象は、そこは雑多でザワザワした街、アラブ系、黒人の移民が多く自然と警戒スイッチが入る、特に移民たちを差別する考えはサラサラないが、とは言え、、、、ずーっと白人ばかりの北部イギリスを旅してきた目からすれば、移民たちの街はやはり異様な空気に圧倒された。
何も知らない僕にとって、そんな街は正直言って居心地が良さそうな街とはとても言えない得体の知れない怖さにも似た気分だった、そこに住むにはそれなりの覚悟が要った。
その点ではテムズ川を越え中心から外れたウインブルドンの住宅街はどの家も大きな屋敷ばかりの住宅街で、買い物用で住宅街を歩くだけでもなんだか優雅な気分になれた、明らかにロンドン中心のガラの悪そうな街とは気分が違う、そこで生活できることが例え下働きとは言え、なんだか気分が優雅になれた。
給料は安かったけど毎日英語で生活できるだけでも僕には持って来いだった、仕事は各部屋、台所、トイレの掃除、庭の手入れ、外の場合ジャマイカ黒人の手伝いが主な仕事だった。
所詮は下働きだから日々の仕事はつまらなかったけど、一人のイギリス人と毎日英語で話しをする習慣は代えがたかった、朝一番にその日の仕事を言い渡される、指示されたことが理解出来ないと仕事にならないから必死になって聞いた、一人の人と毎日英語で話す習慣はとても良かった、イギリス人の話クセとか、こういう時にこういう言い方をする、その生の英語が身に付くようになる。
それともう一つ、英語以外にも彼らの生活習慣、テーブルマナー、日本では触れられない彼らの考え方、価値観、習慣などが見えてくる、こういう時、こういう言い方をするんだ、、、とやっとイギリス人に触れた気がした。
そこに居た時はうんざりする仕事の日々だったけど、、、今思えば、あの時、あのホームステー体験がないまま帰国したならイギリスに対する思いはもっと浅いものだった、言うなればイギリス人のねちねちした感情が英語とともに僕の中に入って来てイギリス人と言うものがより理解できた、それはそれで案外貴重な体験だったと今にして思う。

ロンドンを一言で語るとしたら、、、なんて言えば良いのかな、、、、もちろんそれは40年以上も前の話だから、今とは比較にならない体験談だけど、とは言え、パッと見た感じでは、ロンドンは外から思うほど、そんなに豪華な街ではない、どちらかと言えば日本人の印象に比べてはるかに地味でパッとしない街だった、少なくとも消費力は日本とは比べ物にならないくらい質素だと思う、ヨーロッパ全体ではビックカメラのような量販店文化が街のど真ん中にはない。(あるかも知れないけど日本の比じゃない)
日本とヨーロッパでは国のあり方、スタイルが根本的に違うからなのか安易に比較はできない、時々、気軽に数週間くらいブラブラしたいなって思う、今ならそんなに難しい話ではないが、今はコロナでそれは叶わない。
とは言え、海外に行き慣れていないと精神的に抵抗感があるだろうけど、その辺が自由に気楽にいられるのは良いなって僕は思うし、そうありたいと思うから、若いころに僅かでも生活体験をしておいてとても良かったと思ってる。
もしあの当時それをやっていなかったら、今とは違う生き方になっただろうな、、、、て思う。

イギリス自転車旅行で英語力が上達していた。 

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イングランドからスコットランドに入り、さらに北上したけどそれに伴い気温も下がり雨に降られることが日に日に多くなった、雨に降られ寒さが身に染みた、もうこれ以上の北上は体がもたない、Ullapolと言う街が僕のイギリス最北端だった、、、、、そこで悔しかったけど南に進路を変えた。
寒くなりかけた時期に旅したせいか、スコットランドとイングランドは明らかに風景が違った、スコットランドは荒地が多くどこか殺伐としていた、それにくらべてイングランドは豊かな印象だった、スコットランド人は自分たちをスコティッシュと呼びイギリス人と一緒にされたくない感じが話っぷりから感じた。
時々、スコットランドの1ポンド紙幣がイギリスポンドに混じって返ってくることもあった、異邦人にとってはこれと言った両国の違いは感じられなかったけど、スコットランドの方が明らかに貧しいのが分かった、また老人たちの話す英語発音には独特のクセがある人がパラパラいた。
後で知ったけど、スコットランド人、アイルランド人、ウェールズ人はケルト人で彼らにはゲール語という言葉もある、それに対してイングランド人はアングロサクソン、基本的に人種も歴史も違うこともこっちに来てやっと知った。

僕はわりと気楽に自転車でイギリス全土を回ろうと考えたけど、イギリス本島はそんなに小さな島ではない、上から下までは本州の端から端までに似た距離だからそうカンタンな旅ではない、でもイギリスはアップダウンがなく走りやすい、道路も日本みたいにトラックがバンバン走る往来の激しい道路じゃなく自転車は走りやすかった。逆に、あれだけの経済大国なわりにイギリス全体があんなに牧歌的で穏やかなのはなんとも不思議だった、それだけ植民地に依存してたんだなって思う。
でもやはり長距離のイギリス全土を自転車踏破は決して楽ではない、それまで日本で自転車の旅経験があったからできたこと、自転車メンテナンス力がないとそんな気にならない、旅の途中で自転車の修理、部品取り替えは何度かあった、細いタイヤのわりに重い荷物で走っていたからタイヤ負荷が結構あり途中でタイヤを替えた、変速機ワイヤーもブレーキワイヤーも摩耗して替えた、これらは自転車購入時にスペアーも工具と一緒に用意した。
ある程度の経験がなければ自転車での旅なんか出来ない、仮にスコットランドの野原で自転車がNGになったらもうお手上げだ、そんな用意周到のわりにマトモな雨具がなかったのは大きなミスだった。でも持てる荷物は限界だったから不要なものは持てなかった、とは言えイギリスの長旅で雨具がないのは絶対的な致命症だった。
もう一つ書くべきことは、ロンドンで生活を始めて、意外だったのは、現地に行けば英語学習チャンスなんて空気のようにいくらでもあると思っていた、これは滞在者みんなの共通問題だ、実態は多くは思い通りにはなっていない、気がつくと日本人同士で固まってイギリス人の中になかなか入れず英語は思い通りに上達しない人が案外多い。現地で暮らそうがそこでどんな生活をするかで、その人の語学力アップに差が出る、中には5〜6年もイギリスで生活しても満足に話せない人はたくさんいて、そんな人にも何人か会ってきた。
僕だって関わってくれる特定の友人はいなかったから旅に出た、考えたら彼らだって毎日ヒマじゃない、何らかのキッカケがないと言葉ができない僕らと接点なんか持ってくれない、もし英語を本当に覚えたいなら日本語を使わない生活環境に飛び込むしかない、例えば日本人がいない田舎でホームステーして英語学校に通うとか、英語だけのバイト先を見つけるとか、、、、
僕はもうこれ以上日本人社会に居たくない理由でイギリス全土の旅に出たがそれが結果を結んだ、ユースホステルで同宿者たちと話すチャンスが毎日あった、少なくとも日本料理店でアルバイトしてたよりずーっと良かった、知らぬ間に会話力がすらすらと上達した、新しい表現力が増えたとかよりも話すことに慣れたとでも言うのか、、、
自分のこれまでの潜在的英語力が瞬時にさっとスラスラ出るようになった、相手の言うことも理解できるようになった、たいした進歩ではないにしても、この進歩は話せないころより大きな進歩だった、一緒に自転車旅ができる友達にも出会えたり、、、イギリス1周の旅を終えてロンドンに戻ると出る前に比べて会話力は格段に上がっていた自分に驚いた。
正直なところ、自転車旅行を終えたら帰っても良いかなって思っていたが、まだビザも残っていたし、このままもう少し イギリス滞在を続けても良いかなって思い始め、新たなバイト先を探したら、運よくロンドン郊外の高級住宅街の豪邸で住み込みバイトを見つけホームステー下働きすることになった。

イギリスを自転車で北上した 

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さていよいよ自転車でイギリス全土の旅に出た、スコットランを目掛けてどんどん北上したが、旅に出てイギリスって国が やっと見えてきた、イギリスとはテレビに映るあのロンドンのイメージばかりだけど、それはイギリス全体からすれば特殊な街で、イギリスとはもっと遥かに牧歌的な国なんだなってことがやっと分かった。
自転車でイギリスを北上しながら感じたのは、この島は平坦な土地が多く自転車の旅が非常に向いている、とにかく楽しい、逆に日本の自転車の旅は坂が多すぎる、ちょっと遠出すればすぐ山に差し掛かり坂ばかりが日本のサイクリングの辛いとこ、日本の風景は山に囲まれたところが多く平坦地をゆったり走りたければサイクリングはあまり楽しいところではない。
ついでの話だけど、イギリスで自転車右折する場合、車と同じようにする、交差点右折前に道路中央に寄って車と一緒に右に曲がる、仮に同じことをもし日本でやったらえらい目に遭う、車からブーブー鳴らされる非難轟々は間違いないし、また危なくて出来ないだろう、、、もし警察に見つかれば、即刻、ど叱られる、イギリスでは車が自転車に当たり前に注意を払ってくれるしこれが普通のことだから誰も怒らない、でもこれを初めての時、ロンドンのど真ん中、交通の激しい道でやってかなり怖かったけど周りが避けるから案外心配ないことが分かった。
イギリスでは自転車を格下扱いはしない、自転車だろうが、車だろうが変わらない、その代わり夜間走行は、前方ライトと赤の後方ランプを付けていないと厳しく叱られる、下手をしたら罰金モノかも知れない、昨日書いたように権利は保障するがルールは絶対に守なくてはならない。日本はそこが曖昧で下手をしたら歩行者と同等でしかない。

さていよいよマンチェスターまで北上した、宿は別のローカルな場所に宿泊した、たまには休みにしようとマンチェスター見学することにした、宿から鉄道駅まで自転車で、、、駅で駐輪のつもりで駅員に駐輪したいんだけどと聞いたら、ごくヒマな田舎の駅だ、自転車1台くらい当然置けるつもりで聞いたら、「駐輪はダメだよ、、、、マンチェスターまで自転車を一緒に持って行け、、、」と言われた。
一瞬耳を疑った、「この人は何を言ってるんだろう?、、、そんなことマジにできるのか?電車に自転車を持ち込めるのか?」と聞いたら、「Yes !」とあっさり答える 、プラットホームを自転車を引いて歩き、電車に自転車一緒に乗った。持ち込みには指定車両があるのか、決められた場所があるのかが分からない、、、とにかく一般車両に自転車持ち込みんだら、乗客はみんなでこっちをジロジロ見る、なんとも居場所のない気分だった、もしこんな時もっとスラスラと英語ができたら自転車はどこに持ち込めるのかと他の乗客に聞くが、、、なんせ英語が話せなかった、、、。
さらに古都ヨークを経てもっと北上した、、、、イングランド北部ヨークシャーあたりまで来ると風景がどんどんワイルドになった、野原の国道を自転車で走るとうさぎがピョンピョンが飛び跳ねていたりリスもそこらにいたり、時々トナカイみたいなりっぱなシカが数頭群れでいたり、、、道路では毎日のようにウサギが轢き殺された死骸を見る、でもイギリスってこんなに自然豊かな国だったのかとあらためて驚いた、そしてついにいよいよスコットランドに入った。
入る時、そこには大袈裟な国境と入国審査がまたあるのかと思えば、、、、そんなものはない、ただの県境となんら変わらなかった、スコットランドだろうが、、、鉄道も郵便ポストも電話ボックスも通貨も、すべてイギリスと変わらない、全てが同じでここは国が違うって言うが僕ら日本人には何一つ変わらない、どこが国が違うのか今ひとつピンと来ない。
イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つでブリテンは成り立っている、それぞれは一応国としてそれぞれの国旗があるが、だからと言って果たしてそれを国と呼べるのか、、、、一地方にしか感じられず、実態が分からない、ただイングランドとスコットランドは、日本と韓国みたいに民族も違う、英語は通じるがスコットランドは独自の言語、文化あって、違うのは分かるが僕ら感覚ではそもそも「連合国」の意味が実感として意味が分からない。
スコットランドの首都エディンバラにせっかく来たんだから走るのはやめて2〜3日腰を落ち着けることにした、街では男がキルト(スカート)姿で歩くのを何回ともなく見た、バグパイプの演奏をするストリートミュージシャがそこらにいた、エディンバラの街の印象は大きな街ではなく、どことなくどんよりグレーな印象だった、今ならもっと違う見方ができるだろう、もっと発見があると思うけど、当時はそんな見方しかできなかった。
さらに北上は続く、エディンバラからネッシー伝説で有名なネス湖を通過してさらに北上した、当然のことながら気温はどんどん寒くなって行く、雨も日に日に多くなり始め自転車旅行はキツくなった、雨さえなくて気温もまあまあならスコットランドの荒涼とした野原を自転車で走るのは楽しい、しかし雨にやられ寒さとの戦いは精神的にどんどん疲弊し持たなくなり始めた。
この時期(9月のはじめころ)スコットランドの気候で雨がしとしとと増え始め気温がどんどん下がる、スコットランドはイングランドに比べて寒い、しっかりした雨ガッパと防寒具を準備しなかったことを後悔した、雨はキツかった、、、、、イギリスは日本のように1日中雨が降らない代わりに、日に1〜2回、降っては止んでまた降って、、、、を繰り返す、これが毎日繰り返さされるから寒さには深刻に悩み始めた、、、、、、。